聖書:創世記45章1~8節・マタイによる福音書18章21~35節

説教:佐藤 誠司 牧師

「私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。」(詩編139編4節)

「不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(マタイによる福音書18章32~33節)

 

私たちは今、日曜日の礼拝で、主の祈りを学んでいます。主の祈りは主イエスが私たちに教えてくださった祈りです。しかも、主イエスは「この祈りを祈ってもいいよ」と言われたのではない。ハッキリと「あなたがたはこう祈れ」とお命じになった。命令形なのです。

「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」

罪の赦しを乞い願う祈りです。私たちが祈るのは厳かな文語訳の主の祈りですが、聖書協会共同訳は次のように訳しています。

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

おそらく、主の祈りを祈る多くの人にとって、最も重くのしかかってくるのは、この祈りの後半部分であると思います。

「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

赦しというのは難しいのです。「赦せない」という言葉を、私たちは一生の間に何度口にしたり、心に思ったりするでしょうか。それはもう、数えきれないと私は思う。また、大抵のことは赦せても、これだけは絶対に赦せないということが、どなたの心の奥底にもあると思うのです。あの人のことは、赦せない。思い出してもはらわたが煮えくり返る。しかし、そのマグマのような怒りの真っ只中に、主イエスはこの祈りを投げ込まれるのです。

「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」

この祈りは、一つの問いかけを持っています。この祈りは、それを祈る人に、問いかけている。あなたは赦さなくてもいいのか。他人のことは「赦せない」と言いながら、神に向かって「私の罪をお赦しください」と祈れるのか。じつに厳しい問いかけであると思います。

赦さなければならないことは理性では分かっている。しかし、どうしても赦せない。そういう赦しのジレンマは、どなたもが経験しておられると思います。心が疼きます。情けない思いもします。ああ、私の信仰も、たいしたことないなと心から思う。そんな心に向けて、主イエスは一つの譬え話を語ってくださいました。

そのきっかけを作ったのは、弟子のペトロでした。ペトロがイエス様のところにやって来まして、「兄弟が私に罪を犯したら、何回赦さなければなりませんか」と尋ねたのです。これは、ペトロが、「兄弟を赦しなさい」というイエス様のお言葉を日ごろから繰り返し聞いていて、自分もそれを是非実行したいと思ったからだろうと思います。しかし、そのときに「いったい何回まで赦したらよいのか」と、そういう考えが頭をもたげてくるわけです。日本でも「仏の顔も三度まで」なんて諺がありますが、同じ人が何度も何度も自分に対して不都合をしてくると、一回や二回は赦すけれども、そんなに度々は赦せない、と思うのが人情というものです。

で、そういう私たちが「イエス様のお言葉だから、これは守らないかん」と、そう思って、いわゆる律法的な戒めとしてこれを守ろうとしたときに、必ず出会うことが、いったいどこまで赦せば良いだろうかという問題です。だから、ペトロは「何度まで赦したら良いですか」と尋ねました。「七回までですか」と言いました。七回まで赦したら、もうそれで十分。八回目からは、やっつけたって良いだろうと、誰しも思う。とにかく、律法的な戒めというのは、必ずそこに限界が出て来ます。ここまでは我慢も出来るが、これ以上はダメという、そういう限界がどこまでも付きまといます。ですから、ペトロが、こういう質問をしたということは、彼がイエス様の「兄弟の罪を赦しなさい」というお言葉を、律法的な戒めとして受け取っていたことの証拠です。多分、ペトロは、そのとき、イエス様も「ああ、七回も赦したら上等だ」と言ってくださると思ったのでしょう。ところが、イエス様はそれに対して、こうおっしゃった。

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。」

言葉のとおり取りますと、「七の七十倍」なら490回、じゃあ491回目からはもう良いのか、と、そういうことになりますね。私たちは聖書の言葉を読む時、つい、そういうふうに理屈で読みたがる。これは裏を返せば、主イエスのお言葉を、数えることが可能な、律法的な戒めとして読んでいるということです。「七を七十倍するまで」とイエス様が言われたのは、そういうことじゃない。イエス様は言っておられるのです。「ペトロよ、お前はこれを律法として受け取っている。しかし、私が言っているのは律法ではない。福音なのだ。福音として聞きなさい」と、そう言っておられる。そして、そのことを説明するために、一つの譬え話を語ってくださいました。

