「見えない真実に目を注ぐ」―聖霊降臨節第15主日礼拝―2026年8月30日(日)

聖書:ヨナ書3章1~10節・マタイによる福音書12章38~42節

説教:佐藤 誠司 牧師

「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(マタイによる福音書12章39節)

 

福音書を読み進めていますと、人々の主イエスに寄せる期待や願いが、徐々に変わってきていることに気付きます。どういうことかと言いますと、これまで主イエスのもとにやって来た人々は、主イエスの語る御言葉が聞きたくてやって来た人々であったり、主イエスに病を癒していただきたくてやって来た人々でした。ところが、数がますます増えてきたその群集の中には、御言葉でも病の癒しでもない、全く別の目的があってやって来た人々がいたのです。それはどのような目的であったでしょうか? 今日の箇所の冒頭に、それが出て来ております。律法学者、ファリサイ派の人々が、こう言ったのです。

「先生、しるしを見せてください。」

御言葉を聞くためでもなければ、病を癒していただくためでもない。しるしを見せてもらうためにやって来る人々が現れたのです。「しるし」というのは、言い換えますと、神が神である証拠です。主イエスの語る御言葉が本当に神の言葉であるのか、主イエスのなさる業が本当に神から来た御業であるのか、その確たる証拠が見たいのです。この人々は、そういう証拠が見たくて主イエスのもとへ押しかけて来た。あなたが神の子である証拠を見せて欲しい。あなたが天から来られた証拠を見せて欲しい。あなたの言葉が神の言葉である証拠を見せて欲しい。あなたが救い主である証拠を見せて欲しい。振り返ってみれば、主イエスの戦いというのは、いつも、こういう人々との戦いであったことが分かります。主イエスが故郷のナザレにお帰りになったとき、ナザレの人々は言いました。

「この男はヨセフの子ではないか。あのヨセフの子が立派な預言者になったものだ。カファルナウムでやったという不思議な奇蹟を、一つここでもしてくれたらどうだ。そうしたらお前を信じよう。」

主イエスは信仰の無いところでは、力ある御業はなさらない。むしろ岩のように押し黙っておられる。そこで人々は失望して、主イエスを町の外に追い出し、崖から突き落とそうとしたのです。また主イエスが十字架につけられたときも、人々は言いました。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」

天からのしるしを求める心は、結局、ここまで行くのです。「そうすれば信じてやろう」というのが、この人たちに共通する思いです。信じるより先に、納得が必要なのです。お前が神の子であると納得がいったら、信じてやろうというわけです。納得するのは誰ですか? 自分なのです。つまり、この人々が第一に考えているのは、神様のことでもなければ、キリストのことでもない。自分自身のことです。だから、この手の人たちは、一旦信じたとしても、納得がいかなくなれば、途端に離れてしまう。世の中に、そういう人は案外、多いのではないかと思います。この人々に欠けているのは何でしょうか? それは御言葉の前に打ち砕かれて、主の前に膝を屈めることです。身も心もささげて、礼拝をすることです。だから、主イエスはこう言われる。

「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

ずいぶんと厳しいことを言っておられる。ヨナのことを引き合いに出しておられます。またこのあとには、南の国の女王をも引き合いに出しておられる。何を言っておられるのでしょうか? 今日はヨナ書の一部分を読みましたが、短い書物ですから、全部を読まれることをお勧めします。こんな物語です。

預言者ヨナは、ニネベという悪名高い町へ行って人々に悔い改めを説きなさいと神から命じられます。これは、今でいうなら北朝鮮のピョンヤンに言って説教せよというのと似ています。そんなとんでもないことは出来ないと言って、ヨナは逃げ出します。ところが、当然、神様のほうが一枚上手でありまして、ヨナを不思議な仕方で捕らえ、海の中に放り込まれたかと思うと、巨大な魚にヨナを飲み込ませてしまいます。ヨナは魚のおなかの中で三日三晩過ごすうちに、主なる神に悔い改めの祈りをささげます。今度こそ、ヨナは神の命令に従って、悪徳の町ニネベに言って預言を語ります。「今すぐ悔い改めないと、この町は滅ぼされる」と、ヨナは悔い改めを迫りました。すると、予想に反して、ニネベの人々は王を筆頭にして皆、悔い改める、ヨナが語る説教を聞いて、心から悔い改めて、神様の前に膝を屈めるのです。神はこれを見て、ニネベを滅ぼすことをお止めになりました。

