聖書:詩編33編1~11節・マタイによる福音書11章7~19節
説教:佐藤 誠司 牧師
「正しき人よ、主によって喜び歌え。賛美はまっすぐな人にふさわしい。」(詩編33編1節)
「今の時代は何たとえたらよいか。広場に座って、ほかの者たちに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。』」(マタイによる福音書11章16~17節)
この朝、私どもに開かれております御言葉は、マタイ福音書第11章の7節以下の物語です。これは、先週読みました11章1節以下の物語の続きにあたるところですので、今日の物語に入る前に、今少し、先週のお話を振り返ってみたいと思います。
主イエスがお生まれになるその半年前に誕生し、主イエスの到来を絶えず指し示してきたバプテスマのヨハネがヘロデに捕らえられ、投獄されてしまった。今や、その命は風前の灯です。そこでヨハネは、弟子たちを主イエスのもとに遣わして、こう尋ねさせました。
「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
死を目前にして、ヨハネの心は揺れているのです。主イエスはそのことを見据えておられます。そして実際、ヨハネはこのあと、ヘロデとその家族の犠牲になって殺されてしまいます。ヨハネの死。それは、一つの時代の終焉を意味するものでした。主イエスもそれを見抜いておられたと思います。だから、主イエスはヨハネの弟子たちが帰ったあと、人々に向かって、こうお語りになったのです。
「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら、宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。」
主イエスはヨハネの死が近いことを悟っておられるのです。それだけに、ここにはヨハネに寄せる愛惜の思いが切々と語られていると思います。主イエスはヨハネの命を愛し、惜しんでおられるのです。多くの人々が荒れ野のヨハネのもとに行って、ヨハネが語る説教を聞き、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを受けました。確かに多くの人が、そうしたのです。
しかし、その中の、いったい何人がヨハネの本当の姿を見たことだろうか? あなたがたは何を見に荒れ野に行ったのか? 風にそよぐ葦のようなヨハネを見に行ったのか? 違うだろう。では、しなやかな服を着て、ぜいたくに暮らす人を見に行ったのか? そうではないだろう。では、あなたがたは、荒れ野で何を見たのか? 預言者か? そうだ。しかし、ヨハネは預言者以上の者だったのではないか? 主イエスはヨハネを「預言者以上の者」とまで言い切っておられる。
でも、どうしてヨハネが預言者以上の者なのでしょうか? ヨハネがイザヤやエレミヤ以上の者だと言っておられるのでしょうか? そうではないでしょう。主イエスはヨハネと、イザヤやエレミヤとを比べておられるのではないのです。次の27節で、主イエスは旧約のマラキ書の言葉を引用して、こう述べておられます。
「『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を備えさせよう』と書いてあるのは、この人のことだ。」
ヨハネはマラキ書が言うようにメシアよりも「先に遣わされた使者」であり、メシアの道備えをする役割を担ったのです。つまり、ヨハネの偉大さは、ヨハネ自身の中にあるのではなくて、ヨハネが救い主イエスの先駆けとなった。そこにヨハネの偉大さがあるのだ、と主イエスは言われるのです。だから、主イエスは続いてこう言われる。
「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
ヨハネは偉大だと主イエスは言われるのです。しかし、そのすぐあとで、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大だとも言っておられる。どうしてなのでしょうか? 時代が変わったからです。この福音書のもう少し先に書かれている箇所ですが、16章の16節に、こんな言葉が記されています。今日の箇所と深い関係がありますので、少し先取りをして、読んでみたいと思います。
「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、誰もが力ずくでそこに入ろうとしている。」
律法と預言者はヨハネの時までだった。つまり、ヨハネと共に古い律法と預言者の時代は終わったのだと主イエスは言っておられるのです。どうして預言者の時代は終わったのか? 預言者たちの究極の働きとは、どういうものであったか? 神の救いの到来を彼ら預言者は告げたのです。ならば、神の救いそのものであるお方が来られたからには、もはや預言者は必要ないということになるのです。
ちなみに、ユダヤ教では、主イエスは「来るべきメシア」ではなく、あくまで預言者の一人です。つまり、ユダヤ教にとってみれば、イエスは来るべき神の救いを預言する一人の預言者に過ぎないのです。しかし、主イエスは神の国はすでに私とともに来ているとおっしゃる。ルカ福音書の17章の20節に、こんな言葉が記されています。
