聖書:イザヤ書40章6~11節・マルコによる福音書13章13~27節

説教:佐藤 誠司 牧師

「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40章8節)

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(マルコによる福音書13章26節)

 

主イエスがエルサレムにお入りになって、何を語られたか。信じ難いことに、主イエスは、ここエルサレム神殿の崩壊を予告し、エルサレムの滅亡を予告しておられます。

「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」

エルサレムが敵の軍隊に包囲されることを預言しておられる。これはもう尋常ではありません。事実、この預言は紀元70年のユダヤ戦争で現実のものとなります。前の年からすでにエルサレムを包囲していたローマ軍によってエルサレムは陥落するのですが、このとき、ユダヤの人々は徹底抗戦を試みます。エルサレムとその神殿が憎きローマ軍に包囲されたのですから、ローマへの積年の憎悪も手伝って、人々は徹底的に応戦したのです。そして最終的には、安息日にローマ軍が攻めてきまして、安息日規定を遵守するユダヤの人々は武器を持つことをなく、殺されていったのです。

ところが、エルサレムにすでに誕生していた教会は、どうしたかと言いますと、ローマに抗戦することをしなかったのです。彼らはエルサレムが陥落する直前に、エルサレムを脱出して、ヨルダン川を渡って逃げました。逃げることを潔しとしなかった人たちもいたでしょう。同胞を見捨てることに抵抗を覚える人たちもいたに違いありません。しかし、エルサレム教会の人々は逃げました。なぜでしょうか? 今日の個所の21節の言葉があったからです。

「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」

あなたがたは逃げなさいと主イエスは言っておられるのです。敵と戦うことに、命を賭ける必要はない。国のために命を捨てることはない。この、主イエスのお言葉が人類に与えた影響というのは、じつは計り知れないものがあると私は思います。

私たちは、逃げることを潔しとしないところがあります。逃げるのは卑怯者、逃げるのは臆病者のすること。だから、あいつは大変なときに、仲間を見捨てて逃げた、と、そう人から言われるのが何より怖い。ところが、主イエスは、いともあっさり、逃げなさいとおっしゃる。何も自分を咎める必要はない。逃げたらよいとおっしゃる。

私は、これは主イエスの心遣いであろうと思います。ひょっとして主イエスは、すでに予見しておられたのではないかと思う。主イエスが捕らえられたとき、弟子たちが皆逃げ去っていく。そのことを予見しておられたのではないかと思うのです。もしそうであれば、主イエスが弟子たちを逃がしてやったことになります。私は実際そうであったろうと思います。主イエスは弟子たちを敵に手渡すことなく、逃がしてやったのです。そして主イエスを見捨てて自己嫌悪に苦しむ弟子たちの前に復活の御自身を現して「あなたがたに平安があるように」と祝福してくださったのです。

 

このあと、主イエスは、じつに激しい語調で、この世の終わりについて語っていかれるわけですが、この世の終わりが来る前に、キリストの福音が全世界に宣べ伝えられなければならないと言っておられる。先週読んだ10節に、こう書いてありました。

「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」

なぜ、この世の終わりが来る前に、キリストの福音が世界中に伝えられなければならないか。それは、キリストの福音こそ、世界と命に対する神様の御心を明らかに示すからです。

キリストの福音って、何ですか? ここは勘違いをしてはならないところです。キリストの福音というと、私たちはつい、イエス・キリストの誕生から十字架と復活まで、つまり福音書に書いてあることだけを福音なんだと考えてしまいますが、じつはそうではないのです。もし、そうであるなら、キリスト教会は旧約聖書を正典とはしなかったでしょう。どうしてキリスト教会は、キリスト出現以前のことを語っている旧約を正典として受け入れたかと言いますと、旧約聖書もキリストの福音を語っているからなのです。たとえば、旧約の最初に何が書いてありますか? そう、天地創造の物語ですね? 神様が何もないところから天地を創造された。世界とそこに住むすべての命を創造された。そういうお話ですが、キリスト教会はこの創造物語の中にキリストの福音を見るのです。一度聖書を開いてみてください。最初に何と書いてありますか?

