聖書:イザヤ書43章3~4節・ガラテヤの信徒への手紙4章12~19節

説教:北陸学院学院長 楠本史郎

「わたしは主、あなたの神。イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ書43章3~4節)

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(ガラテヤの信徒への手紙4章19節)

 

福井神明教会が創立130周年を迎えました。1891(明治24)年に日本メソジスト福井講義所として始まり、以後130年間、毎週日曜日に礼拝を守り続けてきました。天におられる主キリストの形が、地上に形づくられてきました。これはすごいことです。

教会が主キリストの形に造られていくというのは、どういうことでしょうか。立派な会堂が建ち、大勢が集まるということでしょうか。一人ひとりが清らかでまじめな、欠点のない人格者になるということでしょうか。少し違います。

パウロは、トルコのガラテヤ地方に行き、教会を建てました。ところがその後、このガラテヤ教会に問題が起きました。「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは苦しんでいます」とあります。パウロがいなくなると、教会ではキリストの形が崩れてしまいました。一大事です。それでパウロはこの手紙を書きました。

どんな問題でしょうか。集まる人が減り、小さな教会になってしまったのでしょうか。いいえ、この教会にはある程度の人たちが集まっていました。パウロから生まれた教会の中には、フィリピ教会のように、もっと小さな教会もあります。しかしパウロはそれを愛し、喜びました。ガラテヤ教会の問題は人数ではありません。

では教会の人たちが不真面目だったのでしょうか。教会も人の集まりです。間違えたり混乱したりすることもあります。コリント教会がそうです。そこには色々な人たちがいて、中にはこの世の不道徳な習慣を教会に持ち込む人もいたようです。パウロはこれに頭を悩ませ、何度も手紙を書いて注意しています。それでもパウロは、コリント教会にもキリストの形があると信じました。

むしろガラテヤ教会の人たちはまじめです。それなのにパウロは、問題だと言います。キリストの形が崩れているとまで言います。一体何が問題だったのでしょうか。

ガラテヤ教会には人々が集まり、真面目です。でもそこに落とし穴がありました。パウロがここを離れた後、ユダヤ人の指導者たちがやってきます。その人たちは、「キリストを信じるだけでは足りない、旧約の律法も守りなさい」と言いました。教会の人たちはまじめです。「なるほど、律法を守ろう、もっと真面目で立派な信仰者になろう」と思いました。実はそこに深刻な問題がありました。

律法を守るかどうかは目に見えます。断食をする、長いお祈りをする、律法で禁止されているものは食べない、といったことです。見れば、その人が立派かどうか分ります。すると「私はこんなにやっているから大丈夫だ」と思います。「あの人はそんなに守っていないから駄目だ」と言い出します。まじめな自分の姿が大きくなります。ところが実は、その分だけキリストのお姿が小さくなってしまうのです。

パウロはその反対を教えました。神の前では皆、罪人です。主キリストが来て、十字架にかかり、罪を赦してくださいました。この主を信じさえすれば、罪は赦され、救っていただけます。そのキリストを大きくし、自分を小さくします。

ところがガラテヤ教会の人たちは「私は偉い、これだけやっている」と自分を大きくしました。キリストを小さくして、教会の形が崩れてしまいました。それが問題だとパウロは言うのです。

人は自分を大きくしたいのです。小さな自分を人に見せたくない、隠して、大きく見せたいのです。

誰でもいい所を見せ、自分を大きくしたい、それは世界共通です。皆、自分を大きく、恰好よく立派に見せようと、精一杯、背伸びをします。でも、誰にも弱い所があります。それを隠そうとすると、気が休まりません。誰かに見られているのでないかと恐れます。疲れてしまいます。

パウロは、そんな無理はしなくていいと言います。神は全部お見通しです。本当の私の姿を御存じです。それは決して立派な、大きなものではありません。ちっぽけです。どんなに頑張って大きく見せたところで、大したことはありません。神がご覧になれば、皆、小さく貧しいのです。総理大臣や大統領だってそうです。同じです。だから互いに比べあう必要はありません。「あの人はすごい、かなわない」と思っても、神がご覧になれば大して違いません。「この人よりは自分はましだ」と思っても、神は仰います。「いや、その人もあなたも同じだ、何も変わらない」 と。本当は誰もが小さいのです。

神がご覧になれば、誰もが自分中心です。自分さえよければいいと思います。神のみ心にかなわない、罪深いものです。それを認めればいいのです。無理に背伸びをして自分を大きく見せなくていい、小さなそのままの姿でいい、神は愛されます。赦してくださいます。その神を信頼すればいいのです。

