聖書:士師記6章1~18節・フィリピの信徒への手紙4章13節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ギデオンは彼に言った。『わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、「主は、我々をエジプトから導き上られたではないか」と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。』主は彼の方を向いて言われた。『あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことが出来る。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」(士師記6章13~14節)

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピの信徒への手紙4章13節)

 

今日は旧約の士師記の御言葉を読みました。士師記というのは士師たちの働きを記した書物という意味ですが、皆さん、どうでしょう。士師と聞いても、ピンとこないですね。じつは、士師というのは以前は「さばきづかさ」とも呼ばれました。まあ「さばきずかさ」と言っても、今の若い人たちには分かりにくいかもしれません。試しに英語の聖書を見ますと「士師」というのはジャッジという語が当てられている。裁く人、審判をする人のことです。

イスラエルの人々が荒野の旅を終えて、カナンに定住した。それからしばらくは、イスラエルに王はいなかった。サウルやダビデといった王様が立てられるまで、もともとイスラエルには王はいなかった。これはイスラエル民族を知る上で大事なことです。王のいない時代に、何か大きな問題が起こると、神様はある特別な人を起こして、その人に問題を解決する能力と役割を担わせた。それが士師と呼ばれた人々だったのです。

その士師たちの中で最も名高いのがギデオンです。ギデオンは、わずか300人の兵隊を率いて何万という敵を打ち破ってイスラエルを救った人物です。当時のイスラエルはミディアン人という荒々しい敵に攻められて、危機的な状況にありました。それで、イスラエルの人たちは山に逃げ込んで、洞窟の中に身を潜めて暮らしていた。その時に、ギデオンは、必要に迫られて、酒船の中で小麦を打っていました。すると、そこへ神様の使いが現れて、こう告げました。

「勇者よ、主はあなたと共におられます。」

その時、ギデオンが答えた言葉が13節に記されています。

「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」

これは注目すべき言葉です。御使いが「主があなたと共におられます」と言うと、ギデオンは「そんなことはない」と言い返しているのです。こういうエピソードが聖書に載っていること自体が、大変に興味深いと思います。ギデオンの言い分は、こうです。主なる神様が共にいてくださるなら、今のような惨めなことにはならないではないか。こんな惨めな状態になっているのは、神様が私たちを見捨てられた証拠ではないかと。そう言ってギデオンは御使いに食ってかかっているのです。

こういう思いというのは、ギデオンだけでなく、信仰生活をしている人間に必ずと言って良いほど、湧き上がって来る思いだと思います。神様が共におられるなら、どうしてこんな辛い目に遭うのか。これは神様が私を見捨てておられるからではないかと、そういう思いが募ってくることは、私たちの信仰生活の中で、しばしば起ってくることです。この問題は、じつは信仰を持って生きて行く上で、大変に重要な問題です。重要な問題なんだけれど、多くの人は、そこを曖昧にして突き詰めることをしない。ところが、ギデオンは、そこを曖昧にすることなく、神様に真正面から食ってかかっているのです。私は、これは大事なことだと思うのです。

もう一つ、ギデオンが言っていることがあります。ギデオンは「私たちの先祖が『主は我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えたあの御業はどうなってしまったのですか」と言っております。ギデオンという人は、昔から語り伝えられた神の恵みの御業を聞いて知っているのです。今流に言えば、聖書をよく読んで神様の御業を知っている、そんな感じです。昔、私たちの先祖が奴隷であった時に、神様は先祖をエジプトから導き出してくださった。海を二つに分けて渡らせてくださった。荒野で食べ物が無いときに、天からマナを降らせて養ってくださった。水が無くなったら岩から水を出して潤してくださった。そういう、イスラエルの人々が経験した不思議な御業を、ギデオンは聞いて知っているのです。しかし、ギデオンは「その御業はどうなってしまったのですか」と言っています。神様は私たちを見捨てておられるじゃないですかと。これがギデオンの言い分です。

