聖書:イザヤ書40章27~31節・マルコによる福音書16章1~8節

説教:佐藤 誠司 牧師

「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗るために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。』」(マルコによる福音書16章1~7節)

 

受難週が開けて、この朝、私たちはイエス・キリストの御復活を喜び祝うイースターの礼拝を迎えました。キリスト教の信仰というのは復活が鍵です。ここを外しますと、扉は開かれない。なぜなのでしょうか。

私たちは聖書を読んで、御言葉に慰めを得たり、励まされたりします。特に、イエス様が十字架の上でなさった執り成しの祈りなどを読みますと、イエス様が私たちのために犠牲となって死んでくださった、有り難いことだと思います。しかし、イエス様がそう言われ、そう思ってなさったことであっても、本当にそうなのか、イエス様がそう思い込んでおられただけではないかという疑問は、心のどこかに、それこそ、沸々とあるわけです。イエス様が十字架につけられた時、周りで見ていた人たちは、こう言いました。

「もし、お前が神の子キリストなら、今すぐ十字架から降りて来い。そうすれば信じてやる。」

私たちは、ここを読みますと、なんてひどいことを言うのだと思って憤慨してしまいますが、しかし、改めて考えてみますと、これは、私たち人間が心の奥底に秘めている切実な問いかけではないかと思います。本当にイエスというお方は救い主なのか。本当にイエス様は私のために十字架についてくださったのか。聖書はそう言っていると牧師は言うけれど、本当にそうなのか。本当に主イエスの十字架は神様の御心であり、神のご計画なのかと。こういう「本当なのか」という疑念や問いかけが、私たちの心には確かにあると思います。

じつは、ここのところが解決しない限り、私たちは本当に心からキリストを信じるということにはならない。洗礼を受けてキリスト者になった人でも、一応「信じます」とは言ってるけれど、実際に生活の中で、本当にキリストは私の救い主なのか、本当にキリストは私のために十字架にかかってくださったのかという問題に、明確な確信が持てないために、信仰生活がどこかぼやけたままの人が、案外多いのではないかと思うのです。

こういう疑念、迷いに対して、いや、本当にこれは神様の救いのご計画であって、私もこのご計画の中に引っ張り込まれて、救われているのだと、明確に保障するのが、キリストの復活です。これは、喩えて言うと、証書に署名捺印をするようなものです。証書というのは、二つの要素から成り立っていますね。一つは約束の内容を書いてある部分です。これこれ、こういうことを約束しますと、と書いてある。しかし、それだけだったら、これはひょっとして偽ものかも知れない。本人ではない他の人が、本人になりすまして書いているのかも知れない。そういう疑いが生じるでしょう。

それに対して、これは私が責任を持って約束しますと、そういう印として署名捺印をします。書名捺印の無い証書なんてものは効力を発しない。ただの紙切れです。ちょうど、そのように、イエス様の十字架は私たちの罪の贖いである。イエス様が十字架についてくださったのだから、もうあなたの罪は完全に赦されたのだ。神の子とされたのだと。そういうイエス様の約束、聖書の約束が、あなたの人生にとって本当のことであったと。そのことを保障するのは何かというと、それがイエス様の復活なのです。それが全くの想定外のことであったというのが、マルコ福音書の大きな主張です。神様は人間が想定できるようなことは、なさらない。まさに想定外の御業によって、神様はキリストの福音が紛れもない救いのご計画であることを、ハッキリと保障なさったのです。これが一つのことです。

そして、主イエスの復活の二つ目の意味は、どういうことかと言いますと、イエス・キリストが復活なさったということは、キリストが今も生きておられるということですね。これも皆さん、当たり前ではないかと思われるかも知れません。確かに、理屈で考えたら、当たり前のことなのです。イエス様は復活なさったのだから、生きておられる。当たり前です。しかし、その当たり前のことが、私たちの生活の中でどのような意味を持っているか。主イエスは生きておられるということを、私たちが信仰生活の中で具体的にどう受け止めているかということ。やっぱりここをハッキリさせておかないと、私たちの信仰というものが、どこかあやふやなものになってしまうのではないかと思うのです。

具体的なことを、一つ言いますと、福音書の中にはイエス様が語られた言葉がたくさん収められていますね。皆さんは日頃、聖書をお読みになっていて、このイエス様のお言葉を、どのような気持ちで読んでおられるでしょうか。かつてイエス様はこうおっしゃったのだと、そのような気持ちで読まれることが多いのではないでしょうか。時折聞くことですが、自分は最近どうも信仰がハッキリしないんだけれど、私もイエス様の時代に生きておれば、イエス様から直接お言葉をかけていただけて、そうしたら自分の信仰も少しはハッキリするだろうと。イエス様から直接声をかけていただいた人、直接手を置いて祈っていただいた人は、なんて幸せなんだろうと、そういうことを言う人がいます。これは決して悪いことではないのです。そういう想像の翼を張り巡らして聖書を読むことは、なんだか楽しいことですね。

