聖書:詩編32編1~11節・ルカによる福音書7章36~50節

説教:佐藤 誠司 牧師

「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。」(ルカによる福音書7章37~38節)

「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカによる福音書7章47節)

 

今日は詩編の32編を読みました。この詩編は、幸いを告げる言葉で始まります。しかし、いったい何が幸いと言うのでしょうか?

「幸いな者。背きの罪を赦され、罪を覆われた人。幸いな者。主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。」

「私が沈黙していたときは、一日中呻き、骨も朽ち果てました。昼も夜も御手は私の上に重く、夏の暑さに気力も衰え果てました。私はあなたに罪を告げ、過ちを隠しませんでした。私は言いました。『私の背きを主に告白しよう』と。するとあなたは罪の過ちを赦してくださいました。」

じつはこの詩編は、罪の赦しを真正面から歌った極めて珍しい詩編なのです。多くの詩編は、試練や苦しみを歌っても、どちらかと言うと被害者の対場から神に向かっているのですが、この詩編は違う。神に対する罪を明確に認識し、罪ゆえの苦しみをつぶさに描き込み、その罪が赦された感謝と喜びを歌います。つまり、この詩編の詩人は自分が罪人であることを知っているのです。だから、この詩編は罪の赦しを堂々と、晴れやかに歌います。自分ではどうすることも出来ない罪が赦された。その喜びが溢れるような詩編です。福音書の中に、この詩編のとおりに生きた女性がいます。ルカ福音書第7章が伝える「罪深い女」です。ルカは彼女のことを、こう紹介しています。37節です。

「この町に一人の罪深い女がいた。」

ルカは彼女の名を記していません。この女の仕事が何であったかも記していません。ひょっとしてこの女性こそ、マグダラのマリアではないかと言われます。マグダラのマリアは、どこか背徳のにおいのする女性です。英語の辞書でメアリー・マグダレーネという所を引きますと、「更正した売春婦」と書いてある。そういう言い回しが、英語圏では生きているということでしょう。そういうところから、ルカ福音書7章が伝えるこの女性は体を売る仕事をしていたのではないかと想像する人も多いのです。

しかし、私はそういう詮索は要らないのではないかと思う。なぜならルカは敢えて彼女の名前も生業も書いていないからです。書かないことによって、この女性に起こったことは、誰の身にも起こることなのだと言いたいのです。だからルカは、彼女について「一人の罪深い女」とだけ記している。この人は自分の罪を深く認識し、苦しんでいた。そして町の人々から後ろ指をさされていた。そういう女性なのだと前置きした上で、彼女が主イエスの前でとった行動をつぶさに描き込みます。

場所はファリサイ派のシモンの家。ファリサイ派といえば主イエスの敵をだと思いがちですが、そういう人ばかりではなかった。真面目な指導者であった彼らの中には主イエスを尊敬し、時に主イエスを食事に招待する人もいました。シモンはまさにその典型です。おそらく彼は主イエスの語る言葉に心動かされて、主の言葉をもっと聞きたい一心で、主イエスを食事に招待したのでしょう。

ところが、この食事の席に珍客が現れた。招かれざる客が侵入してきたのです。「後ろからイエスの足もとに近寄った」と書いてあります。じつは当時のユダヤの人々の食事風景は、椅子とテーブルではない。あの習慣はローマ人のものでして、ユダヤの人々はカウチのような長椅子に寝そべって食べました。完全に寝てしまっては飲食が出来ませんので、寝そべって左のひじを立てて上半身を起こし、右手で食べたのです。この姿勢ですと、両足は床面には着かない。足は長椅子の外に投げ出された格好で、宙ぶらりんの状態なのです。主イエスはそういうお姿で食事をとっておられたのです。その長椅子の背後に、一人の女性が隠れていたのです。ルカは彼女の行為をじつに克明に描いています。

「香油の入った石膏の壷を持って来て、背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。」

いかがでしょうか? まさに息を呑むような行動です。異様な行動と言っても良いかもしれません。シモンも息を呑んで彼女の一連の行動を見たはずです。そして彼は心の中でつぶやいたのです。

「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな素性の者か分かるはずだ。罪深い女なのに。」

繰り返しますが、シモンは主イエスを尊敬しているのです。それは彼が主イエスを「先生」と呼んでいることからも解る。主イエスが「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは居住まいを正して「先生、お話しください」と答えたのです。真面目な答えぶりです。しかし、その真面目さに向けて、主イエスは一つの譬話をお語りになる。

「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。ところが、返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

主イエスは、しばしば神への罪を、返済不可能な借金に譬えられました。ここもそうです。それさえ解れば、とても解りやすい譬話です。シモンも、いとも簡単に主イエスの問いに「帳消しにしてもらった額の多いほうです」と答えています。この答えに主イエスも「あなたの判断は正しい」と言っておられる。ところが、この譬話は、みかけの簡単さに比べて、途方もなく大きな問いかけを内包している。主イエスは「どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と問われたのです。どちらが多く感謝するかではない。どちらが多く尊敬するかでもない。どちらが多く愛するか? 問われているのは愛なのです。シモンも主イエスを尊敬していた。感謝もしていたでしょう。しかし、愛しているか? 問われているのは、借金を帳消しにしてくれたお方への愛なのです。これは、シモンだけではない、私たちにも向けられている問いかけです。あなたは主イエスを愛しているか?

