聖書:イザヤ書40章27~31節・マタイによる福音書6章25~34節

説教:佐藤 誠司 牧師

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイによる福音書8章20節)

「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6章32~34節)

 

今日はマタイ福音書の第6章25節から34節の御言葉を読みました。それほど長くない御言葉ですが、その中で主イエスは「思い煩うな」という言葉を何度も繰り返し語っておられます。それは、私たち人間のいちばん大きな問題の一つが、まさしくこの思い煩いであり、この思い煩いからの解放なしに、救いは無いと、主イエスが考えておられたからでしょう。この25節以下の御言葉は、先週学んだ24節までの御言葉と共に、私たちの生活の根本に関わる大切な御言葉です。有名な御言葉ですから、多くの人が知っていますし、それだけ広く世に知られている言葉だと思います。

しかし、私たちはこの御言葉を、心から納得して聞いているでしょうか。確かに美しい御言葉なのです。しかし、「美しい言葉」というのは、美しさの反面、いとも容易に「きれいごと」に堕してしまう。この御言葉を読んで、確かに胸を打つ美しい御言葉だけれど、世の中、そんなきれいごとでは生きていけない。この牧歌的な美しさをたたえた御言葉だけは、博物館行きだと思う。世知辛いこの世を生きていくための御言葉ではないと心の中で思っておられる方は案外、多いのではないかと思います。

特に「空の鳥を見なさい」「野の花がどのように育つのか、よく学びなさい」という言葉。確かに詩のような美しい言葉ではありますが、空の鳥や野の花を見て、その姿に何の思い煩いもなく自由に生きている人の姿を連想するのは、いかにも苦労知らずの極楽とんぼのようで、心もとない。イエス様はここで、私たちに、そういう浮世離れした生き方をせよと言っておられるのでしょうか。「思い煩わない」というのは、働きもせず、紡ぎもしない生き方なのだから、あなたがたも働くのは止めにしなさいと言っておられるのでしょうか。

私はそうではないと思います。今日の御言葉をそのように読み取ってしまうなら、それは御言葉の表面だけをなぞったような読み方になってしまいます。主イエスが言っておられるのは、そういうことではない。決して働かなくても良い、のんきな生活をしなさいと言っておられるのではないのです。それはイエス様ご自身の生き方を見れば、分かります。マタイ福音書の8章20節に、こんなイエス様のお言葉が記されています。

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

これはおそらく、ガリラヤを発って、エルサレムに向かう旅の生活についてお語りになった言葉と思われます。まことに厳しい生活をイエス様ご自身が送っておられたのです。弟子たちを引き連れてエルサレムを目指しておられる。おそらく、この時点で主イエスはすでに十字架を見据えておられたことでしょう。その中で、ガリラヤから付き従ってきた婦人たちが、主イエスと弟子たちの生活を支えるために、持ち物を売り、食料を調達し、身の回りの世話をしたのです。

また、主イエスの一行を迎えた町や村で、マルタとマリアの姉妹やザアカイたち、そのほか多くの人たちが心砕いてイエス様一行をもてなしています。皆がザアカイのように豊かであったわけではない。貧しい中で、精一杯のもてなしを、彼らはしたのです。この人々の労苦を、イエス様は見ておられたでしょう。主イエスというお方は、この人たちの労苦を知りながら、その労苦を軽んじるような言葉を語るようなお方ではないと思います。ここで注目すべきは、最後の34節の言葉です。イエス様は、こう言っておられるのです。

「だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

ここに「思い煩い」と並んで「苦労」という言葉が出ております。私たちからすれば、思い煩いも苦労も大して違いはない。同じような意味だろうと思ってしまいますが、イエス様は明らかにこの二つの言葉を別の意味に使い分けておられます。まず「苦労」という言葉ですが、苦しんで労すると書いて「苦労」ですから、私たちは苦労と聞きますと、しんどい仕事や、きつい肉体労働を連想しますが、この言葉の元の意味は、もっと広くて「辛い事」という意味がある。肉体的にしんどいだけではないのです。例えば愛する人との別れも「辛い事」に含まれるでしょう。毎日毎日、辛い事がある。その辛い事、苦労の一つ一つを、そのまま引き受けて生きていく。それで十分ではないかと主イエスは言われるのです。