けれども、どうでしょう、イエス様は過去の人なのだろうか。私たちが聖書を読む時、自分の今の生活とは関係の無い過去の出来事を読んで、その中から、今の自分の生き方に示唆を与えてくれそうな部分を切り貼りしながら読む。当てはめながら読む、その時に、私たちは、とんでもない間違いを犯しているのではないかと思います。聖書の世界と今の自分との間に隔ての壁があって、聖書の登場人物はイエス様から直接お言葉をかけていただける。自分はそうではないと。しかし、イエス様が復活なさって、今も生きておられるのであれば、そういう考えは間違いではないでしょうか。福音書の中に収められた主イエスのお言葉。姦淫の女に言われたお言葉がある、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。もう二度と罪を犯さないように」と言われたですね。また孤独なザアカイに向かって「降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まるから」と言われた。12年もの間、病にさいなまれて、顔を隠したまま後ろからイエス様に触れた女に言われた言葉があります。

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

このイエス様が、そのまま、今もここに生きておられる、働いておられる。言葉をかけておられる。聖書の世界は別世界ではない。それはずっと続いてきて、今、私たちの生きている世界、私の人生と結び付いています。だいたい、イエス様から大事な言葉をかけていただいた人物というのは、一つの共通点がありまして、生き方のどこか大事なところに弱さを抱えている。しかも、その弱さは、克服しなければならないのだけれど、この人独りでは、どうしようもない。そういう人の心の中心に投げかけられるようにして語られるのがイエス様のお言葉なのです。癲癇に苦しむ息子を抱えた父親が、イエス様に助けを求めました。その時、彼は「出来れば、助けていただきたいのです」と言った。すると、その父親の弱さを秘めた心に向かって、イエス様はおっしゃったですね。

「出来ればと言うか。信じる者には何でも出来る。」

すると、あの父親は、まるで雷に打たれたように反射的に言った。

「主よ、信じます。信仰の無い私をお助けください。」

弱さに向かって語られるとは、こういうことです。弱さをえぐるのではない。弱さを隠すのでもない。弱さの中に、力を与える言葉があるのです。だからパウロは「弱い時にこそ強い」と言った。あの時、孤独なザアカイに言われた言葉。弟ラザロを失って絶望に捕らわれていた姉マルタに言われた言葉がある。

「もし信じるなら、神の栄光を見るであろうと、あなたに言っておいたではないか。」

聖書の世界の人たちはイエス様のお言葉が聞けるからいいなあ、自分は聞けないからダメだなあと、そういうぼやきは、主イエスの復活の本当の意味を知らないから出る、ため息のように無力な思いです。そういうぼやきは、本当にイエス様が生きておられるということを、ちゃんと受け止め切れていないということではないでしょうか。その線でやって行きますと、聖書の言葉だけではダメだ、聖書の言葉、イエス様の言葉を自分で何とか料理して、工夫して、それを糧にして、頑張って信仰生活をしていかなければいけないと。しかし、それは間違いなのだと。私の弱さ、私の抱えている人としての問題。そこの中心に向かって、語りかけてくださる。私たちは福音書と同じ世界に生きている。これがイエス様の復活を信じるということの中身です。だから、イエス様の復活を信じる人は、弱さを恥じるな、弱さを隠すなということです。パウロのように「私は弱い時にこそ強いのだ」と、イエス様を喜んでいたら良いのです。それを邪魔するものは、何でしょうか。

私たちは、いつも表向きの建前で生きていく癖がついています。他人に対してもそうですけれど、どうかしますと、自分に対しても建前ばかり言って、本当の自分を無意識のうちに隠しています。これは、小さい頃から、本音を出してはいかん、本当の自分を出してはいかんと、躾けられてきたからかも知れません。表向きの建前で、その場その場をきれいにまとめて、そつなく生きていく。普通のこと、世間一般のことなら、それで良いかも知れません。しかし、本当に自分の救い、自分の本当の生き方ということ真面目にを考える時には、そんなきれいごとではダメなのです。自分の心の奥底にある弱さ、それは触れられたくないものかも知れません。しかし、それがどんなに醜いものであっても、どんなに情けない、親にも言えないような、みっともないものであったとしても、本当のものを一遍、出してみるのです。そしてそれが、キリストの復活とどう関わっているか、イエス様が今も生きて働いておられるということと、どんな関係にあるか。キリストの十字架と復活というものが、この嫌な醜い自分の問題を本当に解決する力があるかどうかということを、ごまかさないで考えてみるのです。その時には、聖書の御言葉や、信仰の先輩たちの証しの言葉、あるいは三浦綾子さんの本とかが、ある程度までは参考になる。しかし、それは、あくまで参考であって、最後の最後は、どうでしょうか? やっぱり最後は自分と神様との間で、自分だけに向けられている答えを、ちゃんと聞き取らないといけない。聞き取るのです。自分の心で聞き取る。弱さで聞き取る、それが大事です。ごまかさないで生きることです。本当の自分を出して、本当の答えを聞くことが大事なのです。

