「あなたの主人は誰か」―聖霊降臨節第14主日礼拝―2026年8月23日(日)

聖書:詩編51編12~14節・マタイによる福音書12章22~32節

説教:佐藤 誠司 牧師

「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される。しかし、霊に対する冒涜は赦されない。また、人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない。」(マタイによる福音書12章31~32節)

 

今日、開かれた御言葉は、マタイによる福音書第12章の22節から32節までの物語です。福音書には「論争物語」というジャンルがあります。主イエスのなさる御業をめぐって激しい論争が繰り広げられます。多くの場合、論争の相手となったのは、ファリサイ派の律法学者たちでした。今日の物語にもファリサイ派の人々が出て来ます。悪霊にとりつかれて、目が見えず、口も利けなかった男を主イエスが癒してやった。それを見て、人々は主イエスをほめそやします。ところが、同じ御業を目の当たりにしながら、これは神の御業ではないと言い出す人々が現れました。それがファリサイ派の人々でした。彼らはこう言うのです。

「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない。」

とんでもない誹謗中傷ですが、これは彼らの目がそれだけ濁っていて、主イエスの中に神の御業を見ることが出来なかったということです。ここにベルゼブルという、聞きなれない名前が出てきます。悪霊どもの親分の名前です。ベルゼブルというのは「家の主人」という意味だそうです。悪霊の親玉の名前が「家の主人」というのですから、なかなか意味深長です。悪霊が人の中に入り込みますと、次々と仲間を呼び込みます。悪霊というのは一人では何も出来ないらしく、いつも仲間を連れ込む。そして仲間を次々と増やしていって、最後の仕上げに、親分を招き入れるのです。これがベルゼブル・家の主人です。

すると、どうなるか? それまでは、ベルゼブルの子分は悪霊どもだけでした。ところが、ベルゼブルが一旦人の中に入り込むと、ベルゼブルはその人までをも子分にしてしまう。その人はベルゼブルの子分の一人にされてしまう。ベルゼブルを主人として生きるようになるのです。これは恐ろしいことだと思います。

悪霊と聞いて、そんなものは昔の人の迷信が生み出した絵空事に過ぎないと思われるかも知れません。しかし、本当にそう言えるだろうか。悪霊とは、神に敵対する力のことです。目には見えません。しかし、悪霊の姿は目に見えなくとも、悪霊の働きは、時に目に見えて現れてきます。私たちは心から神様を信じて生きたいと願っています。ところが、心の思いや行動において、神に敵対して歩んでいるのはなぜなのか? 私たちは本当に悪霊から解き放たれて生きていると言えるでしょうか? 使徒パウロはローマ書の中で、こう述べていました。

「私は自分が望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まない事をしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。」

これは、パウロが、キリスト者になる前の自分を振り返って述べているところです。こういう実感は、私たちも、時に経験することではないかと思います。

私たちは悪を憎み、善を愛しています。それは決して偽りの無いことだと思います。ところが、私たちが実際にやっていることは、どうでしょうか? 愛している善を行い得ないばかりか、かえって、憎んでいる悪を行ってしまう。望まないことを、やらかしてしまう。そういうことが、しばしばあります。私たち現代人は自己があまりにも肥大化した自己肥大の世界に住んでいますから、何事も自己中心で考える傾向があります。何事も自分がやりたいと思い、やろうと決心し、やってしまう。全部自分で考えてやっていることだと決めてかかっているところがある。だから、なぜこんな恐ろしいことをしでかしてしまったのかと、自分の不甲斐なさを嘆いたり、自分を責めたり、最悪の場合は自分を責め苛んで、自らの命を絶ったりするのです。

