聖書:イザヤ書40章1~2節・マタイによる福音書6章19~24節
説教:佐藤 誠司 牧師
「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」(出エジプト記14章13節)
「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどだろう。」(マタイによる福音書6章19~23節)
これまで私たちは、一年二か月に渡って、使徒信条と十戒と主の祈りの、三要文の学びを続けてきました。その学びも先週の日曜日、主の祈りの最後の言葉を学んで終わりました。次は何をご一緒に読もうかと、あれこれ悩みましたが、せっかく主の祈りでマタイ福音書に入りましたので、続きを読んでみようということになりました。
マタイによる福音書の第6章の19節から24節までを読みました。ここはイエス・キリストが山の上でお語りになった「山上の説教」に納められている御言葉です。「山上の説教」というのは、イエス様が様々な場所でお語りになった御言葉をぎゅっと圧縮して、ひとまとめにしたような趣があります。今日読んだ箇所も、実際に開いてご覧になればお分かりのように、三つの別個のお話が一つにまとめられたような印象を受けます。
しかし、マタイは何の脈絡もない三つのお話を無理やりひとまとめにしたのではありません。この三つのお話は、一見、脈絡が無いように見えながら、その根底に一つの主題が脈々と流れているように思います。その主題とは「澄んだ目で生きる」ということだと思うのです。「目が澄んでいる」という言葉そのものは、二番目のお話に出てまいりますので、まずそこから入って行きたいと思います。
「目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどだろう。」
目そのものが灯になるのだと言っておられる。目が全身をくまなく照らす光になるのです。ただし、この光というのは、太陽と月の光の違いのように、まことの光、まことの真理である主イエスを心から受け入れるときに、私たちの目は光を放つようになる。目そのものが光を放つのではなく、月が太陽の光を受けて初めて光を放つように、主イエスの光を受けて、私たちの目は全身を照らすようになる。そういうことではないでしょうか。
どうしてそのようになるのか? 目が澄んでくるからです。主イエスを見上げ、主イエスの御言葉を聞き続けると、目が澄んでくる。これは私たちが実際に、教会生活の中で経験していることではないでしょうか? 面白いことに、この「澄んでいる」という言葉は、もともとは「単純」という意味があった言葉です。単純な目こそが澄んだ目なのです。
思えば「単純」という言葉は、今の日本社会では褒め言葉として使われることがほとんど無い言葉です。「単純なやつだなあ」というふうに、どちらかと言えば、人を揶揄する言葉、小ばかにするような言葉でしょう。しかし、それは今の日本の社会そのものが悪い目の社会になっているからではないかと思います。悪い目というのは、あれもこれも見てしまう目です。あれもこれもといろんなモノを見て、比べてしまうのです。「目移りがする」という言い回しがありますが、目線がブレてしまって、見るべきものから別のものに移ってしまう。その結果、二つのものを見比べてしまう。それがイエス様の言われる「悪い目」です。
主イエスは「単純」という言葉を褒め言葉として使っておられる。これは注目すべき発言です。けれども、単純な目という言葉が褒め言葉になるのは、あくまでその目が真理の光を見ているからです。何を見ていても良いというわけではありません。マルタとマリアの物語を思い起こしてください。マルタの目は接待のことで思い乱れて、悪い目になっていました。それに対して、マリアはひたすら主イエスの御言葉に聞き入って、主イエスのお姿を見上げていました。それを主イエスは「必要なことはただ一つだ」と言われました。必要な、唯一つのことを見続ける目。この目が、単純な目、澄んだ目です。
ここに一つの問いかけがあります。さあ、私たちの目は、澄んでいるでしょうか。私たちは見るべきものを見ているでしょうか。出エジプト記の14章に、有名なエジプト脱出の物語があります。神様がモーセを指導者にお立てになって、イスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださいます。すると、エジプト軍の追っ手が戦車に乗って追いかけて来ます。イスラエルの人々は老人や子供たちもいますから、走って逃げるわけにもいかない。向うは海、後ろは追っ手のエジプト軍。そういう絶望的な状況の中で、モーセは動転する人々に向かって「恐れることはない」と言う。どうしてかと言うと、モーセはこう答えるのです。
「主が今日、あなたがたのためになされる救いを見なさい。」
モーセ以外の人たちは、今自分たちに迫っている死と滅びを見て、おののいています。彼らは迫り来る現実を見ているのです。このまま行けば、自分たちは死んでしまう。これは火を見るよりも明らかな現実でしょう。その意味では、イスラエルの人たちが見ていたものは、間違ってはいない。モーセだって、同じものを見ています。けれども、モーセは、迫り来るエジプト軍だけを見ていたのではなかった。もう一つ、見えないものを見ているのです。
さあ、モーセが見ていたものとは何か。イスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださった神様のご計画というものを、モーセは見ていたのです。ここでイスラエルの人々を全滅させるくらいなら、神様は何もこの人々をエジプトから救い出すはずはない。必ず救いの道を開いてくださるに違いない。モーセも迫り来る敵という現実を見ていないわけではないのです。しかし、それを超えて、もう一つ、見えないものを見ているのです。そして、イスラエルの人々を救ったのは、結局、見えるものではなくて、見えないものでした。
澄んだ目とは、単純な目のことだと申し上げました。単純な目がどうして澄んで来るのでしょうか。二つのものを見比べないからです。一つのものを、ただひたすら見続けるのです。何を見続けるのでしょうか。この問いに、主イエスは、「あなたがたの目が見つめるのは、あなたがたの宝のあるところだ」と答えておられます。ここで第一のお話が出て来ます。