どうでしょう。私たちも聖書を通して神様の御業を知っております。その聖書が語っていることと、現在自分が直面している問題の解決が、分離している。聖書は神様は私たちを助けてくださる、救ってくださると語っている。けれども、私の問題はちっとも解決しないではないか。これがギデオンが言うことです。いわば、ギデオンは私たちの本音を、私たちに代わって神様にぶつけてくれているわけです。

こういう本音を持って神様に食ってかかったギデオンに、神様は何と言われたか。14節に、こう書いてあります。

「主は彼の方を向いて言われた。『あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことが出来る。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」

いかがでしょうか。「神様は私を見捨てられた。私なんか役立たずで何の力もない」と言っている人を、神様は「あなたを選んで遣わすのだ」と言っておられる。これは注目すべきことだと思います。神様は力と自信に満ちた人を選んで遣わすのではない。むしろ、力も自信も無く、無捨てられた人間ではないかと悩んでいる人を選ばれる。なぜでしょうか。神様がお選びになるのは、器なのです。中身がぎっしり詰まった器を神様は選ばれません。いつも空っぽの器を、ご自分のために選ばれる。だからパウロは言いました。

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

ギデオンは、いわば空っぽの器として選ばれた。中身を満たしていただくために選ばれたのです。しかし、それでもギデオンは「はい、そうですか」とはよう言わない。彼はこう言い返しています。

「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことが出来ましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」

これはギデオンの実感だと思います。決して儀礼的に遠慮して言っているのではない。本当に無力な一族の、いちばん役立たずの人間なのです。これではとても神様の役に立つことなど出来ませんとギデオンは言うのです。しかし、神様はそんなギデオンをお選びになる。これは、このあともずっと続きます。

後になって、ギデオンがミディアン人と戦う時に、「神様が我々を救ってくださるのだから、戦うために集まりなさい」と人々に呼びかけたら、3万2千人の人が集まりました。しかし、敵はもっと大勢いますから、ギデオンは「これは少ないなあ」と思っていますと、神様は「多すぎる。もっと減らせ」と言われる。そこで「帰りたい者は帰りなさい」と言うと、何と2万2千人が帰ってしまって、残りは1万人。こりゃ大変だと思っていると、神様はそれでも「多すぎる」おっしゃって、しまいには、とうとうたった3百人になってしまった。3百人と数万人とでは、初めから問題にならない。人間の考えから言えば、これでは戦いにならない。なぜ神様はそうなさったのか。皆さん、なぜだと思われますか。

神様が御業をなさる時というのは、目的があるのです。それは、神がおられること、神が生きて働いておられることを、すべての人に示すためなのです。だから、神様は力の無いギデオンを選び、兵を3百人にまで減らしたのです。神様が生きて働いておられることが、誰の目にも明らかになる。そして神の御名が崇められる。人が崇められるのではなく、神様の御名が崇められる。これが大事なことです。

ですから、私たちが体が弱ってきたとか、何の力もないとか、もう神様のお役に立つなんて、とんでもないとか、そういうふうに思う時に、じつは神様はその人を用い始めておられる。ギデオンは「自分は役立たずだ」と言いましたが、役立たずの人間が神様の御用のために用いられていく。そういう世界があるのです。使徒パウロが第二コリントの中で「わたしは弱い時にこそ強い」と言いました。人間というのは、本当に弱くならなければ、神様を求めません。自分の弱さを知ることが大事です。今の日本の社会は弱さを恥じる社会だと思います。弱さを出してはいけない。弱さはみっともないもの、人目に出せないものという考え方が社会全体に根付いています。

ところが、信仰というのは、自分の弱さを知るところから始まる。弱さを認めて、神様、どうぞお任せしますので、助けてくださいと、心から言う時に、あなたの信仰があなたを救ったと、お声をかけていただけるのではないですか。本当に自分が弱い者になって、役立たずになった時に、神様がこの役立たずの私を用いて栄光を現してくださるという、信仰のいちばん大事なところが現れて来る。弱い体を通して、誰の目にも明らかになる。そういうことが起こってくるのが信仰の世界です。神様はギデオンに、そういう役目を与えてくださったのです。