この「苦労」に対して「思い煩い」があるのです。イエス様がこの二つの言葉を使う際のニュアンスの違いを見れば、その意味が自ずと浮かび上がってきます。先ほどお話したようにイエス様は「苦労」ということを必ずしも否定はしておられません。否定どころか、苦労する人たちに慈しみの眼差しを注いでおられるのが主イエスです。主イエスは苦労ということを否定しておられないのです。

それに対して「思い煩い」はどうかと言うと、「思い煩うな」というふうに、これはもう徹頭徹尾、否定しておられる。なぜなのでしょうか。34節の御言葉をご覧になってください。「明日のことを思い煩ってはならない」というふうに、明日のことを言っておられます。明日もまた、苦労の一日が来るのです。しかし、明日のことを思い煩う時の私たちの心は、どのような心でしょうか。

これは私自身、思い当たることですが、今日という日の苦労から逃避する時に、明日のことを思い煩う。そういうことがあるのではないかと思います。私たちは弱さを抱えていますから、今日という日の苦労、辛い事をまともに受け入れられない時があります。なんで私だけがこんな労苦を引き受けなければならないのかと、愚痴ったり、今日の苦労から目を背けようとしたり、なんとか適当にごまかしたりと、悪あがきを試みます。ところが、そんな私たちにも理性がありますから、これらの逃避の試みが正当性に欠けていることを、心のどこかで察知しています。罪悪感を感じるのは、この理性の働きによるのです。そこで逃げ道を失った思い煩いは、未来へ、明日へと食指を伸ばしていく。今日という日に比べて、明日という日は、責任が希薄で、罪悪感も軽いので、逃避には持って来いなのです。

明日への逃避、未来への逃避で、私たちの口からよく出るのが「今に見ておれ」という言いぐさです。「なんで私だけが」という思いも、心の中で頭をもたげてきます。どうして、このような思いが湧き上がって来るのか。今日という日の苦労を受け止め切れていないからです。今日一日の苦労を誠実に受け止めることから逃れて、明日への思いに逃避している。思い煩は、そこに生まれるのではないでしょうか。

思い煩うな、と主は言われます。思い煩いとは、何なのでしょう。思い煩いというのは、私たちが、その弱さゆえに、今日という日の苦労、今この時の労苦を受け入れることが出来ないところから生まれます。思い煩いと苦労は似ているかもしれません。しかし、イエス様は苦労や労苦を否定してはおられない。主イエスが否定しておられるのは思い煩いなのです。間違ってはいけません。思い煩いは、しょせん「煩い」ですから、「病」なのです。健康ではないのです。

思い煩うな、とイエス様は言われます。しかし、皆さんの中には、イエス様を知ったがゆえに、苦労が増えたではないかとお感じになる方もおられるかもしれません。苦労とは「辛い事」という意味なのだと言いました。主イエスを知ったがゆえに、辛い事が増えている。イエス様を知る前なら、感じることもがなかった悲しみや辛さというものが、確かにあるように思います。あれって何なのでしょう。

あるとき、イエス様は私たちに「私の軛を負いなさい」と言われました。軛というのは、二頭の牛を首のところで繋いで、農作業をさせるための農機具です。軛は、どんな牛でも繋いで良いというものではなかったそうです。必ず農作業を熟知した先輩の牛と、農作業にあまり慣れていない後輩の牛を繋ぐそうです。もうお分かりのことと思います。イエス様が「私の軛を負いなさい」と言われたことには、二重の意味があったのです。一つは、私たちの苦労をイエス様が共に担ってくださること。

