聖書:創世記1章26~31節・マタイによる福音書7章1~5節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神は、造ったすべてのものをご覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」 (創世記1章31節)
「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書7章1~5節)
「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。」
主イエス・キリストのお言葉です。「人を裁くな」と言っておられます。これは私たちの生き方の急所を突く言葉ではないでしょうか? なぜなら、私たちの日常生活は、あたかも人を裁くことによって成り立っているように思えるからです。
この「裁く」という言葉は、聖書の原文では「クリネイン」というギリシア語が使われているのですが、ここから「批評」を意味する「クリティシズム」という英単語が生まれました。つまり、「批評」や「論評」も「裁き」に含まれるというわけです。そうなりますと、いよいよ私たちは毎日、人を裁いて生きていることに気付きます。あの人は案外気が小さいとか、あの人はなかなか頑張っているとか、そういう些細な人物評も裁きの範疇に入るわけです。
そして、この「クリネイン」というギリシア語から、「危機」を意味する「クライシス」という言葉も生まれました。「裁き」と「批評」、「危機」。この三つは同一線上に重なるのです。どういうことかと言いますと、人を裁いたり批評したりするのは、じつを言うと、裁いている本人にとっては「危機」なのです。例えば、こういうことは、よくあるものです。新進作曲家の作品を高名な音楽評論家が酷評した。ところが、のちになってその作品が広く受け入れられて、その音楽評論家は自分が下した評価によって逆に評されるようになる。このように、人は自分が下した裁きによって裁き返される。裁きというのは、裁いているその人にとって、本当は「危機」なのです。
では、それは、いったい、どのような危機なのか? 私たち教会に集う者の場合、それは当然、信仰の危機と言えるのではないでしょうか? 教会の交わりの中にも「裁き」はあります。さすがに悪意のある裁きではないでしょうし、人を陥れるための裁きでもないでしょう。ひょっとして正義感や善意から出た裁きであるかも知れません。しかし、人間の正義感や善意から出た行為というのは、案外、たちの悪いものであることが多いのです。他人の欠点ばかりが目について、それを批判している自分の姿が見えていない。そういうことは、案外、多いのではないかと思います。人が人を裁くときの目は、相手の咎や欠点しか見ていないのです。肝心のものが見えていない。
では、肝心なものとは何か? それは、神様がおられるということ。神様が最終的にお裁きになるということです。私たちが人を裁き始めるとき、神様がおられるということを忘れている。最終的に私たちをお裁きになるのは、神お一人だということをキレイさっぱり忘れているのではないでしょうか? そういう神不在の荒れ野のような心で、私たちは裁きに熱中するのです。人が人を裁くとき、振りかざすものがあります。正義です。人は必ず正義の刃を振りかざして他人を裁きます。しかし、その正義とは、あくまで人間の正義ですから、時代によって、また状況によって変わってくる、逆転する正義です。これは、あくまで相対的・主観的な正義です。
そうではなくて、神がまことの裁き主としておられる。そのことが本当に解るならば、私たちは、なおも人を裁き続けることが出来るでしょうか? 批評し続けることが出来るだろうか? まことの裁き主として神がお裁きになる。この肝心要の一点が見えていない人の姿を、主イエスは譬えを用いて、次のようにお語りになります。
「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。」
イエス様が語る譬えというのは、ある部分を大きく誇張してあることが多いですね。その誇張によって、人間の愚かしい姿をより鮮やかにお語りになることが多いのです。ここもそうです。他人の目の中に、風に飛ばされるほど小さなおが屑がある。それに対して、自分の目の中には巨大な梁が横たわっているというのです。これが逆なら、なんとなく納得できるのです。他人の目にある梁には、たとい自分の目におが屑があっても気がつくものだというふうに、なんとなく解る。しかし、主イエスは敢えて、その逆を言われるのです。
ところで、主イエスはここで、もともとは「人を裁くな」と言っておられたはずです。それなのに、どうして目の中にあるおが屑や梁のことを言われるのでしょうか? 目のお話が「裁き」とどのような関係があると言われるのでしょうか?
