聖書:イザヤ書43章1節・使徒言行録28章1~10節

説教:佐藤 誠司 牧師

「アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長ピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。イサクは彼らに尋ねた。『あなたたちはわたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。』彼らは答えた。『主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのように、あなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。』」(創世記26章26~29節)

「パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。『この人はきっと人殺しに違いない。海では助かったが、「正義の女神」はこの人を生かしてはおかないのだ。』ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。(中略)彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、『この人は神様だ』と言った。」 (使徒言行録28章3~6節)

 

昨年の11月20日以来、久しぶりに使徒言行録に戻ってきました。使徒言行録の終盤は、未決囚としてローマに護送されるパウロと、その船旅の様子を懇切丁寧かつ象徴的に描いております。船が波風に翻弄されるにつれて、一囚人に過ぎなかったパウロの言葉が、徐々に人々の中で重みを持ち始め、ついには人々の希望の根拠になっていきます。嵐の中で、人々はおじ惑います。そんな人々に、パウロは言いました。

「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうち誰一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜、わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ず、どこかの島に打ち上げられるはずです。」

この言葉のとおり、船は大破しますが、一人の命も失われることなく、一同は島に打ち上げられます。流されるままにたどり着いたこの島は、イタリア半島が目前に迫るマルタ島だったのです。

マルタ島がどこにあるか、皆さん、ご存知でしょうか? 聖書の巻末の「パウロのローマへの旅」という地図をご覧になってみてください。シチリア島のすぐ南がマルタ島です。ここまで流されるままにたどり着いたのですから、この航路の背後に私たちは主の導きを見る思いがいたします。

今日の物語は、この島の住民とパウロたちとの束の間の交わりを丁寧に描いております。2節を見ますと、住民たちが船を失った一行に大変深く同情して、心からもてなしてくれたことが分かります。それにしても一行は276人もいたのですから、全員をもてなすのは大変であったと思います。ところが、人々は黙々と世話をしている。おそらく、この島には過去にも同じように遭難してたどり着く人々がいて、島の住民はその人々を何度ももてなし、世話をしてきたのでしょう。人々は、そうするのがむしろ当たり前のように、パウロたちの世話をしています。冷えた体を温めるために焚き火を焚いてもてなしてくれたのです。パウロも、島の人々の好意に甘えるだけでなく、自ら立ち上がって、焚き火の火を絶やさないために、一束の枯れ枝を集めて来ます。

ところが、ここに異変が生じます。パウロが集めて来た枯れ枝を火にくべると、一匹の蝮が熱気のために這い出して来て、パウロの手に絡みついたのです。住民はその有様を見て、互いに言います。

「この人はきっと人殺しに違いない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしてはおかないのだ。」

いかがでしょうか? この「正義の女神」というのは、おそらく、ギリシア・ローマの影響を受けたこの土地の土俗信仰による神々の一人なのでしょう。その正義の女神の罰がくだったのだから、この人は罪深い人殺しに違いないと人々は思い込んだのです。人々は皆、固唾を呑んでパウロを見守っています。ところが、パウロは蝮を火の中に振り落としただけで、何の被害も受けなかった。驚いたのは住民たちです。女神の天罰がくだって、たちどころに死ぬと思っていたのです。住民たちは考えを変えて、「この人は神様だ」と言います。

いかがでしょうか? ここら辺りの描写はいかにもルカらしいビジュアルな表現だと思います。目の前に情景が浮かぶような語り口です。そのビジュアルな描写の中で手に取るように伝わってくるのが、島の人々の心の変化です。蝮の出現によって、初めは人殺しだと思っていたのが、手の平を返すように、「この人は神様だ」と変化していきます。皆さんは、この住民の心の変化を、どう思われたでしょうか? 特に「この人は神様だ」と言うくだりなど、思わず笑ってしまったという方もおありだと思います。未開人の愚かな反応のように理解する人もおられるでしょう。確かに、そういう面もあるかとは思います。人々の反応は原始的と言いますか、いかにも幼い印象を与えます。しかし、私は、案外、今日の物語のメッセージは、ここに隠されているのではないかと思うのです。

