聖書:出エジプト記16章3~5節・マタイによる福音書6章25~34節

説教:佐藤 誠司 牧師

「私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。」(詩編139編4節)

「だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6章31~34節)

 

私たちは今、日曜日の礼拝で、主の祈りを学んでいますが、今日から主の祈りの第二部とも言うべき後半部分に入ります。主の祈りに入る前は、私たちは旧約聖書の十戒を学んでいました。ですから、主の祈りを学びながら、私たちは、ときおり、十戒の言葉が思い起こされます。先ほど私は、「今日から主の祈りの後半部分に入る」と言いましたが、そう言えば十戒も前半部分と後半部分に分かれていました。十戒は、その前半部分に神様との関係についての戒めが記され、後半部分に隣人との関係についての戒めが記されていました。じつは主の祈りもそれと似たところがありまして、前半には御名が崇められ、御国が到来し、御心が成ることを求めました。それに対して、後半部分では日常生活の切実な願いを祈りなさいと言われている。その最初に出て来るのが「日用の糧」を求める祈りです。

今、私は「日用の糧」と言いました。これは今私たちが唱えている文語訳聖書の主の祈りの言葉ですから、私たちにとってみれば、すっかりおなじみの言葉ですが、私は昔、教会学校の生徒だった頃は、「日用」の意味が分からなかった。子どもというのは、分からない言葉に出くわしたとき、勝手に意味を補足して理解するものです。私は「日用の糧」というのは「日曜日のご飯」のことだと固く信じておりました。おそらく、こういう子どもは当時、多かったに違いありません。

こういうこともあって、口語訳聖書はこれを「日ごとの食物」と訳しました。新共同訳聖書はさらに一歩進めて「私たちに必要な糧」と訳しました。そして、今私たちが用いている聖書協会共同訳聖書は「日ごとの糧」と訳しています。いずれも苦心の跡がうかがえる優れた翻訳だと思います。

この「日用」という言葉ですが、用いられている漢字を見ずに、音声だけでききますと、日曜日の「日曜」と混同してしまいます。「日用」という言葉だけで用いることも少ないかもしれません。しかし、「日用品」とか「日用雑貨」という言い方は、普通に用いられていると思います。日用品や日曜雑貨というのは、日常生活の中で欠かせない、大切なものです。大切なのだけれど、それほど高級品というわけではない。必要なものだけれど、無くなれば買って来れば良い。買う時も、一大決心をして買うというものでもない。普通に手に入れるものであり、身の回りに普通にあるものです。

主の祈りの「日用の糧」というのも、これとよく似ています。これは特別の御馳走のことではない。毎日の普通の食事のことです。肉体を養い、明日へと命をつなぐために必要なものです。それ以上でもなければ、それ以下でもない。そういうものです。しかし、それならどうして、イエス様は食べ物を求めるこの祈りを私たちに教えてくださったのでしょうか。しかも、それは「こう祈ってもいいよ」と言われたのではなく、ハッキリと「あなたがたはこう祈れ」と命じられたのです。どうして食べ物を求める祈りをお命じになったのか。

食べ物はどこから来るか。この問いは、簡単なようで、じつは自明のことではありません。特に日本ではそうです。もうずいぶん以前のことになりますが、永六輔という人がやっているラジオ番組に、一通の投書がありました。投書の主はこう言うのです。我が子が通う小学校では給食の時に「いただきます」を言わせているが、あれは止めてほしい。理由は「給食費を支払っているから、『いただきます』は言う必要が無い」というものでした。これが賛否両論の大きな反響を呼びました。今思えば、これは日本社会に対するチャンレンジであったと思いますが、結果は賛否ともに、あまり芳しいものではありませんでした。賛成の意見は、ここで言うに価しませんが、反対の意見も「いただきますは命をいただくことへの感謝の思いなので、反対するのはおかしい」というものでした。つまり、命をいただくというところまでは来るのですが、その命はどこから来るかという一点には思いが及ばないのです。

この点について、聖書は明確に答えています。食べ物は命を造られた神から来るのだと明確に語っている。今日は出エジプト記16章の御言葉を読みました。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々を、神様がモーセを指導者に立てて脱出させてくださった。荒れ野の旅が続きます。当然、食べ物に困ります。その時、神様が人々を憐れんで天からマナという食べ物を与えてくださいます。詩編の145編の14節と15節に、次の御言葉があります。

「主は、倒れそうな人を皆支え、うずくまる人を皆立ち上がらせる。すべてのものがあなたに目を向けて待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物をくださる。」

食べ物は神が与えてくださるのだと言われています。どうしてそこまで明言することが出来るのかというと、食べ物を与えて命を養うというのは創造の御業の一部なのです。私たちは創造の御業と聞くと、創世記の1章2章に記された天地の創造だけで完成していると思っていますが、じつはそうではなくて、創造の御業は造ったらそれで「はい、おしまい」ではない。被造物を保持し、被造物を用いて神ご自身が働き、そして被造世界を統治する。創造の御業はそこまで行くのであって、この目的のためになされるのが食べ物を与えるという御業です。ですから、与えられた食べ物には、それを与えてくださったお方の目的や願いが込められている。その願いや目的を感謝をもって受け止める時に、祈りが生まれてくる。食前の祈りがそうですし、主の祈りの「日ごとの糧」を求める祈りもそうです。食べ物の背後に、神様の慈しみを見、食べ物に込められた神様の願いを弁え知るのです。これが大事です。