聖書に出て来る「裁く」という言葉は、もともと「分ける」という意味のあった言葉でした。あるものを他のものから区別し、見分けて分けるのです。収穫の季節を迎えると、農家の人たちは収穫物の選別をします。これは出荷できる。これは出来ないというふうに、品質によって分けるのです。このように分けるためには良し悪しが解っていないといけません。目利きでないと駄目なのです。こういうところから、「分ける」という意味のあった言葉が「裁く」という意味を持つようになり、さらには「批評する」、「批判する」という意味をも持つようになったのです。
このように、裁くという行為は目利きでないと勤まらない。正しく裁くためには、じっと目を見開いて、見ていなければならない。だから、目で見ることと裁きとは深いところで関連しているのです。だからこそ、主イエスはここで裁きとの関連で目の中にある梁の譬えをお語りになったのでしょう。
しかし、肝心なのは、ただ見ていることではなくて、どんな眼差しで見ているかではないでしょうか。冷たい眼差しで見れば、冷たい裁きになってしまうでしょうし、軽蔑の眼差しで見れば、人を軽蔑する心を映し出した裁きになってしまうでしょう。しかし、裁きとは、そういうものであって良いのでしょうか?
皆さん、意外に思われるかもしれませんが、聖書に出て来る「裁き」という言葉には「良しとする」という意味もあったのです。どうして裁きが「良しとする」という意味を持ったのか? それは、今日読みました創世記第1章の天地創造の物語の中に語られています。今日は26節からあとを読みましたが、はじめのほうの4節にこう書いてある。
「神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」
いかがでしょうか? ここには「見る」という言葉と「良しとする」という言葉、それに「分ける」という言葉が並んで出て来ています。裁くという言葉は「分ける」という意味のあった言葉であったと言いましたが、それは天地創造の御業と深い関連があったのです。さらに神様はこのあと、水と水とを分け、陸と海とを分けられ、さらに昼と夜を分けられる。そして今日読んだ26節以降で神は人間をお造りになる。そしてその最後、31節にこう書いてあります。
「神は、造ったすべてのものをご覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」
神はすべてのものを見て、喜ばれた。良しとされた。これが世界で最初の「裁き」だったのです。なんとおおらかな「裁き」であったことでしょうか。この創造物語に繰り返し出て来る言い方があります。「神はこれを見て、良しとされた」という印象的な言い方です。もうこれだけで、神様がどのような眼差しで世界をご覧になり、人間を見ておられたかが解る。「愛」の眼差しで見ておられた。だからこそ、「良しとする」という「裁き」が行われたのです。これが本来の神の裁きだったのです。このことを、私たちは肝に銘じたいと思います。
人の裁きと神の裁き。この二つの裁きの決定的な違いは何か? 神の裁きは生かす裁きなのです。それに対して人の裁きは相手を殺す裁きになりがちです。それは今の世界の現状を見れば、たちどころに解る。どうして人間は、相手を殺す裁きしか出来ないのでしょうか? もう一度、最初の御言葉に耳を傾けてみたいと思います。
「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。」
誰がこの私を裁き返すのか? もちろん、それは神様です。あなたが人を裁くとき、それと同じ秤で、神があなたを裁かれる。まことの裁き主がおられる。そのことをあなたは弁えているか、と主イエスは言われるのです。
主が「人を裁くな」とおっしゃる。それは仕返しされないようにということではない。人のことをあれこれ口出しするのは止めようということでもないのです。隣人への無関心を勧めておられるのでもない。隣人の目におが屑を見つけたら、取り除いてあげればよいのです。しかし、その前に、あなたの目にある梁を取り除きなさいと主は言われる。さあ、私たちの目の中にある梁とは何か? 聖書には「梁を取り除け」と書いてありますが、目の中にある巨大な梁を自力で取り除ける人など、一人もいないでしょう。じゃあ、どうすれば良いのか? これはもう、取り除いていただくより道は無い。いったい誰に取り除いていただくのか? そう、今、これを語っておられるお方に取り除いていただくのです。