さあ、そうしますと、面白くないのはヨナです。「この町は滅びる」と預言した手前、預言が外れると、面目を失ってしまいます。預言が外れて面目を失ったヨナは、怒り狂って、神様に文句をぶつけます。しかし、そんなヨナを神様は御自分の御心を示すことによって宥めるのです。その御心とは、神は悔い改める魂を軽んじられないということです。異邦人の、しかも悪に染まった異邦人の悔い改めを、神様は喜んで受け入れてくださったのです。

次いで語られている南の国の女王の物語は、旧約の列王記上の10章に出てきます。シバの女王と呼ばれる南の国の女王が、はるばるソロモン王に謁見を願い出て、ソロモンの語る知恵の言葉に驚嘆して、心から悔い改めて、神の前に膝を屈めたという物語です。

この二つの物語に共通しているのは何でしょうか? ニネベの人々も、南の国の女王も、共に、まことの神様を知らない異邦人でありました。その異邦人の彼らが、御言葉を聞いて悔い改めるのです。しかも、心で信じただけではなく、神の御前に膝を屈めて礼拝をした。ヨナの語る説教を聞いて、あるいはソロモンの語る知恵の言葉を聞いて、彼らは神をほめ称えました。ここが肝心です。ニネベの人たちは、ヨナの説教を聞いて、ヨナを誉めたのではない。南の国の女王はソロモン王の知恵の言葉を聞いて、「ソロモンさん、あなたはじつに立派な知恵の持ち主だ」と言って、ソロモンを誉めそやしたのではないのです。彼らは、ヨナを預言者として用いた神を恐れて悔い改めた。ソロモンを王として立てた神を賛美して膝を屈めたのです。ヨナの背後におられる神を見た。ソロモンの向こう側におられる神を見た。そう言っても良いと思います。

ところが、まことの神様を知っているはずのユダヤ人のあなたがたは、どうなのだと、主イエスは言っておられる。あなたがたは、私の前で、天からのしるしを求めている。ここにソロモンにまさるものがあるではないか。ここに、ヨナにまさるものがあるではないか。

この人々は、主イエスの語られる御言葉を耳では聞きながら、心では聞いていない。主イエスの姿を肉体の目では見ながら、心の目は開かれていないのです。まさにイザヤが言うように「見ても見えず、聞いても悟らない」。そういうことが主イエスの前で起こっているのは、なぜなのか? 以前に礼拝で読んだ箇所ですが、6章の22節で、主イエスは次のように語っておられました。

「目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。」

不思議な譬え話だと思います。私たちの目が灯になる。目が全身を照らす光になるのです。ただし、この光というのは、太陽と月の光の違いのように、まことの光、まことの真理である主イエスを心から受け入れるときに、私たちの目は光を放つようになる。目そのものが光を放つのではなく、月が太陽の光を受けて光を放つように、主イエスの光を受けて、私たちの目は全身を照らすようになる。どうしてそのようになるのか? 目が澄んでくるからです。主イエスを見上げ、主イエスの御言葉を聞き続けると、目が澄んでくる。これは私たちが実際に、教会生活の中で経験していることではないでしょうか? 面白いことに、この「澄んでいる」という言葉は、もともとは「単純」という意味があった言葉です。単純な目こそが澄んだ目なのです。

思えば「単純」という言葉は、今の日本社会では褒め言葉として使われることがほとんど無い言葉です。しかし、それは今の日本の社会そのものが濁った目の社会になっているからではないかと思います。濁った目というのは、あれもこれも見てしまう目です。あれもこれもと、いろんなモノを見て、比べてしまうのです。「目移りがする」という言い回しがありますが、目線がブレてしまって、見るべきものから別のものに移ってしまう。その結果、二つのものを見比べてしまう。それがイエス様の言われる「濁った目」です。