しかし、本当は、そうではなくて、私たちを捕らえている力が、私たちにさせていることも、あるのではないかと思います。神を信じて生きたいのに、神様を拒むのは、なぜか? 人を愛したいと心から願うのに、愛せないのは、なぜか? 優しく接したいのに、邪険になってしまうのは、どうしてなのか。私たちを捕らえて離さない力、神に敵対する力、愛とは正反対の力が、私たちを捕らえているのではないか? 聖書が語っているのは、じつは、そこのところなのです。決して霊媒師のように、悪霊がいる、悪霊がいると言って、脅かしているのではない。繰り返しますが、聖書が言う悪霊というのは、神様に敵対する力のことです。悪霊に取り付かれると、自由になれないのです。伸びやかになれない。しかし、私たちは自分で自分を解き放つことは出来ません。どなたかに、解放していただかなくてはならない。しかも、悪霊よりも、さらに強い力のある方によって、解放していただく必要がある。だから、主イエスは言われます。

「どんな国でも内輪で争えば荒れ果て、どんな町でも家でも、内輪で争えば立ち行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。それでは、どうしてその国は立ち行けよう。」

こう述べた後で、イエス様は、不思議なことを言われます。

「また、まず強い人を縛り上げなければ、どうして家に入って家財道具を奪い取ることが出来るだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」

不議な譬え話でしょう? いったい、イエス様は、何を言っておられるのでしょうか? イエス様がお語りになる譬え話は、時におおらかなユーモアに満ちていることがあります。今日の箇所がその典型です。イエス様は、ここで、ご自分を強盗に喩えておられるのです。しかも、人の家に押し入って、家財道具を一切かっさらって行く強盗に喩えておられるのですから、これは痛快な譬え話です。強い人が武装して家を守っているというのは、心を頑なに閉ざして身を守っている人のことです。ところが、そこに、もっと強い人がやって来る。主イエスが強盗として押し入って来られる。そして頑なに閉じられた心の中に入って行って、武具を奪い取り、家財道具を全部掻っ攫っていく。このように、主イエスはここで御自分を強盗に譬えておられるのです。

あなたの心、頑なに閉じられたあなたの心にも、私は押し入って行く。あなたの心の扉を開き、あなたの心の只中に私は入って行く。悪霊を追い出し、ベルゼブルではなく、聖霊を主人として住まわせるにふさわしい家に作り変える。この家財道具というのは、その人が持っている賜物や才能のことでしょう。それらを一切合財奪い取って行くのだとおっしゃる。まあ、さしずめ、パウロなどは、一切合切を持って行かれた口ですね。パウロだけではありません。私たちだって、そうではないでしょうか。

お気づきの方もあるかと思いますが、聖書において「家」という言葉は、しばしば人の「心」の譬えとして出て来ます。一番有名なのは、主イエスの復活の物語で、弟子たちが人々を恐れて、家に鍵をかけて閉じこもっていた、その家に復活の主が現れて真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と祝福を告げてくださった。あの家、閉ざされた家は、弟子たちの心のことですね。今日のお話も、そうです。だから、主イエスは家に押し入る強盗にご自身を譬えて語っておられるのです。

しかし、せっかく主イエスによって悪霊を追い出していただいたとしても、聖霊を主人として迎え入れなかったならば、どうなるでしょうか? じつは、このベルゼブル論争の物語と必ず一緒に読まれてきた、もう一つの譬え話があります。このようなお話です。

「汚れた悪霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、空き家になっており、掃除をして、飾り付けがしてあった。そこで、出掛けて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

これも、そこはかとないユーモアをたたえた譬え話ですが、言われていることは、重い内容を持っております。追い出された悪霊は必ずもう一度戻って来ると言っておられるのです。せっかく主イエスによって悪霊を追い出していただいたとしても、聖霊を主人として迎え入れなければ、その人の心は空き家も同然。ここでも「家」が人の心を象徴するものとして語られています。主人が不在の空き家です。そこは悪霊がいなくなって、掃除がしてあって、飾り付けもしてあって、いかにも住み心地が良さそうです。そこへ悪霊が戻って来る。すると、うまい具合に空き家になっているではありませんか。そこで悪霊は大いに喜んで出掛けて行って、自分よりもさらにたちの悪い七つの霊を連れ込んで一緒に住み着く。すると、その人の状態は、悪霊を追い出してもらう前よりも、さらにひどくなったというのです。

