聖書:イザヤ書6章1~13節・使徒言行録22章17~30節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。」(イザヤ書6章1~2節)

「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』」(使徒言行録22章17~18節)

 

人の一生の間には、決定的な神様との出会いがあります。それは、その人の生涯を決定してしまうような出会いです。旧約でいえば、アブラハムやモーセ、またイザヤやエレミヤといった預言者たちは皆、人生のある場面で、神様との決定的な出会いを遂げております。そして、その出会いが、それ以降の彼らの人生を決定付けるのです。

それまでも、彼らは神様を知ってはいたのです。ですから彼らは、このとき、初めて神様と出合ったというわけではないのです。しかし、それまでの神様との関係が「ああ、神様のことは聞いて知っていますよ、信じていますよ」程度のことだったのが、この決定的な出会いによって、人生のすべてを持って行かれてしまう。それこそ、人生のすべてを捧げるような歩みになってしまう。そういう出会いのことを聖書は「命を召す」と書いて「召命」と呼びます。これは聖書独特の考え方です。

パウロという人も「召命」を経験した人物です。その出会いは、まさに劇的と呼ぶにふさわしいものでありまして、使徒言行録は三度に渡ってその出来事を述べております。初めはリアルタイムの出来事として第9章に述べられ、あとの2回は囚われの身となったパウロが語る証しとして出て来るのです。その1回目の証しが、先週読みました22章6節以下に記されておりました。

当時のパウロは、名前をサウロと言い、ファリサイ派の律法学者でありました。そのサウロには一つの使命がありました。それは、キリストとかを信じるとんでもない異端者を捕らえ、投獄し、懲らしめては改心させるという使命でした。そのサウロが、キリスト者がダマスコに潜伏しているという噂を聞きつけて、彼らを捕らえにダマスコに向かう道の途中で、復活の主イエスが彼と出合ってくださるのです。これがパウロと主イエスとの出会いです。そしてこの出会いが、それ以降のパウロの生き方を、まさに180度変えてしまったのです。180度の転換という言い方は、よく使われますが、その多くは少なからず誇張を含んでいます。ところが、パウロの場合は違う。なにせ迫害者から伝道者へと変えられてしまったのですから、180度の転換という言葉には、いささかの誇張もありません。

ところが、使徒言行録は22章の17節から、それまでとは語調を変えて、パウロのエルサレム神殿における主イエスとの出会いを語っております。ダマスコ途上での出会いで十分と思えるのに、なぜそれに追加するように、神殿での出会いを語るのか? ここでそれを議論していても始まりませんから、実際にそこを読んでみたいと思います。こんな語り方なのです。

「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。」

いかがでしょうか? それまでとは明らかに言葉の響きが違っていることに気付かれたのではないでしょうか。エルサレム、神殿、祈り、我を忘れた状態、主との出会いと、この一連の描写をお読みになって、皆さん、何か連想する聖書の物語はないでしょうか? そう。これは今日読みましたイザヤ書第6章の物語、イザヤが預言者として立てられ、遣わされて行く召命物語と非常によく似ているのです。

しかも、これは単に似ているだけではないと私は思います。使徒言行録の著者ルカは、パウロの召命をイザヤのそれと重ねて描いている。かつて紀元前600年にイザヤの身に起こったことが、そのままパウロに起こったかのような印象を与えます。明らかにルカは、この二人の召命に共通点を見いだしているのでしょう。それはいったい、どのような共通点なのか? そこが肝心要になってまいります。そこで今日は、説教の展開としては異例の形になりますが、イザヤとパウロの神殿における召命物語を交互にフラッシュバックさせながら、私たちの人生においても起こり得る召命というものの本質を見極めてみたいと思うのです。

イザヤとパウロの召命の第一の共通点。それは祈りの中での出会いということです。パウロは神殿で一人祈っているときに、我を忘れた状態になって、主イエスとお会いしたと書いてあります。この「お会いした」というのは「見た」ということです。

イザヤの場合も同様です。イザヤという人は、神殿で現実に行われている礼拝が形式ばかりで、礼拝の中身である信仰を失っていることに憤りを覚えつつ、それでも、礼拝に出ておりました。人々の堕落を批判もし、嘆いていたのです。

