聖書:イザヤ書53章1~12節・マルコによる福音書15章33~39節

説教:佐藤 誠司 牧師

「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」(イザヤ書53章4~5節)

「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか』という意味である。」(マルコによる福音書15章34節)

「百人隊長がイエスのほうを向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(マルコによる福音書15章39節)

 

今日は棕櫚の主日。受難週の歩みが、この日から始まります。今日はそれにふさわしく、マルコ福音書の第15章が伝える十字架の物語を読みました。十字架と言えば、イエスというお方は、十字架の上で七つのお言葉を発せられたと理解されております。讃美歌にもそのようなことを歌った曲がありますが、マタイ、ルカ、ヨハネの三つの福音書は、立場の違いこそあれ、十字架上の主イエスのお言葉を、大切に取り上げて記録しています。

ところが、それらに対してマルコ福音書は、どうしたかと言いますと、これがじつに大胆でありまして、なんとマルコは、十字架上の主の言葉の多くを、そぎ落としているのです。いかにも簡潔さを尊ぶマルコ福音書らしいところです。そして、マルコは、たった一つの言葉だけを伝えている。それが、この言葉です。

「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか』という意味である。」

この括弧でくくられた部分は、詩編第22編の御言葉です。主イエスは十字架の上で詩編22編の言葉を叫ばれたのです。このことを、どう理解するかが、じつは解釈の分かれ目になります。大きく分けて、ここは二つの解釈があります。

一つは、イエス様は十字架の上で詩編の22編を暗誦されたのだという解釈です。この場合、イエス様は詩編22編を全部暗誦しようとされたのだけれど、力尽きて最初の所だけで終わってしまわれたのだと理解するわけです。この詩編は、神から見捨てられた悲しみで始まっていますが、終わりはそうではありませんで、むしろ、感謝と喜びで終わっています。ですから、この解釈ですと、イエス様は必ずしも、神から見捨てられたことを嘆こうとはなさらなかったのだという理解に立つことになります。これが長くプロテスタント教会が伝統的に支持してきた解釈です。

ところが、これに対して、特に近年になって批判が出て来るようになった。どういうことかと言いますと、死の間際に詩編を暗誦するなどということが、あるだろうか、と疑問を抱くのです。これが第二の解釈です。この解釈に立ちますと、イエス様は神から見捨てられたことの深い嘆きと悲しみを詩編の言葉に託して叫ばれたのだという理解に立つことになります。皆さんは、どちらの解釈に立たれるでしょうか。私は、第一の解釈は、いささか無理があると思います。主イエスは神から見捨てられて殺された。主イエスは神から見捨てられたことを心底悲しみ嘆いて、その苦しみのうちに死んでいかれたのだというのがマルコ福音書の主張です。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

これは明らかに主イエスの絶望の声です。嘆きの声です。神の子であるお方が、神に見捨てられて死んでいかれる。神の怒りを一身に受けて、呪われて、死んでいかれる。それを、神様は黙って見ておられたのです。ただ一つ、独り子の死を深く悲しまれた神様の御心を現す出来事が、短く記されています。それが38節です。

「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

この垂れ幕というのは、エルサレム神殿の一番奥にある至聖所と呼ばれる場所の内と外を隔てる幕のことでして、この至聖所には、その年の大祭司が年に一度だけ、大贖罪日と呼ばれる日に入って犠牲動物の血をささげる。それによって人々の罪を贖い取る。そういう儀式が行われたのです。従いまして、この垂れ幕の向こう側には、大祭司しか入ることを許されていない、特別の場所なのです。その特別の場所と外の世界を隔てる垂れ幕が、裂けた。しかも、上から下に裂けたと書いてある。これは人の手によることではない。父なる神様の深い悲しみと怒りが、こういうところに現されたということでしょう。

そして、もう一つ、至聖所の垂れ幕が引き裂かれたことの背後には、マルコ福音書独自の神学的な意味が隠されていると思います。至聖所には年に一度、大祭司が入って、人々の罪を贖う動物の血を降り注ぎました。それは毎年、繰り返されました。一度だけではダメなのです。毎年、やらなければならなかった。つまり、この罪に贖いは、完全ではないということです。

しかし、今や、イエス・キリストの十字架の御業によって、まことの贖いが成し遂げられた。これは完全な贖いです。毎年やらなければならない、などというものではない。だから、もう至聖所は必要が無くなった。そして、神と人とを隔てる垂れ幕も必要なくなった。だから、至聖所の垂れ幕は上から下に、神様の御心によって真っ二つに引き裂かれたのです。

さて、ここでもう一度、十字架の上で叫ばれた主イエスのお言葉を深く味わってみたいと思います。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

