聖書:ルツ記1章1~19節・マタイによる福音書1章1~6節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ルツは言った。『あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。』同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。」(ルツ記1章1~19節a)

 

今日は旧約のルツ記の御言葉を読みました。ルツ記という書物は、時代と国境を越えて、多くの人に愛される物語です。日本でも、ルツさんやルツ子さんという名前の女性がたくさんおられます。愛されている。しかも我が事として愛されているのです。この物語の中に、ルツが姑のナオミに言った「あなたの神はわたしの神」という言葉があります。大変に大きな意味を持つ言葉だと思います。そこで今回は、この言葉を中心にして、ご一緒にルツ記を読み味わっていきたいと思います。こんなお話です。

ユダヤのベツレヘムという町にエリメレクとナオミという夫婦が住んでいました。夫婦にはマフロンとキルヨンという二人の息子があった。ところが、この地方に大きな飢饉が起こって、食べるに困って、一家は隣のモアブという国へ移り住んだ。まあ、隣国とはいえ、陸続きなのですが、話す言葉も違いますし、生活習慣も違う、何より信じる宗教が違います。そういう国へ移って、そこで何とか生活しようと考えたのです。

ところが、その矢先に一家の柱であるエリメレクが亡くなります。ナオミは寡婦となります。外国へ行って、そこで一家の柱が亡くなってしまう。これは大変なことです。そういう中で、ナオミは二人の男の子を育て上げ、彼らが青年になったので、モアブの女性をお嫁さんに迎えました。彼女たちの名はオルパとルツといいます。こうして、やれやれと思ったその時に、二人の息子が相次いで亡くなった。息子たちに子どもはありませんでしたから、夫を失い、息子たちに先立たれて、ナオミは天涯孤独です。これから先、年老いて、衰え行く人生を、この異国の地で暮らしていくのは、ナオミにとって耐え難い苦痛です。

すると、故郷のベツレヘムから、飢饉が終わった、もうみんな豊かに暮らしているという便りが聞こえてきた。そこでナオミは、故郷に帰ることを決心します。そして、やもめになった二人の嫁を連れて帰りかけるのです。ところが、その途中で、ナオミはいろいろと考えます。この二人の若い嫁をベツレヘムに連れて行っても、そこはナオミにとっては故郷ですが、オルパとルツにとってみれば外国です。言葉も生活習慣も、信じる宗教も違う。ナオミは、かつて自分が味わった苦労を思い起こしました。あの時の自分には、夫もいたし、二人の息子がいた。どんな労苦も支え合って耐え忍ぶことが出来た。しかし、この二人の嫁はどうだろう。彼女たちを連れ帰っても、結婚相手が見つかるとは到底思えない。これからの長い人生を、二人の嫁はいったいどのようにして生きて行くだろうか。そう考えますと、これはもう、この二人を連れて帰ってはいけないのではないかと思い至った。そこでナオミは二人を呼んで、あなたがたは自分の家に帰りなさいと、諄々と諭します。

あなたがたは息子たちに対しても、私に対しても、心から仕えてくれた。どうか神様がそれに報いて、あなたがたに幸せを下さいますように。そして、あなたがたが、それぞれに良い夫を与えられて、本当に安定した生活が与えられますようにというお祈りをして、これでお別れですと言って二人を抱き寄せて接吻します。彼女たちは声を上げて泣き、ナオミに言います。

いいえ、私たちはあなたと一緒に、あなたの民の所に参ります。年老いたお母さんを一人で帰すわけにはいきません。これを聞いたナオミは、さらに言います。

あなたがたがユダヤへ行っても、決して幸せにはなれないだろう。あなたがたはユダヤでは結婚出来ないのだから。もうお帰りなさい。そう言って心を尽くして勧めたので、オルパはそう言われるのであればと、お母さんに別れの口づけをして帰って行きます。しかし、ルツはどうしても帰らない。この時にルツが言った言葉が16節と17節に記されています。

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」

一気に読みましたが、途中で切ることが出来ないほど、ルツの真心がほとばしり出た言葉だと思います。ナオミに対するルツの真心に感銘を受けますが、ただそれだけの言葉ではないと私は思います。ナオミと一緒にベツレヘムに行くということは、ルツにとってみれば、全く未知の新しい世界に入って行くことです。このことは、後に2章に入って、ボアズというベツレヘムの裕福な男性がルツに語る場面に出て来ます。ボアズはこう言うのです。

「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」

ここに「両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来た」と言われています。これはアブラハムの旅立ちを思い起こさせます。父の家を離れ、自分の国を出て、親族に別れ、知らない民の中で暮らそうと、ルツはそういう決心をしたのです。これは、人間の常識からいえば、決して幸せな生活ではない。結婚も出来ない。ナオミが死んだら、誰一人、身寄りが無い人間になってしまう。これは、お母さんのナオミに対する思いだけでは説明のつかない大きな決意だと思います。いったい、何がルツに、これほどの決意をさせたのか。

そう思って改めてルツの言葉を見ますと、注目すべき言葉が浮かび上がります。ルツは「あなたの神はわたしの神」と言ったのです。これは、お母さんのことが心配だとか、お母さんを独りにすることは出来ないという人間的な配慮だけでは出て来ない言葉です。信仰の問題として、ルツは自分の生き方を捉え始めたのです。お母さん、あなたが信じてきた神様を、私も信じて、その神様に自分の将来を委ねます。ルツは、そう言ったのです。私は、このルツの言葉でナオミは本当に慰められたと思います。これまでの自分の生き方は無駄ではなかった。

ナオミは飢饉に遭って、追われるようにしてモアブに来たのですから、決して望んで得た生活ではなかった。流れ者の生活だった。よそ者扱いも受けたでしょう。そして今、夫を失い、子供たちを失って、故郷に帰って行く。敗残者の生涯だったのです。