「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。」

「見た」と書いてありますね。先ほどのパウロの所では「お会いした」となっていた、あれも「見た」ということでした。私はこういうところに、聖書のメッセージが隠されていると思うのです。聖書というのはこういう何気ない、目立たない所から、まるで泉のように滾々とメッセージが沸き起こっているということが、ままあります。ですから、そういう隠された泉を見逃さないで読み取ることが大事になってきます。ここもそうです。「見た」と書いてありますが、これは、客観的に誰の目にも見えるということではない。イザヤだけが見ているのです。その意味で、これは「幻」と言っても良いかも知れません。そういえば、預言者はよく幻を見ます。エゼキエルも、エレミヤも、彼らは皆、幻によって神様の御心を知らされたわけです。では、イザヤが見た幻には、どういう御心が隠されていたかというと、この堕落した人々の、形式だけの礼拝が行われている神殿の中に、神様が臨在しておられるという、そういう幻を彼は見たのです。

これに対してパウロはどうであったかというと、パウロは神殿で主イエスを見るわけですが、エルサレム神殿といえば、ユダヤ教の中心です。主イエスを十字架につけたのも、神殿当局ですし、キリスト者迫害の急先鋒となっていたのも、神殿です。ところが、その神殿に主イエスは臨在しておられた。そういう幻を、パウロは見たのです。

この「見た」という言葉は、じつは聖書のキーワードに一つでありまして、旧約・新約を問わず、大事な要の言葉として出て来ます。皆さんはエリシャという人のお話を聞いたことは、おありでしょうか。エリシャが自分のいる村がシリアの軍勢に包囲されていることを知らされたとき、その知らせを持って来たエリシャの僕は、もう気が動転しているのです。逃げる道は無いわけですから、非常にうろたえている。ところが、エリシャはちっともうろたえていない。いやいや、大丈夫、私と共におられる神様の軍勢は、今、我々を包囲しておる軍勢よりもはるかに多いと、そう言ったのです。それで僕はビックリして、辺りを見回すのですが、そんな軍勢なんか見えないのです。「天の軍勢なんかいないではないですか」と言いますと、エリシャは言うのです。

「神様、どうかこの僕の目を開いてください」。

そう言って祈りをささげると、この僕の目が開かれた。開かれた目で見ると、これが凄いのです。もう天にまで続く天使の大軍がエリシャを守っていた。そういう話が旧約聖書の列王記下の6章に載っています。

さあ、このお話は、私たちに何を教えているのでしょうか? この僕は、エリシャの祈りによって初めて見えるようになったということです。それまでも、彼は見えてはいたのですが、それは肉眼の目で見ていたに過ぎなかった。私たち人間は肉眼で見るものだけが、本当のことだと思っています。しかし、聖書は、もう一つの真理を語っている。肉体の目では見ることの出来ない、隠された真実というものが、ある。それを見るためには、私たちの信仰の目が開かれなければならない。信仰の目が開かれていないと、肉眼で見えるものだけで勝負してしまいます。だから、パウロは言いました。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

さて、イザヤは神殿におりまして、彼の肉体の目で見た神殿の礼拝は、もう堕落していて腐敗していて、形式だけのものになっている。こんな所に神様はおられない、と心の中で思っていたのです。そういう現実しか見えてはいなかった。イザヤの心には憤りしかなかった。しかも、この憤りは人々に対する憤りです。しかし、イザヤは、そこで信仰の目が開かれて、この神殿に神様は臨在しておられるという、隠された真実を見たのです。それは本当に身震いするような厳かな経験でした。

パウロもそうでしょう? 彼も身震いするような体験をしたのです。ダマスコで主イエスと出合ったパウロは、エルサレムに帰ったのですが、いったい、何をしに神殿に行ったのか? もちろん、祈るためではありますが、何を祈っていたのでしょう? パウロはこれまでも熱心に神様を信じてきたのです。しかし、復活の主イエスとの出会いが、彼の信仰の内容を全く変えてしまったわけです。パウロとしては、大変な戸惑いがあったと思います。神様を信じることと、イエス・キリストを信じることの関係と言いますか、連続性をパウロとしては問わざるを得なかったと私は思う。イスラエルの神を信じることと、キリストを信じることは連続しているのか、それとも断絶しているのか? 今となっては想像の域を出ませんが、パウロは神殿でその答えを求めて神様に祈ったのではないでしょうか。