そして、二つ目は、イエス様の苦しみや悲しみを、私たちが身をもって知るということです。私たちがイエス様を知る前には感じることもなかった悲しみや苦しみは、私たちが主イエスの軛を負うことで感じる主イエスの悲しみ・苦しみだったのです。そして、私たちが忘れてならないのは、私たちが主イエスの悲しみを経験する、その陰で、イエス様が私たちの日々の苦労を、黙々と担っておられるということです。だから「なんで私だけが」などと弱音をはかなくとも良い。まして「今に見ておれ」と言って、愚痴をこぼさなくても良いのです。

さあ、ここまで来て初めて、最後の34節の御言葉の扉が開かれます。

「だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

イエス様というお方は、根拠の無い気休めの言葉を語るようなお方ではありません。必ず明確な根拠がある。私たちが思い煩わなくても済むような道があるのです。それはどのような道なのか。そのヒントが33節に示されています。

「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」

神の支配が、どうしても見えてこない現実の中で、神の支配、神の義を祈り求めるのです。これはまさに主の祈りが求めていることです。イエス様は私たちに主の祈りを教えてくださいました。それは私たちが主の祈りの心に生きるためです。主の祈りの心とは、どういう心でしたか? そう、思い煩いを捨てて、今日一日の苦労に誠実に向き合う心です。なぜ向き合うことが出来るのか。天の父なる神様を信じるからです。最後に、謎の言葉が残されました。それは34節の次の言葉です。

「明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

さあ、ここに至って、不思議な言葉が出てきました。「明日のことは明日自らが思い煩う」と言っておられるのです。これは、うっかりすると、イエス様が明日という日を擬人化しておられるように理解してしまうところです。しかし、そんなことはないのです。大切なのは、明日という日を、どう捉えるかです。私たちは明日という日は今日という日の連続と考えていますが、聖書はそうは考えない。明日という日は、今日の延長線上にあるのではなく、向こう側から与えられる日です。明日には明日の主がおられるのです。もちろん、それは私たちの主であるイエス様です。つまり、「明日のことは明日自らが思い煩う」というのは、主イエスご自身のことにほかならない。私が、私の軛を負うあなたの重荷を担うのだ、と言っておられる。主の軛を共に負うのです。そのときに、私たちは思い煩いを捨てることが出来る。手柄としてではなく、主の恵みとして思い煩いを捨て、のびやかに生きることが出来るのです。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

3月29日(日)のみことば

「翌朝、彼らは早く起きて、互いに誓いを交わした。イサクは彼らを送り出し、彼らはイサクのもとから平和のうちに去って行った。」(旧約聖書:創世記26章31節)

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。」(新約聖書:ローマ書12章18節)

今日のローマ書の言葉を読んで、パウロのものの言い方が、なんだか歯切れが悪いと思われた方もあるかも知れません。「出来れば」という言葉が、そういう印象を与えるのでしょう。いつものパウロだったら、ストレートに「すべての人と平和に過ごしなさい」と言いそうです。ところが、パウロは「出来れば」という言葉を付け加えています。そこが歯切れの悪い印象を与えてしまうのです。しかし、私は、これは、パウロの牧会的な配慮だと思うのです。何が何でも平和に過ごせとは言わない。出来ればで良い。無理をしなくて良い。パウロは、そう言っているのではないでしょうか。

しかし、これは、逆に言えば、すべての人と平和に暮らすことが、どれほど難しいか、ということを裏打ちしているのかも知れません。しかもパウロは、あなたたちキリスト者だけで平和に暮らしなさいと言っているのではない。すべての人と平和に暮らす。つまり、信仰の異なる人たちと、平和に暮らしなさい、とパウロは言うのです。聖書が語る「平和」というのは、ただ単に「争いが無い状態」を指すのではありません。皆さんは「シャーローム」という言葉をお聞きになったことがあるかと思います。「平和」とか「平安」を意味するヘブライ語で、これがユダヤの人々の挨拶になりました。この「シャーローム」の関係にあることを、ユダヤの人々は「平和」と呼んだのです。