聖書:詩編61編1~9節・コリントの信徒への手紙二12章7~10節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神よ、私の叫びをお聞きください。私の祈りに心を向けてください。心が挫ける時、地の果てからあなたを呼びます。私よりはるか高くそびえる大岩へと私を導いてください。あなたは私の逃れ場。敵の前の堅固なやぐらとなってくださいます。私はあなたの幕屋にとこしえに宿り、あなたの翼を隠れ場として逃れます。」 (詩編61編2~5節)
「それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。ところが主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」(コリントの信徒への手紙二12章7~10節)
私たちは今、日曜日の礼拝で、主の祈りを学んでいます。主の祈りは主イエスが私たちに教えてくださった祈りです。しかも、主イエスは「この祈りを祈ってもいいよ」と言われたのではない。ハッキリと「あなたがたはこう祈れ」とお命じになった。明確な命令形なのです。このことは、私たちが主の祈りを学ぶ上で、いつも念頭に置いておくべきことです。これまで、私たちは、全部で六つある主の祈りの祈りを一つずつ取り上げてきましたが、今日はその最後の祈り、六番目の祈りについて学んでいきます。
「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。」
誘惑からの救いを乞い願う祈りです。私たちが今、礼拝で祈る主の祈りは厳かな文語訳で「悪より救い出したまえ」となっていますが、他の多くの外国語の主の祈りは、ここを「悪」ではなく「悪い者から救い出してください」というふうに訳しています。「悪」ですと、善悪の悪という意味ですから、単なる概念になってしまいます。ところが、それが「悪い者」となると、どうでしょう。先ほどまでただの概念であったものが、立ち上がって来ると言いますか、迫って来るような趣が感ぜられます。私は、こちらのほうが聖書の原文のニュアンスを正確に伝えていると思います。聖書が語る悪というのは、ただの概念ではなく、生きている。生きていて忍び寄って来る。忍び寄って何をするかというと、誘惑をする。悪というのは、必ずと言って良いほど、誘惑・試みという形をとって、人の心に働きかけるのです。
皆さんは創世記第3章の楽園追放の物語をご存じのことと思います。あそこでアダムとエバが楽園を追放される原因を作ったのが、悪の存在です。あの悪は、ただの概念ではなかったですね。あたかも人格があるかのように、まずエバに忍び寄り、その心に入り込んで、彼女の心のいちばん弱いところに揺さぶりをかけた。弱いところとは、どこであったか。それはエバ自身も気付かない神様に対する不満でした。ヘビはそれを探り当てて、そこに徹底的に揺さぶりをかけました。こうしてヘビは、彼女が心の奥底に隠し持っていた神への不平・不満を煽り立て、さらに彼女の夫まで陥落させる。そして、やがては彼らの心を、その奥底から支配するようになる。これが聖書が語る悪の本質です。
主の祈りを教えてくださったイエス様は、このような悪の本質をよくご存じで、だからこそ「試みに遭わせず、悪より救い出してください」という祈りを主の祈りの最後の祈りとなさったのだと思います。この「試みに遭わせず、悪より救い出してください」という祈りは、もともとは祈りというより、叫びではなかったかとも言われます。私たちの父なる神様は叫びを祈りとして聞いてくださるお方です。これは旧約の出エジプト記に書かれているのですが、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々の叫びを神様は祈りとして聞いてくださって、行動を起こされる。モーセを指導者に立てて、イスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださった。この救いの行動の契機となったのが、叫びを祈りとして聞く神の憐れみです。この憐れみの御心を主イエスはよくご存じで、主の祈りの最後に叫びのような祈りを教えてくださった。「助けてください」という叫びが、父なる神の心を動かすことをイエス様は知っておられて、主イエスはこの叫びのような祈りを、いわば内緒でこっそり教えてくださったのです。