しかし、その敗残者のナオミの生活をいちばん近くで見ていたルツが、「あなたの神はわたしの神です」と言って、信仰を告白した。いったいルツは、ナオミの生活の、どこを見ていたのでしょうか。これが、もし、ナオミが辛い中でも希望を失わなかったとか、愚痴一つ言わなかったというのなら、信仰の美談になってしまいます。美しい、感動的なお話だけど、私らには関係ないわ、ということになってしまうでしょう。

ところが、ルツ記という書物は、そういうことを語ってはいないのです。今日は1章の19節までを読みましたが、その少し先を見ますと、こんなことが書かれています。ベツレヘムにたどり着いたナオミを見て、故郷の人たちは、どよめきます。まあ、あなた、ナオミさんじゃないですか。よお帰って来られたと、皆がナオミの無事を喜びます。その時、ナオミが言った言葉が記されています。

「どうかナオミなどと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」

「ナオミ」というのは「快い」という意味で、「マラ」というのは「苦い」という意味だと書いてある。不幸や悲しい出来事が打ち続いて、苦い思いばかりを重ねて来た。どうぞ私を「ナオミ」と呼ばず、「マラ」と呼んでくださいと、彼女は言うのです。しかも、ナオミは、これら一切のことを「全能者がわたしをひどい目に遭わせたからだ」と言っております。これは愚痴です。しかも、彼女は神様に対して愚痴をこぼしているのです。ナオミは決して模範的な証し人ではなかったのです。愚痴もこぼせば、弱音も吐く。そんな姿を見ていたら、信仰なんてつまらないものだと、普通は思うでしょう。しかも、ルツはナオミのすぐ近くにいて、その生活をつぶさに見ているわけです。神様を信じても、ろくなことは無い。そう思っても当然のように思います。

ところが、ルツはそうではなかった。あなたの神は私の神。あなたが信じる神様を、私も信じますと言いました。なぜなのでしょうか。信仰が伝わっていく。特に家族と家族の間で伝わっていくというのは、人間業ではないようなところがある。これが人間業ですと、信仰を持っているほうの人が、何か立派な行いをして相手を感心させて、それで「なるほど」と言って信じるようになる。そういうことだったら理屈が通るのですが、現実は、なかなかそうはいかない。特に家族の場合、親から子へ、妻から夫へ、夫から妻へという場合、これは人間業ではどうにもならない。

ナオミとルツの場合が、まさにそうだった。こんなに不幸な目に遭って、破れがあって、不平も不満も言う。もうずたずたになっている。そんなナオミを見ながら、ルツはあなたが信じている神様を私も信じると言う。なぜか。神様が生きて働いておられるのです。この倒れそうで倒れないナオミの生き方の背後に、ルツは神の御業を見出したのではないでしょうか。

ルツ記という書物には、神様の言葉が出て来ません。アブラハムの物語にも、モーセの物語にも、神様がお語りになったお言葉が出て来るのですが、ルツ記にはそれが一切出て来ないのです。けれども、皆さん、お読みになって、どうでしょう。やはり神様は生きて御業をなさっておられるのだと強く思わされたのではないでしょうか。これはどういうことかと言いますと、ナオミの破れの多い惨めな姿を通して、神様がルツに語りかけておられるということです。そうでなければ、ルツにあの決心が出来るはずがない。どう考えても、これから先、明るい未来があるとは思えない。そういう人生を、若いルツが選び取って行く。そしてルツは、神様が必ずナオミを支えてくださると信じて、ナオミと一緒に歩みました。今日は読みませんでしたが、ルツはベツレヘムでボアズという裕福な男性と結ばれて、オベドという子供が生まれ、その子供としてエッサイが生まれ、このエッサイの子がダビデ王なのです。そして、このダビデの血筋からイエス・キリストがお生まれになります。このことを語っているのが新約聖書の冒頭にあるマタイ福音書の系図です。

神様の計画は、私たち人間には解りません。しかし、私たちは、後になって、神様の計画というものを、はっきりと見ます。ルツという異邦人の女性がベツレヘムに導かれて、イスラエルの男性と結ばれ、その血筋から神の子イエス・キリストがベツレヘムに誕生する。ルツ記というと、牧歌的な美しいドラマとして読んでしまうことが多いですが、私はここに歴史を貫く神様の計画とご意思が明確に示されていると思います。その計画とは、預言者エレミヤが語ったように、「災いをもたらす計画ではなく、将来と希望を与える計画」です。ルツが、知らずしてその計画に用いられたように、私たちの人生の歩みも、同じ御計画の中にある。そのことを信じて、主の御計画の一端を担う者として歩みたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

5月5日(日)のみことば

「しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった。」(旧約聖書:ネヘミヤ記9章17節)

「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、じつは自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(ローマ書2章1節)

人が人を裁くことが厳しく戒められております。人が人を裁くことが、どうして問題なのでしょうか? 新約聖書の「裁き」という言葉は「クリネイン」というギリシア語です。ここから「批評」を意味する「クリティーク」という言葉や、「危機」という意味の「クライシス」という言葉が生まれました。「批評」と「危機」が、同じ一つの言葉から生まれたというのが、とても象徴的だと思います。

私たちも、日常生活の中で、しばしば経験することですが、批評するというのは、本当に難しいものです。批評の難しさといえば、こういうことがあります。高名な評論家が、新進作曲家の楽曲を厳しく批評した。ところが、やがてその音楽が世に受け入れられて、あの批評が誤りであったことが、誰の目にも明らかになる。そういうことは、世間では、よくあるものです。つまり、クリティーク(批評)をすることは、彼にとってクライシス(危機)でもある。人を批評することは、批評しているその人にとって、じつは大きな危機なのです。