ところで、聖書の学問は20世紀の後半になって、文化人類学や考古学の成果を取り入れることで、飛躍的に進化しました。その成果の一つが、今日の「日用の糧」を求める祈りに出て来ます。私は、今日のお話の初めのほうで、「日用の」という言葉の翻訳について、文語訳から最新の聖書協会共同訳までをご紹介して「いずれも苦心の跡がうかがえる優れた翻訳だ」と言いました。どうしてこの「日用」の翻訳がこれほどまでに異なるのかと言いますと、じつは何でもない言葉に見えるこの「日用」の翻訳が本当に難しい、というより意味が不明なのです。

新約聖書はギリシア語で書かれていますが、この「日用」と訳されたギリシア語の単語は、聖書の中でここだけに出て来る極めてレアな単語なのです。しかも聖書以外のギリシア語の文献にも出て来ない。ですから、これを「日用」と訳して良いのかという点も、じつは学問的な結論が出ていない。新約聖書はギリシア語で書かれていると言いましたが、じつはこれも要注意で、一般に古典ギリシア語といわれるプラトンやアリストテレスたちが使った言語とは、また違ったギリシア語で書かれているのです。それがどういう言語かというのが、ずっと分からなかったのですが、20世紀に入って、これは哲学者たちの言語ではなくて、民衆が使った言葉だろうと、そこまでが分かったのです。

聖書の言葉が哲学者の言葉ではなく、民衆の言葉で書かれ、伝えられていたというのは、私はとても素晴らしい事だと思います。そして、さらに20世紀の後半になって分かったことがある。新約聖書にもギリシアの古典文学にも出て来ない、この「日用」という言葉が、見つかったのです。しかも、それは、ギリシアから遠く離れたエジプトの商業文書の中にみつかったのです。つまり、この「日用」という語は、商売上の言葉として用いられていたわけです。その文書の中で、この語がどういう意味で使われていたかというと、「毎日の」とか「日ごとの」というよりも、「この次の」「次回の」という意味合いが強いことが分かったのです。

「日用」と言う言葉は、この次の食べ物を求める祈りだったのです。この次の食べ物とは、どういうことでしょうか。例えば、こういうことが考えられるでしょう。貧しい時代です。いつでも家の中に食べ物があるというわけではありません。福音書にもパンを切らして、夜遅く、友達の家に行ってパンを貸してほしいと頼み込むお話があります。旧約の列王記の預言者エリヤの物語には、家の中に一握りの小麦粉とビンの底にわずかな油があるだけで、今からこれを調理して息子と最後の食事をして死のうと涙ながらに語る母親が出て来ます。日本でも「米櫃の底が見えてくる」というリアルな表現がありました。毎日食事を作って食べることが出来るのは、それだけで珍しいことなのです。

朝食が終わったら夕食の心配事がある。無事夕食をとることが出来たら、明日の朝食の心配がある。いつもいつも「この次の食べ物」のことで思い煩う。そういう時代だったのです。主の祈りの「日用の糧」を求める祈りは、そういう苦労を知っている人々に与えられた祈りです。そして、主イエスは明日の食べ物のことで思い煩う人々に向かって、次のように語ってくださいました。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

いかがでしょうか。一度聴いたら忘れられない、深い慰めに満ちた御言葉であると思います。主イエスは一日の苦労を否定しておられない。生活の苦労なんて馬鹿げているとは言っておられない。その上で、苦労する人の人生を受け入れ、肯定しておられる。そこに多くの人は慰めを感じ取るのだと思います。主イエスが否定しておられるのは苦労ではなく、思い煩いなのです。

主の祈りの「日用の糧」とは「この次の食事」のことだと申し上げました。明日の食事が満足に摂れるか否か。それが多くの人々にとっての苦労だったのです。だから、主の祈りは「この次の食事」を求めて祈ります。私たちも「日ごとの糧」を祈り求めます。主イエスはそれを蔑んだりはなさらない。そして、そんな苦労をする私たちに主イエスは「明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自らが思い煩う」と言われる。「明日自らが思い煩う」というのは、明日を擬人化しておられるのではありません。これはイエス様ご自身のことです。「私があなたの明日を開く」と言っておられるのです。主イエスと共に明日を迎える。これが「日用の糧」を求める祈りの心です。この心を感謝をもって受け止めて、ご一緒に主の祈りを祈っていきましょう。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

2月22日(日)のみことば

「私は平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする。」(旧約聖書:イザヤ書60章17節)

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(新約聖書:第一コリント書1章22節)

意外に思われるかも知れませんが、今日の新約の御言葉が、後に成立した福音書に大きな影響を与えました。特にパウロの弟子であったルカが書いたルカ福音書などは、第一コリントのこの言葉を設計図にして書かれたようなところがあります。

パウロはここで、キリストにつまずいた人たちを二つのタイプに分けています。一つはユダヤ人タイプ。この人々はしるしを求めて、そのあげく、キリストにつまずきました。そしてもう一つはギリシア人タイプ。この人々は知恵を大事にするあまり、キリストにつまずいたのです。

しるしを求めるのが、どうして間違っているのでしょうか。しるしは、元々は、神様が私たち人間を愛して、私たちを守り導いてくださる。救いを与えてくださる。そういうことを如実に現す神様の御業のことでした。例を挙げますと、神様がイスラエルの人々をエジプトから救い出してくださった。この人々に荒野でマナを与えて養ってくださった。これが本来の「しるし」です。神様のほうから一方的に与えられるものです。ところが、ユダヤの人々は、いつの間にか、この「しるし」の意味を取り違えてしまった。そして人間が神様にしるしを求めるようになった。そこに人間の罪があります。