「助けてください」というのは、自分の弱さを認めるということです。ところが、これが案外、私たち日本人には難しい。特に、ある年齢以上の男性に、その傾向は顕著だと思います。介護施設で働く人から聞いたことがあります。体の不自由な人に介助の手を差し伸べたその瞬間に、その手を邪険に振り払われた。その多くが年配の男性であったと聞きました。人に助けられている自分、支えてもらっている自分を第三者にみられるのが嫌なのです。これは言い換えると、弱い自分を人に見られるのが嫌ということです。おそらくこれは、それほど古くからある考えではなく、武士の倫理観が固定化された江戸時代後期の武家社会から、明治から昭和にかけての軍隊社会へ、さらに戦後の会社組織の中を、反省されることなく、連綿と維持されてきたメンタリティーでしょう。このメンタリティーが、いつしか弱さを恥じる社会を造り上げてきたと思われます。
この社会の中で、キリスト教は、いわれのない批判や非難の声を浴びせられてきました。今でも横行する非難の声の一つは、おおよそ信仰を持つというのは弱い人間のやることだというものです。特に男性クリスチャンが槍玉に上げられる時には「女々しい生き方」という言葉が慣用句のように使われました。「信仰を逃げ道にしている」とか「あいつは教会を逃げ場にしている」とか言われました。「キリスト教は弱者の宗教」と言われたこともあります。そういう根拠のない批判の言葉を、家族の中で、あるいは学校や勤め先で聞くにつけ、「いいや、そんなことはない」と反論はするのですが、あまり功を奏することはなく、かえって、反論している自分も弱さを恥じるメンタリティーの虜になっていることに気が付いて、愕然とする。信仰を持って生きることを、信仰に逃げていると言われることが怖いのです。そういう経験は、キリスト者として信仰を持って日本社会に生きて行こうとする人なら、どなたもが経験しておられることだと思います。
そんな私たちに、聖書は何を語りかけているでしょうか。旧約聖書の詩編を「聖書の中の牧会者」と呼んだ学者がいました。なるほどと膝を打ったものです。悲しむ時、悩み苦しむ時、詩編の御言葉が慰め、励まし、支えてくれる。何より、余計なことを言わないのが、この牧会者の特徴です。そんな詩編が語る印象的な表現に「神は我らの避けどころ」という言葉があります。今日読んだ詩編の61編は、その典型です。
「神よ、私の叫びをお聞きください。私の祈りに心を向けてください。心が挫ける時、地の果てからあなたを呼びます。私よりはるか高くそびえる大岩へと私を導いてください。あなたは私の逃れ場。敵の前の堅固なやぐらとなってくださいます。私はあなたの幕屋にとこしえに宿り、あなたの翼を隠れ場として逃れます。」
私は、先に述べたような非難の言葉を受け、それにいきり立って反論していた頃に、この詩編の御言葉に出会って、心の底から慰められたのを覚えています。御言葉が慰めとなることを改めて知らされた出来事でした。信仰を逃げ道にしていると非難された。教会を逃げ場にしているのではないかと咎められた。しかし、この詩編は、それらをまことにおおらかに肯定して、受け入れている。私たち信仰者は神のふところに逃げ込むことが許されている。そういう弱さを持っているのです。その弱さが信仰を育んでいくのであれば、どうしてそれを恥じることがあろうか。いや、むしろ弱さを包み隠さず、神様の前に正直に注ぎ出したって良いのではないか。
日本の社会は、相も変わらず、弱さを恥る社会です。それはおそらく、これからも続くことでしょう。しかし、弱さを恥じ、弱さを包み隠し、強さを装って見せる社会が、いったい、どれほど多くの命を死に追いやってきたことか。そういう精神風土の中で、私たちキリスト者までが弱さを恥じ、包み隠し、強さを演じようとするならば、それはあの大祭司の中庭で「お前もあの男の弟子だろう」と指摘され、弟子である自分を包み隠し、否認したペトロと同じではないか。弟子である自分を隠し、否認しただけではありません。ペトロは主イエスをも否認しました。「あんな人は知らない」と言って否認したのです。しかし、彼は立ち直った。なぜなのでしょうか。そのヒントとなる言葉が新約聖書のパウロの手紙に記されています。それが今日読んだコリントの信徒への手紙二の12章の御言葉です。7節から読んでみます。
「それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。ところが主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」