ここで、主イエスはご自分の前にひざまずいている女性に眼差しを注がれる。そして、シモンに向かって、こうおっしゃるのです。

「この人を見ないか。」

あなたはどんな目でこの女を見ていたのか? 私と同じ目で、あなたもこの人を見ないか? この女のとった行動は、確かに異様なものと言って良い。しかもそれが「罪深い女」と蔑まれている女の所業なのですから、軽蔑と悪意に満ちた目でシモンが彼女を見たのも無理からぬことかもしれません。しかし、主イエスは違う。全く違う眼差しで、彼女を見ておられるのです。

いったい、彼女のやったことは何であったか? 無駄な行為かも知れません。無茶な行為かも知れない。一心不乱な異様な行為かも知れません。しかし、何が彼女にそうさせているか? その一点に、主イエスの眼差しは注がれている。この女は、今、ファリサイ派のシモンがどのように自分を蔑んで見ているかなど、考える余裕すら無いほどに、主イエスへの愛に生きている。主イエスへの愛に突き動かされている。あなたはそれを見ないか? そう言って主イエスはさらにシモンに向かって言葉を続けられる。

「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛で拭ってくれた。あなたは私に接吻してくれなかったが、この人は私が入ったときから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭に油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。」

いったい主イエスは何を言っておられるのでしょうか? あなたはやってくれなかったではないかと言って、シモンをなじっておられるのか? そうではないでしょう。主イエスはシモンに気づいてほしいのです。確かにあなたは真面目だし、あなたの私への尊敬と感謝には偽りが無い。しかし、あなたに欠けているものが、一つある。あなたに欠けていて、この女に溢れるほどあるもの。それは何だと皆さん、思われますか? そう、愛なのです。主イエスに対する愛です。

ではイエス様は自分を愛してほしいのだと言っておられるのでしょうか? いや、そうではない。この物語は主イエスを愛することを人間的なレベル、道徳的なレベルで語っているのではない。そうではなくて、主を愛する人の只中でいったい何が起こるか? その一点を、この女の物語はここから一気呵成に語り進む。さあ、主イエスを愛する人の中で、何が起こるか?

「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

主を心から愛する人の中で起こること。それは罪の赦しだったのです。女は確信したに違いありません。罪の赦しを、主イエスの眼差しの中で確信したに違いないのです。主の言葉が彼女に向けられたのは、この時です。主は初めて彼女に語りかけられたのです。

「あなたの罪は赦された。」

ここは、もう少しニュアンスを込めて訳すと、次のようになるでしょうか。

「あなたは、罪赦されて、ここにいる。私の前にいる。」

彼女はずっと泣いていたに違いありません。涙がとめどなくあふれ落ちて、顔も上げられなかったのでしょう。涙の中で、ずっとうずくまったままだった。しかし、その涙の中身は、どうだったでしょうか? 確かに人は、悲しみに涙します。苦しみに涙するでしょう。けれども、その悲しみがまことのの愛によって慰められ、苦しみが癒されたときに、人の心は、本当に暖かな、尊い涙を溢れさせるのではないでしょうか? その尊い涙の中で、この人は聞く。主の言葉を聞くのです。

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

彼女は、この言葉で確信したでしょう。私の歩みはこのお方に支えられている。いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことか。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。涙の中にある出会い。この出会いは私たちにも備えられています。招かれています。この礼拝から始まる歩みの中で、それは私たちを待っています。主イエスとの尊い出会いと交わりの中を、ご一緒に歩みましょう。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月19日(日)のみことば

「初めに神は天と地を創造された。」(旧約聖書:創世記1章1節)

「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。」(新約聖書:ヨハネ福音書1章14節)

ヨハネ福音書はキリストを「言(ことば」と呼びます。キリストこそ「神のことば」だと言うわけです。その神様のお言葉であるキリストは、初めからあった。初めからあったというのは、途中で造られたのではないということです。神様が万物をお造りになる。その前からキリストは神と共にあった。そのあとに「言は神であった」と言われております。イエス・キリストというお方は神様なのだと、これがヨハネ福音書の根本です。

私たちがどんなにしても知ることが出来ない、天地の造り主である神様が、御自分を何とかして私たちに知らせようとして、人間になってくださったのです。人の言葉で語り、人としての交わりをなし、人としての行いをすることによって、神様は御自分を現わそうとなさいました。これはキリスト教だけが持っている特別なメッセージです。神様はイエス・キリストにおいて、人間となって私たちの所に来てくださった。だから、私たちがこの目で見ることが出来、そのお言葉を聞くことが出来る。イエス・キリストというお方を知れば、神様がどういうお方であるか、私たちに対してどういう思いを持っておられるか、そのすべてのことが明らかになる。「私たちはその栄光を見た」と言われている所以です。