これは私たちにも思い当たることがあります。せっかくイエス様と出会って、救われて、洗礼にまで導かれても、そのあとの信仰生活がチャランポランで、聖霊とも聖書とも関係がない、そういう生活をしていると、そこへ一度は追い出された悪霊がもう一度戻って来る。見ると、主人が不在で、家はきれいに整えられている。すると悪霊は、喜び勇んで、さらに自分よりもたちの悪い七つの霊を連れ込んできて、一緒に住み込む。すると、その人の状態は洗礼を受ける前よりもさらに悪くなる。主イエスの警告の譬えです。

さあ、翻って、私たちの心はどうでしょうか? 私たちの心は、いったいどなたを主人としているでしょうか? 私たちの心は聖霊を主人としているでしょうか? 自分自身が主人となって、ふんぞり返って生きているのではないでしょうか? また、私たちは自分の中に聖霊が主人として宿っていてくださることを弁えているでしょうか? 使徒パウロがコリント教会の人々に宛てて書いた手紙に、こんな御言葉があります。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

聖霊を主人として生きるとは、こういうことです。生き方そのものが神の栄光を現している。神ならぬものの束縛から解き放たれて、全く自由に、のびやかに生きるのです。主イエスは今日の箇所の中で、こう言われました。

「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される。しかし、霊に対する冒涜は赦されない。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない。」

聖霊を冒涜するとは、自分の中で働いておられる聖霊を無視することです。私の中には神様はいないと決め付けることです。聖霊の導きに身を委ねることが大事です。そうすると、素直に御言葉を聞くことが出来るようになる。

礼拝において、また日常生活において、神様が語って聞かせてくださる御言葉があります。それを聞くのです。御言葉を聞くことが出来るというのは、聖霊の働きです。そうしますと、その聞いた御言葉を生活の中で生かすのです。御言葉を悟らせてくださるというのが、聖霊の働きだからです。そうすれば、御言葉に生かされて歩むことが出来ます。少しずつで良いのです。その歩みの中で、聖霊は必ず豊かな信仰の実りを生み出してくださいます。私たちの心に聖霊を主人として迎え入れて、心から喜んで信仰生活を歩むことが出来ますように。ご一緒に祈りましょう。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

8月23日(日)のみことば

「地の果てまで、すべての人が主を心に留め立ち帰るように。国々のすべての氏族が御前にひれ伏すように。」(旧約聖書:詩編22編28節)

「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたいたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(新約聖書:ルカ福音書12章35~36節)

ここで主イエスは、御自分のことを「主人」と呼んでおられる。私はあなたがたの「主人」なのだ、あなたがたは私の「僕」なのだと関係を明確に位置づけた上で、あなたがたは主人の帰りを待っていなさい、と命じておられるのです。腰に帯を締めるというのは、主人の食卓に給仕として仕える僕の姿です。今でも、フランス料理のシェフ・料理長は、テーブルの客に呼び出されることを念頭において、きちんと帯を締めているでしょう? あの姿は主人の前に出るための特別の出で立ちなのです。「ともし火をともす」というのも、僕の役目です。家の玄関先にともし火を点けて、いつでも主人を迎えられるように備えをする僕の姿がここにあります。ここには主人と僕という、動かし難い上下関係があるわけです。

ところが、ここで、主イエスの言葉は意外な展開を見せ始めます。主イエスは続けて、こう言われるのです。

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」

なんと、この主人は、僕たちに給仕させるのではなく、忠実な僕たちを御自分の食卓に招いて、席に着かせ、主人自ら腰に帯を締めて、僕たちに給仕として仕えてくれるというのです。これは「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た」という主の御言葉を彷彿とさせる姿です。聞いていた弟子たちは、さぞ驚いたことでしょう。この驚きの先に聖餐が制定されるのです。聖餐は驚くべき恵みです。