「初めに、神は天地を創造された。」

そう書いてありますね? では最後には何が書いてありますか? 新約のヨハネ黙示録の最後です。

「然り、私はすぐに来る」という約束の言葉のあとに、「アーメン、主イエスよ、来てください」という言葉で終わっています。これ、祈りの言葉でしょう? 人間がささげる最後の祈りでしょう? 「光あれ」と「主イエスよ、来てください」。創世記の最初の言葉と黙示録の最後の言葉は繋がっているのです。この世を造られた神様と、この世の終わりにもう一度来てくださるキリストがピタリと重なって、ああ、私たちが信じている神様とは、こういうお方であったかと分かる。キリストというのは、父なる神様の独り子だとばかり思っていたけれど、キリストというのは神様ご自身のことだったのだと分かる。これが福音の全体像なんです。聖書全巻が証するのがキリストの福音です。

さて、そう考えますと、主イエスが今日の箇所で語っておられるこの世の終わりは、じつは創造物語と深い関係にあることが分かります。

これらは、うっかりしますと、神様はこの世を滅ぼそうとしておられるように読んでしまうところです。が、本当にそうなのでしょうか? 確かにここには恐ろしげな天変地異が語られています。しかし、それは単なる災いではない。

今日読んだイザヤ書40章に、こんな言葉がありました。

「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

創世記によりますと、神様は言葉によってこの世を創造されたのでしょう? 神様の言葉というのは、すべて約束の言葉です。「光あれ」というのも、そうです。「すると光があった」というのは約束の成就のことです。光と闇を分けられた。陸と海を分けられた。天と地を分けられた。あるいは男と女を分けられた、というふうに、創造というのは、あるものとあるものを分ける御業でした。しかし、神様はただ単に天と地を分けただけではなくて、その両者の間に絆を置かれたのです。男と女がそうですね。ただ男女を分けられたのではなくて、男と女の間に絆を置かれた。これが創造の御業です。ということは、世の終わりには、男と女が、あるいは天と地が、その絆によって一つとされる、という御業が起こる。つまり、聖書が語っている世の終わりというのは、ただの天変地異ではありませんし、人の不安を煽るものでもない。滅びでもない。創造が神の愛のうちで行われたように、世の終わりも神の愛と慈しみの中にある。この世の初めに分けられたものが、一つとされる。そして、26節でこう語られていきます。

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」

人の子というのはイエス様のことですね。再臨の主イエスのことです。その再臨のイエス様を人々は見る、というのです。あなたがたは見る、というのではなくて、人々、つまり、すべての人が私を見る、というのです。これ、どういうことなのでしょうか?

ヨハネ福音書の中に、弟子のフィリポがイエス様に「私たちに神様を見せてください」と願う場面があります。そのとき、イエス様は何とお答えになったでしょうか? 「私を見た者は、父を見たのだ」とおっしゃったでしょう? この世の終わりに、すべての人が再臨の主イエスを見る、雲に乗って栄光に包まれてやって来られるのを見る、というのは、神様を見るということなのです。神様を見るときに、どうやって見ますか、恐る恐る見る、という人もあるでしょう。見ることなんか出来ないという人もあるでしょう。しかし、主イエスは人々は人の子を見ると言われる。さあ、私たち人間が再臨のキリストを見るとは、どういうことなのでしょうか。