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。『神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。「ここにある」とか「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。』」
あなたがたの中にというのは、あなたがたの只中にという意味です。「ここにある」とか、「あそこにある」という言い方は、神の国をあくまで「場所」として捉えている言い方でしょう。しかし、主イエスは、神の国は場所ではない、とハッキリ言っておられるのです。神の国は、実に、あなたがたの中、只中にあって生きている。生きて働いている。歩いてもいるし、語りかけてもいる、と、主はそう言われるのです。神の国は、あそこにある、ここにある、というようなものではない。主イエスご自身がおられるところ、すなわち、あなたがたの只中に生きている。神の国は、あなたがたの真っ只中に飛び込んで来ている。
しかし、それに対して、人々はどう答えただろうか? ルカ福音書7章の29節と30節にこう書いてあります。
「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」
悔い改めを迫るヨハネの言葉に対する人々の態度は、真っ二つに分かれたというのです。徴税人や罪人たちはヨハネの言葉を聞いて悔い改め、バプテスマを受けて、神の正しさを認めた。
ところが、ファリサイ派の人々や律法学者たちはどうであったか? ヨハネからバプテスマを受けないで、自分に向けられている神の御心を拒んだのです。神様が恵みをもって人々に臨んでおられるのに、その御心を拒絶したのです。ここに彼らの罪がハッキリ指摘されています。
神の御心を拒んだ人たち、神の招きを拒絶した人たちが、ヨハネや主イエスに向かって何と言ったか? それは今日の箇所の18節以下に、こう記されています。
「ヨハネが来て、パンも食べも飲みもしないと、『あれは悪霊にとりつかれている』と言い、人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」
よく知られているように、ヨハネは質素な服装をし、一滴のぶどう酒も飲まず、貧しい食べ物しか口にしないという、じつに禁欲的な生活を実践し、それを人々にも求めて、悔い改めを説いたのです。しかし、人々はそれを見て「あれは悪霊にとりつかれている」と揶揄したのです。そこに、主イエスが来て徴税人や罪人たちと食卓を共にすると、人々は「あれは大食漢だ、大酒飲みだ」と言ってあざ笑った。ヨハネの言葉にも主イエスの御業にも生きて働いている神の招きと御心を、この人々は無視し、拒絶したのです。主イエスが徴税人や罪人と呼ばれる人々とにぎやかに食卓を囲み、ときにぶどう酒をも飲まれたのは事実であったことでしょう。
しかし、主イエスはそうすることによって、どのような交わりを彼らの前に作り出しておられたことでしょうか? それは救われた喜びを共に分かち合う食卓だったのです。徴税人レビの家で催された大宴会、またザアカイの家で開かれた喜びの宴がそれを証明しています。主イエスは、ただの一度も憂さ晴らしの酒宴を開かれたことはないのです。
主イエスのおられる食卓、宴こそ、神の国の目に見える姿ではなかったか? そのような、目に見える神の国の生き生きとした姿を見ようともしない、この時代の人々のことを、主イエスは非常に興味深い譬えを用いて、こう語っておられる。それが16節以下の譬えです。
「今の時代は何たとえたらよいか。広場に座って、ほかの者たちに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。』」
この二重括弧に括られている部分は、おそらく、当時の子供たちが実際に歌っていた「わらべ歌」であろうと言われています。広場で結婚式ごっこをするために笛を吹く子供がいる。しかし、その笛に合わせて婚礼の踊りを踊ってくれる人はいなかった。「笛吹けど踊らず」という諺が、ここから生まれたといいます。じゃあ今度は、葬式ごっこをしようと言って、悲しみの歌を歌ったけれど、歌の調べに合わせて泣いてくれる人はいなかった。ああ、なんてつまらない、という、わらべ歌なのです。
でも、どうして主イエスは、ここでそのようなわらべ歌を引用しておられるのでしょうか? それは長い間、謎だったのです。それで、このわらべ歌は長い間、こんなふうに解釈されてきたのです。今の時代は「笛吹けど踊らず」の諺のとおり、せっかく自分が笛を吹いたのに誰も踊ってくれない、せっかく悲しみの歌を歌ったのに誰も泣いてくれないと言って、互いに相手を責めているような自己中心の社会ではないかと主イエスは言っておられるのだと、そのように理解されてきたのです。
ところが、最近は、そのように理解をする人は少なくなりました。そうではなくて、主イエスはこのわらべ歌にご自分の心を託しておられるのではないかと理解するのです。ヨハネも、主イエスも広場で歌を歌い、笛を吹いたのです。自分の心の思いを歌ったのではありません。神の喜び、神の悲しみを映し出す歌を歌った。それこそ、真剣になって歌ったのです。しかし、一緒になって歌ってくれた人はいただろうか? 神の喜びに合わせて喜びの歌を歌った人はいたか? 神の悲しみに合わせて涙した人はいたか?