ペトロの場合も、そうでした。ペトロは、主の復活を知らされて、それでたちどころに立ち直ったかと言うと、そうではなかったですね。むしろ、彼は、もう主イエスの弟子であることを捨てて、失意のうちに、故郷のガリラヤに再び漁師になるために帰って行ったのです。ご存知のように、ペトロは主イエスが捕らえられた時、三度にわたって主イエスを否認しております。イエス様のとを「知らない」と言ったのです。そのことが、どうしても赦せずに、彼は弟子であることを捨てたのです。主イエスを三度、否認したことを忘れるために、弟子であることを捨てたと言っても良いと思います。

ところが、このガリラヤで復活のキリストが彼と出会ってくださる。そしてペトロに向かって、三度「あなたは私を愛するか」と問われたのです。三度問われた。これはペトロに、主イエスを三度否認したあの出来事を思い起こさせたに違いありません。「そんな人、知らない」と三度も否認した。あの出来事を思い起こさせたでしょう。

主イエスは、いったい、何のために、そんなことをなさったのか? ペトロの心の傷に粗塩を塗りたくるために、言われたのか。違います。

私たち人間は、自分のとんでもない失敗や醜い失態を、忘れてしまおうとする性質があります。忘れてしまうと、確かに楽なのです。しかし、そのことが本当に解決されないと、本当の生き方が出来なくなる。主イエスはペトロに、本当の生き方を取り戻させるために、あの出来事に触れられた。そして、ペトロの、そうした罪が、すべて赦され、完全に贖われていることを、お示しになりました。そしてペトロに向かって「私の羊を養いなさい」と言って、新たな使命を託されました。ここなんです。大事なのは。自分でも触れたくない本当の自分、忘れてしまいたい自分の問題が、キリストの十字架と復活と、どういう関係にあり、どういう解決が成し遂げられているのか。そこをきちんと白日のもとにさらけ出し、始末をつけていただくことが大事なのです。

ですから、皆さんお一人お一人が、自分の本当の問題は何か、その問題のために、キリストは十字架にかかり、死者の中から復活をなさったということを、真面目に考えて、心に刻んでいただきたいと思います。そして、皆さんお一人お一人が、キリストの復活を他人事のように思うのではなく、キリストの復活によって与えられている自分の救いというものを、しっかりと確認していただきたいと思います。その確認をした時に、私たちの前に、まさに想定外の生き方が開けてきます。あなたの信仰があなたを救った。安心して生きなさい。この生きた御言葉を信じる幸いが、ここから始まります。

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

4月9日(日)のみことば(ローズンゲン)

「主よ、御言葉のとおり、命を得させてください。」(旧約聖書:詩編119編107節)

「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。」(新約聖書:ローマ書7章7節)

「隣人のものを欲してはならない」という戒めがあります。典型的な律法の言葉です。もし、この律法の言葉が無かったら、どうでしょう。私たち人間というのは、いろんなものが欲しい。あれを手に入れたら、それで満足するかというと、そうではない。あれの次にはこれが、これの次には、それが欲しくなる。そういうものだと思います。だから、むさぼりが悪いことだと言われなければ、もう欲しいままに、それこそ、何でもかんでもかき集めたくなる。それでも自分は悪いことをしているとは思わない。これが律法の無い状態です。

ところが、「汝、むさぼるなかれ」「これはいけないことだ」と言われると、「ああ、そうか、これはやってはいけないことなんだ」と、自分の行いを反省したり、制御したりする働きが生まれます。ところが、人間の欲望というのは、なかなかそういう理性では抑え切れるものではない。そこで、やってはいけないことは重々承知してはいるけれど、止めることが出来ないという悩み・苦しみが起こってくるわけです。昔、「分かっちゃいるけど、止められない」という歌がありましたが、まさにあの歌は律法と人間の姿を歌っていた神学的な歌曲だったわけです。