王様から一万タラントンもの借金をしている家来が、それを帳消しにしてもらった。ところが、この人が百デナリオンを貸している同僚から、その借金を厳しく取り立てた、というお話です。お話としては少しも難しいものではない。分かりにくいとすれば、お金の単位くらいでしょうか。

1デナリオンというのは普通の労働者が一日働いて貰う賃金です。それに対して、1タラントンというのは、その600倍です。一万タラントンを計算したら、600億円になります。その600億の借金を、この人は無条件で赦してもらった。どんなにか喜んだことでしょう。もう本当に肩の荷がおりた。そういう思いで、彼は王様のところから出て来たと思います。

ところが、道でばったり、自分が100万円貸している友人と出合った。これは是非とも返してもらわないといかんと思って、返すまでは牢に入れると恫喝し、このお金を取り返した。ところが、これら一切のことを伝え聞いた王様が、こう言うのです。

「不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」

さあ、この主人の言葉は、いったいどういう意味を持っているでしょうか? ここは押えておくべき点だと思うのですが、これは一万タラントンという莫大な負債を赦してもらった人に対する言葉なのです。決して一般的な人の行いについて言っているのではない。常識から言えば、100万円の借金は、どうしても取り返したい。だから、それを取り立てたとしても、誰も咎めたりはしないでしょう。しかし、この主人は彼を咎めました。なぜですか? 皆さんは、どう思いますか? 主人が彼を咎めたのは、この人が一万タラントン、600億円という借金を赦してもらっている人だからです。

イエス様が「兄弟の罪を赦しなさい。七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのは、一般論を言っておられるのではない。ただ、人を赦すこと、人を寛大に扱うのは良いことだから、そうしなさいと、そういう一般的な戒めを語っておられるのではないのです。この仲間を責め立てた人が、もし、自分が受けた恵みというものを本当に自覚していたならば、ああいう行いはしなかっただろう。1万タラントン赦してもらった。確かに嬉しかったでしょう。しかし、本当に王様の憐れみの心というものを、彼は本当に理解していたでしょうか? 「私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と主人は言いました。この恵みの重みと言いますか、有り難さを、この人が本当に理解していたら、とても兄弟に対して、そういうことは出来ないだろう。これがイエス様の言っておられることです。あなたがどんなに大きな恵みを神様から受けているか。それを心に刻みなさい。もし、それが出来たなら、あなたは兄弟の罪を赦すことが出来る。

イエス様が「兄弟の罪を赦しなさい」とおっしゃるときはいつでも、その背後に「あなたのすべての罪を赦して、あなたを愛しておられる神様がおられる。そのお方を信じなさい。神様があなたを贖うために、何をしてくださったか、よく考えなさい」と、そう言っておられる。だから、兄弟を赦すその赦しとは、恵みへの応答なのです。

しかし、皆さんの中には「それは綺麗ごとだ」と心の中で思っておられる方は、おられるでしょう。それは、きっと、現実を知っている人です。現実の人間関係の中で、難しい問題に出会ったときに、どうでしょう。なかなか、赦せるものではない。イエス様は「赦せ」と言われるけれど、どうしても赦せない。心が収まらない。夜も寝られない。そういう思いをなさった方は、多いと思います。なまじ、イエス様の言葉を知っているものだから、なお苦しい思いを味わわなければならない。イエス様はなんで、そういう難しいことを言われるのか。さあ、なぜなのでしょうか?