自分は弱い、罪深い者だと認め、小さくなります。するとキリストの姿が大きくなります。私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださった、その主のお姿が現れてきます。

ガラテヤ教会からキリストの形が崩れ、見えなくなってしまいました。それは、自分を大きくするからです。自分を立派に大きく見せようとする、そのためにキリストが小さくなり、いつの間にか、お姿が教会から消えてしまっていました。反対です。自分を小さくし、キリストを大きくする、それが大事だとパウロは言うのです。

では、キリストを信じると自分は消えてなくなってしまうのでしょうか。いいえ、神は、イザヤ書43章4節で「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する」と言われます。

実はこの時、イスラエルの人たちはどん底にいました。敵に攻められ、国が滅びてしまいました。大勢の人々が敵の国へ連れ去られました。希望がなく、辛く、苦しい、惨めでした。神はその人たちを救うと言われます。そのためにはエジプトの国を身代金にしてもよいと仰います。そんな莫大なものを支払ってでも、神はこの人たちをお救いになります。それぐらい深く愛されます。

国を失くし、惨めな囚われの身になった人たちを神は愛されます。どんなに大きな犠牲を払ってでも、お救いになると言うのです。

ガラテヤ教会の人たちは、この神に愛されました。教会に呼び集めていただきました。そのために神は大きな犠牲を払われました。たった一人の御子イエス・キリストをお送りになりました。十字架に付け、人々の罪を償い、赦してくださいました。

この人たちを救うために、神は尊い御子の命を捧げてくださいました。だから教会は十字架を掲げます。この福井神明教会もそうです。神がたった一人の御子の命を惜しまず、捨ててくださった、そんなに一人ひとりを愛しておられる、そうして教会が建てられています。

この教会には、そのキリストの形があります。一人ひとりが集まってキリストの体を形づくっています。神は、そんなに一人ひとりを愛し、大切に思っていてくださいます。

自分を小さくし、キリストを大きくします。すると、この私がどんなに大きなものをいただいているか、分ります。神はこの私を、キリストの命のかかった尊い大切なものとしていてくださる、と分ります。神にとって、どの人も、なくてならない、かけがえのない大切な、愛する一人なのです。

昔、教会の青年会で、石垣作りのボランティアをしました。山の斜面に石垣を作ります。その上に、子どもたちや障害のある人たちの施設を建てることになっていました。石工の親方の許で1週間、働きました。親方が「あの石を持ってこい」と言います。それを運ぶと、親方がハンマーで石の角を削って形を整えます。それを石の段に積むと、綺麗な石垣になっていきます。

中には小さな石や、形が変なのもあります。親方はそれを持ってこいと言います。届けると、ハンマーで叩き、はめ込みます。すると隙間にピタっとはまるのです。まるで、その石はここに合うように造られていたようでした。見事な石垣になっていきます。それを見て感心しました。

私たちはそれぞれ小さなものです。決して大きくて立派な石ではありません。形が綺麗に整っている訳でもありません。でこぼこかもしれない、形が悪いかもしれない、曲がっているかもしれない。けれども神は、すばらしい親方でいらっしゃいます。こんな私を整え、ピタっとはめ込んでくださいます。そうして教会ができていきます。

小さくていいのです。曲がっていてもいいのです。いや、それでいいのです。「あなたでないと、ここはきれいに埋まらない」と神は仰います。「ここには、あなたが必要だ」と言ってくださいます。そうして用いられます。教会が建っていきます。そこに、主キリストのお姿がはっきりと現れてくるのです。

キリスト者は皆、まじめで立派な人、まっすぐで四角な石ばかりでしょうか。大きくて綺麗なのでしょうか。そんな石だけでは教会は建ちません。小さな石がいります。曲がった石、でこぼこの石、それも必要です。いや、そんな石だからこそ、ピタっとはまる場所があります。神は「ここはどうしてもあなたでなくてはうまくいかない、あなたが必要だ」と言ってこの私を招いておられます。

130年もの間、人々を招き、加えてきてくださいました。その恵みを喜び、主をほめたたえ続けます。自分を小さくし、主を大きくします。そうして福井神明教会が建てられてきました。そこに主キリストの形がくっきりと浮かび上がります。ここにキリストのお姿が形づくられていきます。神がしてくださいます。そうして140周年、150、200周年へと向かって進んで行きます。共に主をほめたたえ続けていきましょう。