ここでギデオンがすぐに信じたら、「ギデオンは偉い。やっぱり私らとは違う」となるのですが、実際のギデオンは、なかなか信じない。17節を見ますと、彼はこう言っております。

「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。」

やっぱり信じ切れていないのです。委ね切れていない。こういう姿を見ますと、ギデオンというのは、私たち皆が持っている一面と言いますか、私たちの中に、やはりギデオンはいるのではないかと思います。言われても、示されても「ダメじゃないか」「本当にそうだろうか」と愚痴り、「本当に神様の言葉なのだろうか、ひょっとして自分の思い込みではないか」と繰り言を言う。疑いの心が頭をもたげてくるのです。

ところが、この後、これが本当に神様の言葉だと分かりますと、今度はギデオンがブルブルと震えてくるんです。これは本当に神様の言葉なのかと疑う。神様の言葉だと分かると、恐ろしくなって震える。なんとも愚かな姿ですが、これが案外、私たちの正直な姿ではないかと思います。

そして、これは神様が語っておられると分かった、そのあとも、ギデオンは神様の御用をする時に、しつこく証拠を求めています。36節に書いてあるのですが、「本当に神様が私を遣わしてくださるのなら、羊の毛を置いておきますから、その羊の毛だけに露が降りて、ほかの土地は渇いているようにしてください」と言うと、神様は「よしよし」と言って、そうしてくださいます。それでギデオンは納得したかというと、そうではなくて、「今度は反対にしてください。ほかはべったり露が降りるようにして、羊の毛だけが渇いているようにしてください」と言う。まあ、なんと、しつこいことかと思いますが、人間が神様に対して確信を持つまでには、なかなか、手がかかると言いますか、一筋縄ではいかないです。このギデオンに神様はあきれたというのじゃなくて、忍耐強く付き合っておられるのです。こうして、やっとギデオンは「はい、あなたに従います」と言って、神様の言葉に従うわけです。人が一人、信じるまでには、こんなにも尊い神様の愛と忍耐があったのだと、私などはつくずく思います。そう思いますと、ギデオンというのは私たちの代表だということが分かってまいります。

ギデオンは「あの御業はどうなってしまったのですか」と言いました。私たちも同じことを思います。「神様の救いの御業はどうなってしまったのか」と不平を言います。しかし、じつは、神様の御業は、既に始まっている。不平の背後で、不信の背後で、神様の忍耐が、私たちの中に始まっている。御業が、私たちの弱さ、愚かさの中で始まっている。私たちの神様とは、そのようなお方。そのことを今日の礼拝で心に刻みたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

4月28日(日)のみことば

「確かな判断力と知識をもつように、わたしを教えてください。」(旧約聖書:詩編119編66節)

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。」(ローマ書5章1節)

今日の新約の御言葉は「このように」という言葉で始まっています。この言い方は、ローマ書がこれまで語ってきた救いの筋道・救いの内容を、ここで今一度確認をしている言い方です。では、その救いの筋道、救いの内容とは、どういうことだったかと言うと「私たちは信仰によって義とされた」という一点に尽きます。そこが、まさにローマ書の急所なのです。これまでパウロは、人間が一人の例外も無く罪人であって、一人の漏れも無く神様の怒りの下にある、ということを繰り返し語りました。

罪人である人間は、いったい、どうしたら神様の前に受け入れていただけるのか? これは人間のすることではなくて、神様ご自身が、罪人に対する憐れみの故に、備えてくださった道です。それは、神様が独り子イエス・キリストをこの世に送ってくださって、私たちの罪を一切合財、このキリストの負わせて、十字架において解決してくださった。私たちは、自分の側に全く功績も手柄も無い。何の代価も支払わずに、すべての人がキリストの贖いによって、神様の前に義とされ、受け入れられる。そういう驚くべき救いの事実を、パウロは神様から示されて、それを語ったのです。