体に与えられた棘という言い方をしています。これはおそらく肉体の病のことであろうというのが、定説です。実際、パウロには、激しい発作を伴う「てんかん」のような病があったことが知られています。ですから、棘というのは病のことだというのは、ほぼ間違いない。
しかし、今回、ここを読み返して、一つ、疑問に思ったことがあります。どういうことかと言いますと、この棘というのが単なる病のことなら、果たしてパウロは「サタンから送られた使い」などという重い表現をするだろうかという点です。確かにこの棘は病のことでしょう。それは間違いがない。しかし、サタンというのは誘惑者のことです。ここから推察できるのは、パウロという人は、この病を誘惑として受け止めたのではないかということです。どういう誘惑がパウロを襲ったのでしょうか。おそらくそれは「思い上がり」ではないかと思われます。そういえば、パウロはここで「思い上がらないように」という言葉を二度、繰り返しています。パウロという人は、当時の第一級の知識人であり、優れた伝道者でもありました。彼自身、手紙で述べているように「他のどの使徒よりも多く働いた」のです。その働きの妨げになっていたのが、病でした。これさえ無ければという思いがあったでしょう。だから、彼は祈ったのです。「どうかこの病を去らせてください。そうすれば私は、あなたのためにもっと働けます」と祈った。しかし、この思いの中に誘惑が潜んでいたのです。
神様はこの思いを打ち砕かれます。「私の恵みは、あなたに十分だ」と言って、パウロの願いを退けられたのです。この御心を知ったパウロの驚きは、いかばかりであったろうと思います。まさに衝撃です。今の今まで、彼は「この病さえ無ければ、神様のために、もっと働ける」と信じて疑わなかった。しかし、その思いこそがサタンの誘惑だったのです。そして、これまで棘だ棘だと思っていた病が、じつは神様から与えられた恵みであったとは、なんという驚き!
「私の恵みは、あなたに十分である。」
この御心を知って、パウロの生き方は根底から変えられたと私は思います。ですから、これに続く言葉は、変えられたパウロの言葉なのです。彼は言いました。
「キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」
イエス様は「悪に立ち向かえ」とは言われません。私たちの弱さをよく知っておられるのです。だから、主の祈りは「悪より救い出したまえ」と祈ります。弱さを恥じることはない。なぜなら、私たちの弱さに働いてくださるお方がおられるからです。そのお方に「助けてください」と叫べば良いのです。そこに主の祈りの心があり、私たちはその心のままに生きる。主の祈りを杖として、一歩一歩歩むのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
3月8日(日)のみことば
「来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる。」(旧約聖書:詩編46編9節)
「しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。」(新約聖書:ルカ福音書24章11節)
ルカ福音書は、弟子たちの間で、しばしば自分たちの中で誰が一番偉いかという議論が起こったことを指摘しています。だいたい男性というのは、誰が一番かという議論が好き、というより、自分が一番になりたい、そういうところがあります。先生と弟子の関係で御言葉を聞くのです。そうすると、その聞き方が、どうしても学びになってしまう。しかも、教えを学ぶという姿勢になっている。人々が祝福を受けさせようと、幼子たちを主イエスのもとに連れて来たとき、親達を叱りました。なぜ叱ったのか。自分たちの学びを邪魔されたくなかったからでしょう。つまり、弟子たちにとって、主イエスの御言葉を聞くことが、学びになっていたということです。事が学びに終始しますから、誰が一番かという議論が自ずと成り立っていくわけです。
それに対して、女性たちはどうであったかと言いますと、この女性たちは、遠くガリラヤから付き従ってきた人たちで、旅の中で主イエスと弟子たちの身の回りの世話を黙々と担っている。自分たちは弟子なんだという自覚は全くと言ってよいほど、無かったと思われる。じゃあ、どういう自覚を持っていたかというと、黙々と主に仕える「僕」としての自覚・自意識を彼女たちは持っていたと思われる。僕ですから、学びで聞くなんてことは、さらさら考えない。では彼女たちは、どうやって主の御言葉を聞いたかと言いますと、主イエスの僕として生きている、そういう自分たちの生き方への語りかけとして、主の御言葉を聞いたのです。