私たちが、この言葉によって深く心に刻まなければならないのは、父なる神様がご自分の独り子である主イエスを裁いておられる、見捨てておられる、という信じ難い事実です。なぜなのでしょうか。なぜ、神様はご自分の独り子を裁き、見捨てられるのか。ここで私たちが思い至るのは、クリスマスの出来事です。神の独り子が人として生まれてくださった。私たち罪人と全く同じ肉体を持つ人間となって、この地上に生まれてくださった。それがクリスマスの出来事でした。なぜ、神の子が人とならなければならなかったか。それは、このお方が、すべての罪人の代表として、神に見捨てられ、裁かれて死んでいくため。イザヤ書53章の次の言葉が成就するためだったのです。

「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」

主イエスは、まさに私たちの代表者になってくださった。そして、身代わりになってくださった。神様に見捨てられて死ぬという、誰も耐えることが出来ない苦しみ、誰も担うことが出来ない重荷を、主イエスは負うてくださった。それが主イエスの十字架の本当の意味です。

そして、このお方が息を引き取られた、その時に、何が起こったか。それをマルコ福音書は、次のように描いております。39節です。

「百人隊長がイエスのほうを向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」

主イエスの死の有様を見て、百人隊長は「本当に、この人は神の子であった」と言ったと言うのです。これが他の三つの福音書には見られない、マルコ福音書独自の主張です。これは、主イエスが神の子であることと、主イエスが十字架で惨めに死なれたことを結び付けた初めての信仰告白です。主イエスの十字架こそ、私たち罪人の救いなのだと初めて告白したのが百人隊長だったのです。百人隊長の務めって、どういうことだと思われますか。それは刑の執行は兵隊たちに任せて、刑の執行にまつわる、すべてのことを見届けることです。つまり、主イエスの死の有様を最もつぶさに目撃したのは、この人だったということです。そして、彼は、主イエスの死の有様だけでなく、その背後に隠された真実を見抜いた最初の人になったのです。

さあ、マルコ福音書の十字架の物語の特徴とは、どういうことでしょうか。

それは、父なる神様がご自分の独り子である主イエスを裁いておられる、見捨てておられる、という、その一点こそマルコ福音書の最大の特徴です。主イエスは父なる神に見捨てられて死なれた。マルコ福音書が伝えているのは、そこです。

神様は人間を救うために、独り子であるイエス様をこの世に送ってくださった。それは皆さんもご存知だと思います。しかし、それなら、なぜ、神様は、ご自分の独り子を十字架にかけられたのだろうか? これは、教会学校の子どもでも抱く素朴な疑問のようでいて、じつはキリスト教信仰にとって、とても大事な点なのです。

これは人間の常識からいえば、とても考えられないことです。耐えられないことです。我が子が、罪も無いのに、十字架で殺されていくのを黙って見ておる親は無いわけでして、何とかして助けようとするでしょう。人間だったら、力が及ばないので、罪も無い我が子が殺されていくのを見ていなければならないかも知れません。

しかし、全能の神様ですから、イエス様を助けようと思えば出来ないはずはないのです。それだのに、イエス様が十字架で苦しみながら殺されていくのを、神様は黙って見ていたということは、神様のほうに、それだけの理由があるわけです。その理由とは、いったい、何であろうか? なぜ神様は、愛する独り子が殺されゆくのを黙って見ておられたのか? そこには、どういう目的があったのか?

これは素朴な疑問ではありますが、難しい問題です。でも、こう考えてみるなら、どうでしょう。そうしなければ神様は、人間を救うことが出来なかったのだと考えてみるのです。人間が一生懸命努力をして頑張って、良い人間、正しい人間になれるのだったら、キリストが来られなくても良いのです。「努力して頑張りなさい」とか「こういうふうにやれば、良いのですよ」と教えてやるだけで事足りるわけです。ところが、一人も、そういうふうにして救われる者はいない。人間が努力や精進で救われることはない。だから、それとは全く違う方法で救われなければならない。それは、いったい何か? それは、神様が全部それを引き受けて、神様の業によって、そのことを成し遂げる。それしかなかったのです。

パウロという人は、ここに目が開かれた最初の人です。マルコ福音書に入る前に礼拝で読んだローマ書の中で、パウロはこう述べておりました。

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人、神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

律法によっては罪の自覚が生じるのみだ。これはパウロが発見したことです。パウロは、じつに大変なことを発見したのです。ユダヤ人は他の異邦人とは違って、律法を持っている。これは民族としての誇りだったのです。その同じユダヤ人の中でも、律法を忠実に守っている模範的な人々には、大変に大きな誇りがありました。律法は、それを守る守らないによって、同じユダヤ人の中に差別を生じさせたのです。守っている人と守っていない人の差別化が生じました