すると、パウロは主イエスを見るのです。ユダヤ教の中心である神殿でです。これはパウロにとって身震いするような経験であったと思います。旧約の神、イスラエルの神を信じることと、キリストを信じることがストレートにつながったからです。だからこそ、パウロはローマの信徒への手紙の中で「キリストは律法の目標となったのだ」と確信を持って言うことが出来たのです。そして、パウロは主イエスの語りかけを聞きます。

さて、イザヤに戻りますと、イザヤが神の臨在に接したとき、彼は恐れおののきました。どうしてでしょうか? 自分の罪を自覚したからです。5節にこう書いてあります。

「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。』」

神様の臨在に触れる。それは私たちからすると、大変に有り難いことです。しかし、同時に、それは私たちの罪が暴かれ、私たちが滅ぼされるときでもあります。ですから、モーセなどは、神様を見ることを恐れて顔を覆ったと書いてあります。イザヤはそれまで、自分の同胞の罪を深く感じて、それに憤りを感じておりました。人々の罪を強く非難しました。しかし、今、神の臨在に触れて、同胞の罪だけではない。実に自分自身が汚れた唇の者である、ということがハッキリ示された。これが大事なのです。

私たちが神様を知るときに、神様の恵みであるとか、神様のお守りとか、そういうことだけではない。自分の罪ということをハッキリ知らされる。今まで、自分は、汚れた民の中で、自分一人が熱心に神様に仕えてきたと思っていた。しかし、その熱心さが、いかに神様の御心から離れたものであったか。神様に背くものであったか。自分の言うこと、すること、考えること。それらがことごとく、神様から離れてしまっている。イザヤはここで初めてそれに気付くのです。

私は、これはパウロも同じではなかったかと思うのです。パウロも、自分の熱心さの中にある罪というものをハッキリ示されました。パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、過去の自分を振り返って、「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所のない者でした」と述べています。しかし、その熱心さは、詰まるところ、自分の義を求めるものであったと書いています。パウロも自分の罪を深く示されたのです。

イザヤに戻りますと、自分の罪深さをハッキリ知らされたイザヤに、セラフィムの一人が火箸を持って、祭壇から取った燃える炭火を持って来て、なんと真っ赤に燃える炭火をイザヤの口にひっつけたのです。そして、こう言った。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

私たちが本当に神様の前に出て、神様の言葉を聞くとき、まず示されるのは自分の罪ということではないかと思います。その罪は自分でなんとか始末をつけようとしても、どうすることも出来ません。イザヤもそれを示されました。そのとき、神様は燃える炭火をイザヤの唇にひっつけた。燃える火というのは、聖書の中で、しばしば神の裁きを表します。罪が黙認されるわけではない。裁かれるのです。神様はイザヤの罪を裁かれた。なあなあで、水に流されたわけではないのです。お前だけは特別だとはおっしゃらなかった。皆さん、想像してみてください。燃える炭火が口にひっつけられたのです。どんな思いがするでしょう。生きた心地がしないでしょう。そう。それは古いイザヤの死を象徴している。古いイザヤは死んだ。そして、新しいイザヤが、ここに誕生した。人間というのは、神の裁きを受けて、古い自分が一度死ぬ。そして神様の力によって新しく生まれなければならない。イエス様がニコデモに言われましたね。「人は誰でも、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」

洗礼が、まさにそうですね。古い自分が一度死んで、新しく生まれる。イザヤが経験した燃える炭火などではない。古い自分が一度死んで、新しい命を受け取るのです。そのときに、この土の器の中に、信じ難いほどの宝が与えられる。主の声を聞き分ける力が与えられる。イザヤはこの力によって聞きました。「誰が我々に代わって行くだろうか」という御声を、彼は聞くのです。そのとき、彼はどうしても黙っていることが出来ずに、こう言います。

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

パウロも主の声を聞きました。

「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。」

「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」

イザヤとパウロ。約800年を隔てて彼らの身に起こったことは、さらに2千年を隔てても、なお、起こり得ることです。神は生きておられる。主は生きておられるからです。そして、私たちの今の営みが、礼拝だからです。

私たちが礼拝において与えられるものは何でしょうか? 知識でしょうか? 資格でしょうか? 違います。礼拝とは学びの場でもなければ、資格取得の場でもない。私たちが礼拝で知ること。それは、自分の罪が全く赦されていることを知り、神の器として立てられていること。神の恵みの伝達者として遣わされていることを自覚する。そういうことではないでしょうか? これこそ、礼拝の恵み、奇跡であると思うのです。

 

 

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