「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
宝を天に積みなさいと言っておられる。この宝というのは、必ずしも金銀財宝のようなものではないようです。私たちの人生を真の意味で支えるもの、私たちが最終的に頼りにするもの。それを主イエスは「宝」と呼んでおられる。私たちは例外なしにそういうものを持っています。それは人によって様々です。それこそ金銀財宝を宝とする人もいるでしょうし、地位や名誉こそが私の宝だと言う人もいるでしょう。反対にそんなものは宝でも何でもないと言って、もっと精神的な尊いもの、有難い教えを宝とする人もいるでしょうし、家族が宝だと思う人もあるでしょう。しかし、だからこそ、主イエスは問うておられる。あなたは何を宝として生きているのかと問うておられる。イエス様は言われます。
「宝は、天に積みなさい。」
さあ、天に積むことの出来る「宝」とは、何なのでしょうか。金銀財宝や地位、名誉の類を天に積むことが出来るでしょうか。有難い教えを天に積むことが出来るでしょうか。家族を天に積むことは可能でしょうか。消去法という考え方がありますが、私たちが「宝」と思うものの、ほとんどすべてが消去法のように消えていきます。その果てに何が残るのか。そこまで来て、私たちは問われます。あなたの目はどこに向けられているのか。あなたの目は澄んでいるか。この問いかけを受けるときに、第三のお話の扉が開かれます。
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
ここに「富」という言葉が出て来ております。これは先ほどの「宝」とは違う意味を持つ言葉です。先ほどの「宝」が、人によって様々な意味を持つのに対して、この「富」というのは、聖書の原文では「マンモン」という言葉が使われています。ここから拝金主義を意味する「マモニズム」という言葉が生まれました。このことからも分かるように、この「富」というのは、先ほどの言葉で言えば「金銀財宝」のことだと言っても差支えが無い。ですから、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」というのは、あなたがたは天を見つめるのか、それとも地上のものに目を注ぐのかという二者択一を迫っておられることになります。さあ、ここでも、先ほどの問いかけが出て来ます。あなたの目はどこに向けられているのか。あなたの目は澄んでいるか。
この問いに明確に答えるために、ハッキリさせておかないといけないことがあります。「天」とはどこのことなのか、ということです。私は説教の中で、これまで、幾度となく「天に目を注ぐ」とか「天を仰ぎ見る」という表現を取って来ました。そのたびに、おそらく多くの方は、なんとなく納得して聞いてくださったと私も思います。しかし、はたと立ち止まって「天とはどこのことなのか」と考えてみると、分かったようで分かっていない自分に気が付きます。しかし、このことについて、ハッキリと弁え知ることが無いと、「天に宝を積みなさい」という御言葉も、その意味がぼやけてくるでしょう。
さあ、天とは、どこのことなのか。皆さんは、この問いに、どうお答えになるでしょうか。一つ、確実に言えるのは、天とは、主イエスがそこから来られたところ、ということでしょう。私たちは、その点を肉眼で仰ぎ見ることはできないかもしれませんが、主イエスは不思議な譬え話を語ることによって、私たちに天とは何か。天とはどこのことなのかを、肉眼で見るよりも鮮やかに示してくださいました。主イエスは地上の歩みの中で、常に天を仰いで、天について語ってくださった。私たちは主イエスの御業と御言葉によって天を知る。そして、十字架と復活の後に、天に帰って行かれた。今、主イエス・キリストは天におられる。天の神様の右に座して、私たちを待っておられる。そのことを、私たちは聖書の御言葉を通して知っている。
主イエスはまた、譬え話を語ることによって、私たちに天を覗き見させてくださいました。ここから覗いてごらん、天の素晴らしい場面が見られるよ、と言って話してくださったお話があります。今、そこの部分を読んでみたいと思います。
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」
大きな喜びが天にある。罪人が悔い改めることによって、天がどよめき渡るほどの大きな喜びがある。この喜びこそが天に積むことが出来る「宝」ではないでしょうか。私たちが救われたときも、私たちが教会に帰って来たときにも、私たちが心を一つにして礼拝を守っているときも、大きな喜びがあったのです。この天の喜びと私たちの喜びがぴたりと一致するときに、天は私たちの本国になる。私たちの本国は天にあるのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
3月22日(日)のみことば
「まことにあなただけが、すべての人の心をご存じです。」(旧約聖書:列王記8章39節)
「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『私はそこに行った後、ローマも見なくてはならない』と言った。」(新約聖書:使徒言行録19章21節)
使徒言行録は、パウロがローマで妨げられることなく福音を告げ知らせるところで終わります。著者であるルカは、パウロの死を知っているはずなのですが、どうしてもパウロの死で使徒言行録を終わることが出来ずに、パウロが福音を語る場面で終わる。映画で言えばストップモーションのような絵で終わるのです。どうしてでしょうか。パウロの最後にして最大の願いは、じつはローマに行くことでした。その願いを語っているのが、今日の御言葉です。
「見なくてはならない」という言い方をしています。これは大変語気の強い言い方です。聖書独特の言い方に、「神的必然」という言い方があります。神様のご意思によって必然的にそうならねばならない、と言うときの言い方です。そういう言い方をパウロは、ここでしているのです。ということは、パウロは、もうこの時点で、自分の運命をすべて、神様のご意思に委ねていたということです。だから、彼は「ローマも見なくてはならない」と言ったのです。パウロが基礎を築いた異邦人教会が集めた献金をエルサレム教会に受け取ってもらい、両者の交わりを確認した上で、ローマに行く。これがパウロの世界伝道のヴィジョンだったのです。