しかし、パウロは律法については、あらゆる人間に差別は無いと言い切った「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」と言い切って、詩編の14編を引用して次のように語ります。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」

正しい人は一人もいない。パウロはその一点を力を込めて語っております。なぜそのような暗い、絶望的なことを力説するのでしょうか。正しい人は一人もいない。このことは言葉を替えて言うなら「みんなが滅びる」ということです。みんながダメなのです。確かに絶望的です。しかし、このことには、じつはもう一つの意味が隠されている。そして、ここがキリストの福音の非常に大事なところです。

どういうことかと言いますと、そういう誰一人差別の無い、同じように罪を犯し、同じように滅びるべき者が、すべて同じように救われる道が、ここに開かれた、ということです。

私たちは「救い」ということを、よく口にしますが、案外、心の中では「私なんかダメだ」と思っているのではないでしょうか。律法の行い、自分の行いによって救いに与るのであれば、確かに人間にはいろんな差別があります。「私はダメだ」と言う人もたくさんおられると思います。

しかし、神様がイエス・キリストにおいて示してくださったものは、いったい」何だったでしょうか。それは、皆が栄光を受けられなくなっているけれど、皆の者が一人の落ちこぼれも無く、「価なしに、神の恵みによって、キリスト・イエスの贖いによって義とされる」ということです。代償が要らない。神様の前に「私はこれこれのものを持って来ましたので、一つ入れてください」と言う必要はない。手ぶらで良い。価なしとは、そういうことです。全く無償で私たちに与えられる。それが十字架による罪の赦しであり、贖いです。それは、まさに神の恵みによる、救われる値打ちの無い者を救い、祝福する価値の無い者を祝福する。これは神様の恵みです。これこそが、救われる値打ちの無い者を救う、神様の恵みの計画です。

たちは、このことを本当に心に刻み付けるべきではないでしょうか? 救いということを考えるときに、自分の良さとか、値打ちとか、神様のため教会のために一生懸命働いたとか、そういうものは全然問題にならない。また自分の悪い性格とか、弱さ、醜さ、どうしようもない過ち、そういうものも、じつは問題にはならない。あるがままの自分が、神様によって祝福され、受け入れられるのだと、そこに、じつは福音の真理というものがあります。私たちは、この恵みと真理を、感謝をもって受け止めるべきだと思います。主イエスが公の生涯を歩み始められたとき、人々にこう告げられました。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」

新しい時の到来を告げる言葉です。時が満ちるとは、古い時代が終わり、新しい時代が始まる、その二つの時代の接点で、時は満ちるのではないでしょうか? 古い律法の時代が終わりを告げて、新しい福音の時代が幕を開けのです

正しい者は一人もいない。確かにそうです。しかし、キリストの福音は、そこにまってはいない。さらに続くのです。正しい者は一人もいない。しかし、キリストの十字架の救いから漏れる者も、一人もいない。ここが福音の急所です。私たちは皆、一人も漏れることなく、救われている。この救いを受け入れることが大事です。ああ、私を罪から救うために、イエス様は十字架についてくださったのだなあと、ここが分かることが大事です。そして、それが分かったなら、差し出された救いを「ありがとうございます」と言って、受け取る。価なしに差し出された救いを受け取る。それが信仰です。ですから、皆さん、信仰によって歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

4月2日(日)のみことば(ローズンゲン)

「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」(旧約聖書:詩編66編2節)

「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」(新約聖書:ローマ書11章18節)

私が神学校時代を過ごした教会は、東京の大きな教会で、牧師は東京神学大学で組織神学の教授を務めていました。この教会は神学生の生活と学びを支えることに、ことのほか熱心で、信じ難いことに、私は神学大学の授業料を全額、この教会に出してもらっていました。そればかりではありません。教会の一室が居室として与えられ、贅沢をしなければ十分一月やっていけるだけの生活費も出していただいていました。

どうしてこのようになったかと言いますと、牧師が「神学生というのは教会丸抱えであるべきだ」と繰り返し語ったからです。神学生というのは、とにかく熱心に奉仕をしますし、学びもします。教会の人々から愛され、頼りにもされます。しかし、そこには落とし穴があって、熱心に仕える中で、いつしか自分が教会を支えているかのような誤解を抱いてしまうのです。しかし、それは逆です。自分が教会を支えているのではなく、教会に支えていただいている。そこを知らしめるために、あの牧師は「神学生は教会丸抱え」と言ったのです。私は今日の新約の御言葉を読むたびに、このことを思い出します。