聖書:出エジプト記3章1~6節・ヨハネによる福音書20章24~29節
説教:佐藤 誠司 牧師
「トマスは言った。『あの方の手に釘の痕を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。』」(ヨハネによる福音書20章25節)
「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『私の主、私の神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。』」(ヨハネによる福音書20章27~29節)
2026年の復活祭をおぼえて、弟子のトマスの物語を読みました。私たちがトマスの人物像を捉える時に、どうしても陥ってしまう先入観があると思います。教会学校の子どもたちに聖書に親しんでもらうために、よく「聖書かるた」というのをやりましたが、その中に、腕組みをして首をかしげているトマスの絵がありまして、その絵に合わせて「疑い深いトマスさん」という言葉が読まれます。かるたというのは、子どもの心にとっては、まさに刷り込み現象でありまして、このかるたで育った人は、大人になっても、トマスと聞けば、「疑い深い」という枕詞が心のどこかで響いている。そういうところがあると思います。
けれども、ヨハネ福音書は、決してトマスのことを疑い深い人物だとは言っていない。ヨハネ福音書が問題にするのは、トマスの疑い深さではなく、信じるという最も尊い心の姿と言いますか、トマスの信じ方そのものを問うているように思うのです。
じゃあ、トマスの信じ方とは、どういうものであったのか。そこが肝心要になってまいります。今日は24節以降を読みましたが、その少し前、19節から物語に入って行きたいと思います。週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた。すると、そこへ復活の主イエスが現れて、皆の真ん中に立って、こうおっしゃったのです。
「あなたがたに平和があるように。」
そう言って、手と脇腹をお見せになった。「弟子たちは、主を見て喜んだ」と書いてあります。ところが、この喜びの中に、トマスはいなかったのです。トマスは外出していたのでしょう。トマスは復活の主イエスとお会いすることが出来なかったのです。
やがて、トマスが家に帰ってきます。すると、弟子たちは口々に「私たちは主を見た」と言う。聞いているトマスは心穏やかではなかったでしょう。そのせいでしょうか。彼は、思わずこう言い返すのです。
「あの方の手に釘の痕を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」
人間、思わず口にした言葉には、その人の本当の思いというものが現れるものです。ここも、じつはそうでありまして、トマスが他の弟子仲間にあれこれ言われて、反射的に出て来たこの言葉の中に、彼がどのような思いで信じてきたか、それが正直に現れていると思います。トマスは、平たく言えば「証拠を見るまで、信じない」と言ったのです。
見ることと、信じることが直に結び付いていることに、皆さん、気付かれたでしょうか。しかも、見るほうが先になっている。まず見る。見るから信じる。これがトマスの信じ方なのです。皆さんは、この信じ方を、どう思われるでしょうか。
現代社会に生きる私たちは、見ることと信じることを結び付けても、そう違和感は感じないのではないかと思います。確かに、証拠を見ると、私たちは信じてしまう。そういうところが、確かにあると思います。しかし、証拠を見て信じるという場合の信じるというのは、本当に信仰の姿なのでしょうか。
じつは、見ることと信じることを結び付ける考え方は、もともと、ユダヤの人々には無かった考えです。見ることと信じることを結び付ける考え方は、当時、地中海世界を席捲しつつあったギリシア的な考えです。この考え方が知恵を重んじるギリシアの思弁の中心になりまして、科学的な考えの土台になっていきます。見るから信じるという考え方が、今や現代人の常識になっています。
ところが、これに対して、聖書は全く異なる考え方を持っています。聖書の考えは、見るから信じるのではなく、その反対です。信じるから見るのだと聖書は教えます。イエス様は、弟ラザロを失って悲嘆に暮れる姉マルタに、何と言われたでしょうか。「もし信じるなら、神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」と、そうおっしゃったですね。神様の栄光というのは、信じるから見るのです。見るから信じるのではない。
また、ユダヤの人々が持っていたヘブライ的な考え方に在っては、信じることは見ることとは決して結び付かず、むしろ、愛することと不可分に結びついている。見るから信じるのではなく、愛しているから信じるというのがヘブライ的な考え方だったのです。ヨハネ福音書の21章に、復活のイエス様がペトロと出会ってくださる物語がありますね。主イエスを三度に渡って否認したペトロが弟子であることを捨て去って、故郷のガリラヤに帰って来る。ガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしたのです。そこへ主イエスが現れて、ペトロに、こうおっしゃる。
「あなたはわたしを愛するか。」
あなたは私を愛するかと三度、お尋ねになりました。イエス様はあのとき、「あなたは私を信じるか」とお尋ねになっても良かったはずなのに、そうなさらなかった。あなたは私を信じるか、ではなくて、あなたは私を愛するかと尋ねられた。私は、これは大きなことだと思うのです。どうしてかと言うと、愛こそが信じることの土台になるからです。見るから信じるのではなく、愛するから信じるのです。
聖書が大切に伝えている信仰というのは、愛することと信じることの不可分の関連の上に成り立っています。ところが、いつしか、その中に、見ることを信じることの条件とするギリシア的な考え方が入り込んで来るのです。「手に釘跡を見なければ、決して信じない」と言ったトマスは、その典型です。見るから信じる。見たら信じるというのは、「信じる」という言葉こそ出て来てはいますが、じつは、信仰とは関係のない、ただの心の状態です。信仰でも信頼でもありません。なぜなら、そこには愛が無いからです。
しかし、イエスというお方は、そんなトマスの心に働きかけて、愛を芽生えさせてくださる。八日の後、弟子たちが皆、戸に鍵をかけて家に閉じこもっていたとき、今度はトマスもその中にいたのですが、主イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と祝福を告げてくださいました。そして、トマスの方を見て、こうおっしゃいました。
「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。」