どういうことかと言いますと、前にもよく似たことがありましたね。あれは確か、パウロがまだバルナバと行動を共にしていた頃のことです。使徒言行録の第14章の8節以下。リストラという町で、パウロが足の不自由な人を歩けるようにしてやった。すると町の人々がパウロの業を見て驚き、「これは神々が人間の姿をとって私たちの所にお降りになったに違いない」と言った。そしてバルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだ。さらに祭司たちがやって来て、パウロとバルナバの前に牛を引っ張ってきて犠牲をささげようとした。そういう出来事がありました。あのとき、パウロは、人々に向かって「私たちは神様ではない」と叫ぶように言いました。いきり立っていたのです。自分たちが神として祭り上げられることに対する潔癖なまでの拒絶反応が、あのときにはあったのです。

ところが、今回はどうでしょう? 今日の物語に出て来るパウロは、終始、無言です。実際は無言であったわけではないのでしょうが、ルカはこの場面のパウロを無言で描いたということです。いきり立たないのです。どうしてなのでしょうか? もちろん、パウロも「この人は神様だ」と言う島の人々の短絡的な発想を、そのまま受け入れたわけではない。おそらくはパウロは「いやいや、私も皆さんと同じ人間に過ぎません」くらいは言ったものと思われます。しかし、いきり立たないのです。どうしてででしょうか? おそらく、ここら辺にパウロの伝道者としての成長があるのでしょう。人間であるパウロを見て「この人は神様だ」と言うのは、確かに愚かなことなのです。しかし、今のパウロは、その愚かしささえ受け入れているのではないかと思うのです。これまで、パウロは、異邦人への伝道を通して、神様が異邦人にも働きかけておられることを見てきたわけです。そして、パウロは、自分を通して神様が働きかけてくださることも、ずっと見てきている。

島の人々はパウロを見て「この人は神様だ」と言いました。確かに、これは短絡的であり、飛躍がある。人を神として祭り上げる異教の習慣ともいえるでしょう。しかし、パウロは、この人々の幼い短絡的な反応の中に、信仰の芽ばえを見出しているのではないかと思います。

最初に言いましたように、この島の人々は、これまでにも遭難して上陸してくる人たちを何度も世話してきているのです。それだけ、多くの人を見て来ているわけです。いろんな人がいたと思います。もてなしを当然のように受ける人もいたでしょうし、この親切なもてなしには裏があるのではないかと勘ぐる人もいたでしょう。島の人間を未開人として露骨に見下す人もあったかも知れません。しかし、島の人たちは、それでもなお、疲労困憊して島に上陸してくる人々を、心尽くしてもてなしてきたのです。そんな島の人々がパウロを見たとき、これは明らかにほかの人とは違う、何かを感じ取ったのです。力尽きた仲間を励まし、気遣う様子。自分たちのもてなしに心からの感謝を表す様子。もてなしを受けるだけでなく、自らも立ち上がって薪を集めてくる様子。確かにこの人には、他の人には無い何かがある。この人は希望を持って生きている。と、そこまで感じ取ったところに起きたのが、あの蝮の一件だったのでしょう。ですから、島の人たちは、蝮の一件だけを見て「この人は神様だ」と言ったのではなかったのです。

そしてもう一つ、どうしても挙げておかねばならないのは「この人は神様だ」という言い方です。島の人々は、聖書の神様を知りません。まことの神様を知らないわけです。そんな人々がパウロを見て、素朴な感動を抑えきれずに、こう言ったのです。

「この人は神様だ。」

さて、その真意は何なのでしょうか? そう、もう皆さん、お分かりのことでしょう。人々が言いたかったこと。それは「パウロが神様だ」ということではなかった。そうではなくて、「神があなたと共におられる」ということだった。パウロという人は、人々の素朴な言葉の奥にあるそういう真意を汲み取ることが出来るほどに、伝道者として成長していたのです。

さて、これについて思い起こすのは創世記26章のイサクの物語です。イサクという人はアブラハムの息子ですが、あまり目立たない人ですね。イサクはアブラハムの死後、アビメレクという人が支配している地におりました。そこでたくさんの収穫があって、家畜がどんどん増えていったものですから、土地の人々がそれを妬みまして、アブラハムがかつて掘り当てた井戸をつぶしたり、いろいろ意地悪をするのです。それだけではなくて、最後には大将のアビメレクが出て来て「もうここから出て行ってくれ」と言って、イサクを追い出しにかかった。そこでイサクは、そこを出て、今度はゲラルの谷という所へ移り住むわけです。そこには以前、アブラハムが掘った井戸があったのですが、土地の人がそれをつぶしてしまっていた。それでイサクはその井戸を掘り直して、そこで生活しようとした。私は、この生き方は、イサクらしいなと思うのです。かつてお父さんが掘った井戸、人々につぶされた井戸を、一つ一つ掘り直していく中で、イサクはお父さんの後をたどるように歩むのです。