旧約聖書の人物に、ヨブという人がいます。ヨブは大変な苦難に遭遇しますが、はじめのうちは「主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほむべきかな」と殊勝なことが言えたのです。ところが、だんだん苦難が増し加わってきて、ヨブはついに、神様に向かって「どうして私はこんな目に遭わなければならないのですか」と言って訴える。これは人間として当然のことですね。けれども、よく考えますと、ヨブという人は天下に並びのない義人のように言われますが、じつは本当に神様に出会っていたかというと、そうではなかった。信じているのだけれど、それは彼が信じているだけなんです。神様とのお交わりを、ただ決められたとおりにきちんとやって、落ち度がない。その程度だった。それが、激しい苦難、苦しみにあって、今まで信仰だと思っていたものがガラガラと音を立てて崩れてしまう。神殿の崩壊といのは、そういうことですね。そして、もう自分の中にはよりどころがなくなった。そのときに、ヨブは何を求めたかというと、直接神様に会うこと、直接神様の言葉を聞くことを求めたのです。面白いのは、友達がやって来て、ヨブに信仰の話をしますね。すると、ヨブは、そんなものではダメなんだと言う。信仰の話なんかは、ヨブもついこの間までは、よその人にしていたのです。しかし、今の苦しみの中で、本当に力になり、慰めになるのは、信仰の話ではない。ヨブ記の凄いところは、ここです。今の私たちで言ったら、もう説教なんか問題ではない、信仰の話なんか、要らないというわけです。神様と直に会いたい、聞きたい。ヨブは叫び続ける。

そのヨブに神様は、どうお答えになったでしょうか? 神様は、ヨブがどうしてこんな苦しい目にあうのか、なんてことは一切言われない。その代わりに神様は「お前はいったい何者か」とおっしゃる。私が世界を造ったときに、お前はどこにいたのかと、言われる。さあ、ここにも創造が出て来ましたね。さあ、ヨブはどう答えたでしょう? ヨブは言います。

「今までは、わたしはあなたを人づてに聞いて信じていましたが、今わたしはあなたをこの目で直接仰ぎ見ます。」

人間の究極の望みと言うのは、自分を創ってくださった神様を直接仰ぎ見ることでしょう? あなたがこの私を愛して造ってくださったのですねと言って、神様を仰ぎ見、その御言葉を直接聞くことが出来るなら、どんなに幸いなことでしょうか。そこで私たちは何を確認するか。私の命は、神の愛の中にあり続ける。この一点を確認するのです。主イエスが言われる「永遠の命」とは、そういうことです。

だから主は言われる。人々は人の子を見ると言われる。身を起こし、頭を上げて私を見なさい、私の言葉を聞きなさい。これが世の終わりに、私たちキリスト者に与えられる示される恵みの言葉です。ということは、どうでしょうか。私たちは今、礼拝の中で同じことをしています。礼拝というのは、世の終わりに起こるその恵みを先取りしているのです。礼拝とは、世の終わりの時と今の時を繋ぐ架け橋ということです。

私たちにとって大切なのは、終末が来る、世の終わりが来ると言って騒ぎ立てることではありません。むしろ、終末が来ることを弁え知ることによって、現在の歩みや生き方を主の前に整えることではないかと思うのです。ですから、大事なのは、ただ単に終末を弁え知るだけではなくて、終末を弁え知ることによって今を健やかに生きることです。だからこそ、私たちは、七日のたびに礼拝に集い、御言葉を聞くのです。赦しの御言葉を聞き、赦された者として、礼拝から遣わされて行く。主のお姿を仰ぎ見る。これこそが今を健やかに生きることではないでしょうか。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月30日(日)のみことば(ローズンゲン)

「主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々にあなたのまことを告げ知らせます。」(旧約聖書:詩編89編2節)

「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(新約聖書:ローマ書10章9節)

今日の新約の御言葉は二つのことが言われています。一つは「イエスは主である」ということ。そして二つ目は「神がイエスを死者の中から復活させられた」ということです。この二つの言葉を、パウロは特に重要視しているわけですが、どうしてこの二つを重要視しているかと言いますと、この二つの言葉が、当時の教会で洗礼式が行われる際の信仰告白の言葉として大事にされたからです。

当時はまだ使徒信条のような整えられた信仰箇条はありませんから、洗礼を授ける際に、受洗志願者に向かって「あなたはイエス様を主と信じますか」と問う。すると志願者は「ハイ、信じます」と明確に答える。次に「あなたはそのイエス様を神が死者の中から復活させられたと信じますか」と問う。すると志願者は「ハイ、信じます」と答える。そこでこの二つの信仰の告白に基づいて、洗礼が授けられたのです。確かにこの二つの言葉は、素朴です。しかし、代々の教会が大事にしてきた信仰の言葉というのは、おしなべて素朴なのです。