今日は詩編の33編の言葉を読みましたが、これは私たちの讃美歌の原点を示す詩編でもあります。
「正しき人よ、主によって喜び歌え。賛美はまっすぐな人にふさわしい。」
「主によって喜び歌え」と言われております。詩編には、こういう言い方が多いです。この「主によって歌う」というのは、どういう意味なのか。よくよく考えますと、分かったようで分からない表現ですね。じつは、この「主によって歌う」というのは、大変に重要な意味を持っているのでありまして、言葉を補って説明しますと、「主が歌う歌に合わせて」ということなのです。ですから、賛美歌、賛美の歌というのは、私たちが自分たちの心の思いを神様に向かって歌っているのではないのです。神様が歌われる歌を私たちが聞いて、その歌声に合わせて一緒に歌う。神様の御心に心を開いて、心を合わせて一緒に歌うのです。「シンフォニー」という言葉が、ここから生まれました。
ヨハネが歌った歌も、主イエスが歌った歌も、共に神の御心を映し出した歌でした。ヨハネも、主イエスも、広場の真ん中に立って、一緒に歌おう、神の喜びに合わせて一緒に歌おうと呼びかけた。神の悲しみに心を合わせて共に涙しようと呼びかけたのです。ヨハネや主イエスをとおして、神ご自身が一緒に歌おうと誘っておられる、そう理解しても良いでしょう。
しかし、人々はいろいろな理屈を付けて、断ってしまった。あのヨハネは悪霊にとりつかれただけだと言い、あのイエスは大食漢で大酒飲みと言って拒絶したのです。
では、私たち人間は、神の歌われる歌声に合わせて賛美を歌うことは出来ないのでしょうか? そんなことはないのです。ルカ福音書の19章に、ザアカイの物語があります。人々から疎まれ、蔑まれて、いつしか心閉ざしていた徴税人の頭ザアカイが、自分の名前を呼んでくださった主イエスの一言によって心を開いた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。私は今日、あなたの家に泊まることにしている」とおっしゃったあの一言によって、心を開いた。主が歌っておられる神の歌に合わせて、ザアカイも歌ったのです。詩編33編が言う「主によって喜び歌う」とは、そういうことです。
礼拝に、教会に、久しぶりに帰って来られた方がおられます。また初めて教会に来られた方もおられる。その方々を心から喜んで迎え、一緒に喜んで礼拝をすることが出来る。天にある喜びが、私たちの喜びと重なって、神様の喜びを、共に分かち合うことが出来る。天にある喜びに、地上の私たちが与ることが出来るのです。「主によって喜び歌う」とは、そういうことです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
8月9日(日)のみことば
「見よ、私が支える僕(しもべ)、私の心が喜びとする、私の選んだ者を。」(旧約聖書:イザヤ書42章1節)
「あなたがたは、この世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(新約聖書:ヨハネ福音書16章33節)
あなたがたは、この世では苦難があると、ハッキリ言っておられる。悩みや苦しみがあるのは当然のことであり、当たり前のことなのだ。イエス様はそう言われたのです。私たちは、このことを、やはり心に留めておくことが大事だと思います。と言いますのは、何事につけ、快適さを追求する現代社会にあっては、悩みや苦しみがあるのは人生にとってマイナスだと思って、悩みがあるがために、自分の人生を駄目な人生だと決め付けてしまう人が多いからです。しかし、聖書はそうは考えない。むしろ、この世で悩み・苦しみがあるのは当たり前のことだ、と、そういう前提に立って、聖書は私たちに語りかけています。
確かに私たちには悩みや苦しみがあります。しかし、その悩み・苦しみは、ただ単にマイナス要素ではない。それは、やがて私たちが受ける栄光と切っても切れない関係にある。聖書は「産みの苦しみ」という言葉を使います。産みの苦しみというのは、子供を産むためのお母さんの苦しみです。これは目的の無い苦しみではありません。無意味な苦しみでもない。新しい命を産み出すための、尊い苦しみです。私たちが生きていく上で経験する様々な苦しみ・悩みは、そういう産みの苦しみなのだ、ということを聖書は教えています。