もうお解かりになったことでしょう。この梁、自分では取り除くことが出来ない梁とは、私たちが自分では拭い去ることの出来ない「罪」のことです。この罪の梁が居座っているから、愛の眼差しで人を見ることが出来ないのです。
主イエスはこの罪の梁を取り除いてくださいました。十字架につくことによって、罪を丸ごと、身代わりになって背負ってくださった。それによって、私たちの目は曇りのないものとされたのです。そして隣人を愛の眼差しで見ることが出来るようになった。「人を裁くな」とは、隣人に無関心であれということではありません。隣人の目におが屑を見たなら、「どうぞ私にそれを取らせてください」と言えば良い。愛と友情をもって言えば良いのです。そのための愛の視力を回復させていただくことが大事です。だから、主イエスは最後にこうおっしゃる。
「そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことが出来る。」
はっきり見えるようになる、と言われています。何がはっきり見えるようになるのか? 神の裁きです。神の御業です。そして神の御心です。そのとき初めて私たちは見ることになる。神の裁きがどのようなものであるかを、見ることになるのです。それは人を生かす裁き。罪人をも生かす裁きです。
皆さんは、旧約聖書の中に「兄弟の罪を赦しなさい」という戒めが全く出て来ないことをご存知でしょうか。どうして出て来ないのか。戒めというのは、律法なのです。ところが、「兄弟の罪を赦しなさい」というのは、もはや律法ではなくて、福音です。どういうことかと言いますと、「兄弟の罪を赦す」というのは律法の定めに縛られて出来ることではなくて、福音によって引き起こされる出来事なのです。
旧約の時代、イエス様がまだ来られない時には、「兄弟の罪を赦しなさい」というのは、まだ誰にも言えないことでした。イエス様が来てくださって、イエス様の口から初めて言えたこと。それが「兄弟の罪を赦しなさい」ということだと思うのです。ところが、「赦せ」という言い方が命令形なものですから、私たちは、つい、「殺すなかれ」とか「盗むなかれ」というような律法の戒めと同じように理解をしてしまう。
ところが、「赦せ」というのは、見かけは律法と同じ命令形ですが、律法が決してなし得ないものです。本当に神様の憐れみを知った者が初めて、兄弟の罪を赦すことが出来るようになる。
この一点に目が開かれたときに、今、私たちが心の中で密かに裁いている隣人も、同じ愛と赦しの中に置かれていることが見えてくる。そのときに私たちは、人を裁こうとする思いからも解き放たれて、真の友愛をもって「あなたの目にあるおが屑を取らせていただけますか」と言うことも出来るようになると思います。そして、そこに初めて教会の主にある交わりが生まれてくると思うのです。

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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
4月12日(日)のみことば
「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」(旧約聖書:出エジプト記20章3節)
「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」(新約聖書:ローマ書14章7~8節)
今日の新約の御言葉には、パウロのものの言い方の特徴がよく現れています。パウロという人は、普通だったら命令形で言いそうなところを、命令や戒めではなく、今、あなたがたはこういう生き方にされているという現実を述べる。私たちは、自分たちの現実の姿というと、すぐに、信仰の薄い姿、人を裁いたり、うらやましがったり、人のことで怒ったりという、そっちのほうを現実の姿だと思い勝ちですが、パウロはそういう考えを否定します。そういう生の生き方がキリスト者の現実の姿なのではなく、キリストの贖いの御業によって新しくされた姿こそがキリスト者の現実の姿なのだとパウロは言うのです。
一つ例を挙げますと、エフェソの信徒への手紙に「光の子として歩みなさい」という有名な言葉がありますね。あそこでパウロは「光の子になりなさい」と言っているのではないのです。もうあなたがたは、キリストにあって、既に光の子とされているのだから、光の子として歩みなさい。パウロが言うのは、そこなのです。決して闇の子が現実なのではない。光の子が現実の姿です。いかに今の姿がいまだに闇の子としての姿を色濃く残していようと、既に光の子とされている。だからパウロは「光の子になりなさい」ではなくて「光の子として歩みなさい」と言うのです。