じつは、ここが肝心なのですが、イエス様は、私たちが本当に生きた信仰を持つために、言われるのです。私たちは「兄弟を赦しなさい」と言われますと、つい、自分の努力でこれをやろうとします。イエス様がおっしゃるのだから、やらないかんと思ってやろうとしますと、必ず壁にぶつかります。そこでまあ、もがき苦しむわけです。ああ、私は人を赦すことが出来ない人間なのだ。私の信仰って、いったい、何なんだと、そう思って苦しみます。しかし、そのときに、何か大事なことが起こりませんか? 私たちの心に、ただ聖書にこう書いてあるということではなくて、私たちの心に向けて語りかけてくださる主イエスのお言葉が聞こえてくる。「あなたの兄弟の罪を赦してやりなさい」と、主イエスが語りかけてくださる。そのお言葉によって、初めて、私たちはその難関を越えることが出来ます。そして、その時に、私たちは、御言葉によって生きることは、こういうことなんだと、自分の体験を通して知ることが出来ます。じつは、ここが信仰生活の肝心要ではないでしょうか。

聖書の言葉を頭で理解をして、「うん、これは良いことだ」と、そう思うことは、私たちの力の範囲内で出来ることです。しかし、聖書が語っていることを、本当に自分のものにするということは、じつは、人間業ではなく、私たちの中に働いてくださる聖霊の導きによらなければ、出来ないことです。その聖霊の導きに与るためには、私たちが困難に出会って、自分の努力ではどうにもならないということを思い知ることが必要です。ですから、イエス様は、敢えて、こういうことを私たちに言われた。このイエス様のお言葉を本当に受け止めようとして、それに従って生きていこうとして、挫折を味わい、自分に幻滅し、苦しみます。それは苦しいことですけれど、しかし、それこそが、主の語りかける御声を聞き取るときです。私たちが自分に絶望し、自分に行き詰る。それこそが、じつは、狭き門から入るということです。ペトロが歩んだ道が、そうでした。彼は自分に絶望した時に、初めて主の言葉を聞きました。心からの悔い改めをもって聴いたのです。

言われていることをすらすらやって、いい気持ちになっておるときは、これはじつは、この世のことです。そして、私たち人間は、そういう思いに捕らわれがちです。しかし、本当に行き詰まり、本当に失敗をして、「ああ、私はもうダメだ」と、そういうときに、初めて、神様の救いというものが何であるのか、それを身をもって知ることが出来る。イエス様のお言葉というのは、そのようにして、私たちを裁き、また生かし、立ち直らせてくれるものです。パウロだって、ペトロだって、この道を行きました。そして、この狭き門から入った者が、兄弟を赦すことが出来る。手柄としてではなく、自分にも与えられた恵みへの感謝の応答として出来るようになる。私はここに罪の赦しを乞い願う主の祈りの心があると思うのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

3月1日(日)のみことば

「神はわが盾。心のまっすぐな人を救う方。」(旧約聖書:詩編7編11節)

「従って、もう互いに裁き合うのはやめましょう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、きょうだいの前に置かないように決心しなさい。」(新約聖書:ローマ書14章13節)

今日の御言葉からパウロが打ち出していくのは、知識と愛の問題です。知識だけではダメなのだとパウロは言うのです。これは近代の理性が未だに解決し得ないでいる問題です。古くて新しい問題と言ってもよいかも知れません。難問なのです。どうして難問なのか? 私たちは、どうしても、理性の側に身を置いてしまうからです。愛の中へと踏み込んでいかないのです。これについて、パウロはこう述べています。

「ある人が、知識を持っているあなたが神殿で肉を食べているのを見たなら、その人はあなたの知識によって滅びることになりはしませんか。この弱い人のためにも、キリストは死なれたのではないですか。」

知識偏重の現代に対する鋭い問いかけが、ここにあります。あなたの知識が兄弟を滅びに導くなら、果たしてそれを知識と言えるか。火薬を発見した天才的科学者は、それが戦争で人殺しのために用いられていく現実を目にして、自分の知識を投げ捨てて後悔しました。原子爆弾を発明した科学者は、自分の知識を呪いました。原子力の平和利用という美名のもと、原発開発に邁進した学者たちが、今、それと同じ道を歩んでいます。知識は大切です。有益なものです。しかし、もっと大切なことは、その知識が兄弟愛と結び付いているか、愛と一つになっているか、ということです。