ところが、行く先々でイサクは土地の人々の妨害に遭います。日本と違いまして、この辺は水が乏しい。まして多くの家畜を飼っている。井戸の問題は死活問題なのです。イサクの僕たちがゲラルの谷で井戸を見つける。すると、そこの羊飼いがやって来て、この井戸はわしらのものだと言って、争いになる。それで、イサクはまた、ほかの土地に行きまして、また別の井戸を掘る。すると、また土地の人々が来て「ここらはわしらのものだ」と言う。すると、普通でしたら、腹を立てて争いになるのでしょうが、それじゃあと言って、またよそへ行って、別の井戸を掘る。

さて、そんな時に、思いもよらないことが起こります。かつてイサクを追い出したアビメレクが軍隊の隊長と共にやってきまして、イサクはビックリして、言います。

「あなたたちはわたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」

また何か無理難題を吹っかけに来たのだと思ったのです。ところが、彼らはこう答えています。

「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのように、あなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」

ずいぶん虫の良い話をしていると思いますが、アビメレクという人はたびたびイサクに意地悪をしてきて、ついには追い出した人です。敵と言っても良い人物です。その意地悪をしている人物が、その意地悪に対するイサクの対応をじいっと見ていたのです。それで、追い出してイサクが向こうへ行くと、また井戸を掘り当てて、ちゃんと水が出て来る。次へ行くとまた井戸が見つかる。その様子をじっと見ておりまして、これは不思議だと、初めは意気地のないやつだと思っていたでしょう。しかし、やっと一つのことに気が付いた。これは神があなたと共におられるからに違いないと分かった。

神様が共におられるということは、大体、信仰のある人には分かるのですが、そうでない人には、なかなか分かるものではありません。ところが、イサクの生活を見ておりまして、信仰のないアビメレクが「これはただごとではない。これは神が共におられるからだ」と、気が付いたというのです。そこで恐れ入りました。どうぞ契約を結んで相互不可侵条約を結びましょうと言い出した。アビメレクは神様を信じているわけでもなければ、イサクを心から尊敬しているわけでもない。しかし、そういう敵側の人間が真相を見抜いた。そういうことがあるのです。どうしてなのでしょうか? アビメレクは最後にこう言ってるんです。

「あなたは確かに、主に祝福された方です。」

本当に確信をもって言ってますね。信仰の無いアビメレクが、どうしてそう言えたのでしょうか? 私は、こういうところに、聖書の神様の秘密があるように思うのです。今日はイザヤ書第43章の1節を読みましたが、ここは聖書全巻もメッセージをぎゅっと凝縮したような御言葉ですね。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。」

あなたと共にいる。これはあなたを決して見捨てないということです。だから神様は「恐れるな」とおっしゃる。私はあなたの名を呼ぶと言われる。あなたの名を呼ぶというのは「あなたを守り通す」ということです。これが聖書の神様の秘密です。私たちが信じる神様です。どんなときでも見捨てない。共にいてくださる。私という破れの多い人間を通して、神様は働いてくださる。イサクはこれを信じたのです。そしてパウロもこれを信じました。だから、この人たちの生き方は、ほかの人とは明らかに違う。希望があるのです。だから、信仰の無いアビメレクがイサクを見て「神があなたと共に居られます」と言った。聖書を知らない島の人々がパウロを見て「この人は神様だ」と言いました。これを聞いて、パウロは決していきり立たなかったでしょう。「この人は神様だ」という幼い言い方の中に、信仰の芽吹きを見出していたからです。神があなたと共におられる。島の人々が本当に言いたかったのは、そこだったのです。島の人々はパウロの生き方を見て、そう言いました。トマス・ウィン宣教師の夫人イライザは「私たち夫婦は生活のすべてを見られています」と言いました。これは何も昔のことではありません。キリスト者というのは、いつもそうです。生活のすべてが見られている。しかし、何もビクビクすることはないのです。私たちの生活を通して、生ける神様が働いてくださる。主イエスが働いてくださる。だから破れがあっても良いのです。「キリスト者は破れ提灯で良いのだ」と言った人がいました。提灯の破れ目からキリストの光が周りを照らせば良い。私たちが生ける神様とキリストに望みをおいておれば、それで良いのです。

 

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