こう言われた後に、トマスに向かって、こう言われた。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
イエス様は何を言っておられるのでしょうか。「信じる者になりなさい」とイエス様は言われる。この「信じる」とは、ギリシア的な見て信じることではない。見ることによって起こるのは納得ではあっても、決して信仰ではないからです。では、信じることは、何によって始まるのか。もうお分かりの方もおられると思います。愛することによって始まるのです。ですから「信じる者になりなさい」というイエス様のお言葉は、言い換えますと「愛する者になりなさい」ということでもある。復活のイエス様がペトロに「あなたはわたしを愛するか」と問われたのと同じことが、今、トマスにも問われている。あなたは私を愛するか。この問いを受けて、トマスは、どうしたか。トマスは、こう答えたのです。
「私の主、私の神よ。」
これは信仰の告白です。トマスは、この時、生まれて初めて信仰を告白したのです。この時、トマスは、主イエスを愛する生き方、主イエスを信じる生き方に変えていただいた。そう言っても良いと思います。では、信じるとは、いったい、どういうことなのでしょうか。
信じるというのは、心の状態のことではありません。生き方のことです。なぜなら、私たちの信仰というのは、人間と同じようなレベルの神様を相手にしているのではなく、天地の一切をお造りになった方を相手にして営まれている信仰だからです。ですから、この信仰は、私たちの生活のごく一部だけの局面を問うのではなく、全生活を問うている。信じることの上に、自分の全生活を築いていくことが求められるのです。
今日は出エジプト記の第3章のモーセが神様と出会う物語を読みましたが、モーセという人も、信じることの上に、全生活、全人生を築くことをやった人ですね。その引き金になった言葉が、これです。
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
この言葉は聖書の決定的な場面で出てきます。なぜなのでしょう。アブラハムもイサクもヤコブも、すでに死んだ人、過去の人です。ところが、神様は「私はアブラハムの神でした」とは言っておられない。「私はイサクの神でした」とは言っておられない。「私はヤコブの神でした」とは言われないのです。そういう過去形ではなく、敢えて現在形で言っておられる。「私は今もなお、アブラハムの神である」と言っておられるのです。アブラハムは確かに死にました。しかし、死んだ後も、神様はアブラハムの手を離しておられない。アブラハムの手をしっかりと握って、「私はあなたの神である」と言っておられる。聖書が言う「永遠の命」とは、そういうことです。
この神様を相手にしているのが私たちの信仰です。信じることの上に、自分の生活を建て上げるのです。アブラハムという人の生き方が、そうです。神様はアブラハムに向かって、大変大きなことを約束されました。神様はアブラハムを高い所に立たせて、「周りを見渡してごらんなさい。これらをすべてあなたとあなたの子孫に与える」と約束してくださいました。しかし、彼が生きているうちには、少しの土地も手に入れることは出来ませんでした。ですから、アブラハムは、奥さんが亡くなった時、妻を埋葬する土地がなかったのです。そこで、土地の人たちにお金を支払いまして、墓のための土地を買って、そこに妻サラを葬りました。普通に考えるなら、夢も希望も無い話です。それはそうでしょう。これらの土地を全部あなたに上げますよと、神様、おっしゃるのに、現実を見たら墓一つ立てる土地も無い。わびしい話です。
しかし、彼は信じて待つのです。神様の約束というのは、必ず成就する。時が巡り来れば必ず実を結ぶと信じた。信じただけではない。信じて待ったのです。信じて待つとは、どういうことか。これは信じるということの上に、自分の生活を建て上げるということです。信じるというのは、私たちの心の状態を言うのではありません。生き方のことです。ですから、信仰生活というのは、私たちの想像を超える、絶大な力を秘めている。ヨハネ福音書はそれを一言で、こう言い表しました。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
私たちの信仰生活というのは、自分が感動しているかとか、自分が迷っていないかとか、そういう心の状態を点検するのではなくて、私たちが神様の言葉を聞いて受け入れ、その御言葉にすがって生きている。これが大事です。2026年度はイースターに始まりイースター、で終わります。この一年を飛躍の年としてご一緒に歩みましょう。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
4月5日(日)のみことば
「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。イスラエルの追い散らされた者たちを集められる神の仰せ―私はさらに人々を集め、すでに集められた者たちに加えよう。」(旧約聖書:イザヤ書56章7~8節)
「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」(新約聖書:ローマ書3章29節)
神様はユダヤ人だけでなく、すべての人を贖ってくださったのだとパウロは言います。ところが、ここに福音をめぐって、一つの問題が生じます。それは福音と律法の関係です。ユダヤ人も異邦人も福音によって救われるとなると、じゃあ律法は無駄だったのかという疑問が生じます。この疑問に答えるのが次の言葉です。
「それでは、私たちは信仰によって、律法を無効にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
律法を確立するという言い方をしています。この「確立する」というのは、どういうことかと言いますと、物事の背後に込められた願いや心という、本質を掴み取るということなのです。
律法は神様がユダヤ人に与えてくださったものです。そこにはどのような願いが込められていたでしょうか。ユダヤ人がこれを完璧に守って、誇りを持つために与えられたのでしょうか。違います。人々が神様の御心を知って、それに従って生きていけるように、そういう願いが律法には込められていたのです。ところが、この神様の願い・御心は人間の「行いの法則」では叶えられなかったのです。しかし、今や、私たちはキリストの福音を聞いて、これを感謝をもって受け取り、そこに神様との生きた交わりが回復されました。神様の言葉を聴けるようになったのです。聞いて信じる。これこそ、律法に込められた神様の願いであり、御心です。今まで行いの法則のもとで生きていたときには、これが見えなかったのです。