イエス様は「単純」という言葉を褒め言葉として使っておられます。けれども、単純な目という言葉が褒め言葉になるのは、あくまでその目が真理の光を見ているからです。何を見ていても良いというわけではありません。マルタとマリアの物語を思い起こしてください。マルタの目は接待のことで思い乱れて、濁った目になっていた。それに対して、マリアはひたすら主イエスの御言葉に聞き入って、主イエスのお姿を見上げていました。それを主イエスは「必要なことはただ一つだ」と言われました。必要な、唯一つのことを見続ける目。この目が、単純な目、澄んだ目です。

さあ、私たちの目は、澄んでいるでしょうか? 私たちは見るべきものを見ているでしょうか。イエス様にしるしを求めた人々は、目に見えるものだけを気にして、見えないものをないがしろにしました。これは、神様の言葉よりも自分たちの思いや信念を優先したということです。使徒パウロは第二コリントの4章18節で、次のように語っています。

「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」

これを見ますと、信仰によって歩むというのは、目に見えないものに望みを置いて生きることなのだ、ということが分かります。私たちは信仰生活の中で、じつに様々な問題に出会います。「もうダメじゃないか」と思うこともあると思います。しかし、その時に大事なのは、「信仰によってその問題を受け取る」ということです。見えるものだけを見ていると、私たちは必ず右往左往してしまいます。しるしを求めた人々も、そうでした。自分が見ているところは、こうだ。ここがこうなっている。だからダメだとこちら側の理屈で決め付けてしまう。確かに理屈ではそのとおりなんです。目に見えるところで判断すると、そうなんです。

私たちは自分を厳しく見詰めます。しかし、目に見える自分だけを見てたら、ダメなんです。信仰生活をしていますと、本当の自分というものが見えるようになってきます。誠実な人、真面目な人ほど、自分を厳しく見ています。けれども、そういう、目に見える自分だけを見ていたら、「もう俺はダメだ」という、そこにしか行き着かないです。

しかし、目に見えるところによらず、信仰によって歩むことが大事です。神様が必ず道を開いてくださる。そこを信じ抜く。腹をくくって信じ抜くことです。信じていないから、目に見えるものが気になる。見えるものに左右される。そうなったら、もう右往左往する生き方しかないです。しかし、私たちは違う。見えないものに目を注ぐ。目に見えない神様の導きに応えて生きる。これが一番大事なこと。目が澄んでいるとは、そういうことだと思うのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

8月30日(日)のみことば

「私の祈りが御前に届きますように。私の叫びに耳を傾けてください。」(旧約聖書:詩編88編3節)

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(新約聖書:ルカ福音書23章34節)

今日の新約の御言葉は主イエスが十字架の上でささげられた執り成しの祈りです。神様に向かって「我が神、我が神、なにゆえ、私をお見捨てになるのですか」と絶望の叫びを上げておられるのではない。むしろ、そういうところを突き抜けて、父なる神の御心のままに、十字架についておられる。その父なる神の御心は、すでにゲツセマネの園で主イエスに示されていたのです。その御心を完全に成就させるために、今、主イエスは執り成しの祈りをささげておられる。父なる神の御心。それは罪のない御子イエスが人々の罪を一身に背負って十字架につくことでした。

以上のことを踏まえて、改めて主イエスの裁判を振り返ってみると、どうでしょうか。その真相は、ピラトの尋問を受ける場面で、すでに現れていたように思います。主イエスを裁いた総督ピラトは「十字架につけろ」と狂ったように叫ぶ群衆に向かって、「私はこの人に何の罪も見いだせない」と、三度に渡って宣言しました。ところが、その罪の無い主イエスが十字架を背負われる。これは冤罪で死刑になるというのではない。無実の罪を着せられて無理やり死刑になるのでもない。もっと意思的と言いますか、ハッキリとした意思を持って、主イエスは十字架を背負っておられる。罪の無い方が、誰かの身代わりとなって罪を背負っておられるのです。