聖書:136編1~26節・マタイによる福音書6章7~9節
説教:佐藤 誠司 牧師
「私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。」(詩編139編4節)
「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられる私たちの父よ。御名が聖とされますように。』」(マタイによる福音書6章7~9節)
これまで私たちは、日曜日の礼拝で主の祈りを学んできましたが、それもいよいよ今日が最終回となりました。憶えておられるでしょうか。主の祈りの前は十戒を学びました。十戒の前は使徒信条を学びました。使徒信条と十戒と主の祈り。これらを「三つの要の文書」と書いて「三要文」と呼びます。使徒信条による説教が始まったのが2025年の1月19日でしたから、一年二か月に渡って私たちは三要文の学びを続けてきたわけです。その最終回が本日の礼拝です。ですから今日は主の祈りの最終回であると同時に、三要文の学びの締めくくりでもあるわけです。
その三要文の学びを今、振り返りますと、一見バラバラに見えた三つの文書が、じつは一つの真実を指さしているということに気付きます。使徒信条はキリスト教の世界信条です。十戒は神の民イスラエルの設計図です。そして主の祈りは主イエスが弟子たちに教えてくださった祈りです。これらの、いったいどこに共通の真実があると言うのでしょうか。それは、この三つの文書に現わされている神様とは、私たちの弱さを思いやるお方だということ。そして、その恵みから離れてはいけないという主題が、三要文に共通する真実だと思うのです。
さて、今日は主の祈りの最後に記された賛美の言葉を取り上げます。今日もご一緒に祈った文語訳の主の祈りでは、次のようになっています。
「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」
私たちが日々親しんでいる主の祈りの結びの言葉です。これは厳密に言えば、祈りというより賛美の言葉です。少し難しい言葉で言うなら頌栄の言葉です。私たちが持っている賛美歌21にも頌栄と呼ばれる賛美歌が数曲収められていますが、その頌栄とほかの賛美歌は、どこが違っているでしょう。皆さんは、どう思われますか。普通の賛美歌には、私たちの心の思いや願いが結構多く出て来るのに対して、頌栄と呼ばれる賛美歌には、それらは一切出て来ない。私たちの思いや願いを歌うのではなく、ただひたすら神の栄光をほめたたえる。それが頌栄の頌栄たる所以です。「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」というのも、まさにそうです。
ところが、この頌栄の言葉が、聖書には出て来ないのです。主の祈りはマタイ福音書とルカ福音書が伝えているのですが、そのいずれもがこの頌栄の言葉を伝えてはおらず、「私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください」という第六の祈りで終わっています。どうしてなのでしょうか。
これは、現在の聖書学では、ほぼ確定的な結論が出ております。主イエスが教えてくださった主の祈りは、この第六の祈りで終わっていて、最後の頌栄の言葉は、後の時代の教会の人々が主の祈りに付け加えたものだという説が有力なのです。私も、この説は正しいと思います。しかし、私は、この頌栄の言葉を単なる付け足しとして、その価値を一段低く見るという考えには賛成することは出来ません。この頌栄の言葉には、やはり大きな意味と価値があると思うのです。
まず、時代的なことですが、私は先ほど「これは後の時代の教会の人々が主の祈りに付け加えたものだ」と言いましたが、「後の時代」というのを、もう少し正確にたどっていきますと、興味深いことが分かってきます。その時代とは、暴君として知られるネロがローマ皇帝であった時代であろうと特定出来るのです。この時代、キリストの福音の担い手はパウロやペトロといった教師・伝道者だけでなく、奴隷たちが福音をローマに伝えていたことが今日分かっています。新約聖書の手紙には奴隷身分の信徒に向けられた勧めの言葉が多いのは、そのためです。ご存じの方も多いと思いますが、皇帝ネロは大規模なキリスト教迫害を行ったことで知られます。ローマの町を自分好みに造り変えるために、火を放って大火災を起こし、その責任をキリスト者に押し付けて、大規模な迫害を行いました。このネロ皇帝の時代に、あの頌栄の言葉が主の祈りに加えられたのです。
「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。」
いかがでしょうか。これは「国と力と栄えが、なんじのものでありますように」と願って祈っているのではない。「ありますように」と願っているのではなく、「国と力と栄光は、あなたにあるのだ」と断言しているのです。「国」も「力」も「栄光」も、皇帝ネロが躍起になって独占しようとしたものです。それらを、ことごとく、神のものだと断言して祈っている。じつに大胆かつ恐れを知らない祈りであると思います。「御国を来たらせたまえ」と祈るだけなら、まだしも迫害を免れ得たかもしれません。しかし、ネロの支配下で「国はかぎりなく、あなたのもの」と祈ることは、本当に危険なことだった。しかし、主の教会はこの言葉を主の祈りに付け加えました。そうせざるを得ない、やむにやまれない必然があったのです。その必然とは何でしょうか。主イエスのお言葉が思い起こされます。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
神のものは神にお返しする。国と力と栄光を神にお返しする。それが初代教会の人々の信仰の決意だったのです。この頌栄の言葉の心とは、どういうものなのか。それを知るために、今日は詩編の136編を読みました。今一度、その御言葉の響きを深く味わいたいと思います。
「主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。 慈しみはとこしえに。
神々の中の神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
主の中の主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。
ただひとり大いなる奇しき業を行う方に。 慈しみはとこしえに。
英知をもって天を造った方に。 慈しみはとこしえに。
水の上に大地を広げた方に。 慈しみはとこしえに。
大きな光を造った方に。 慈しみはとこしえに。
昼をつかさどるために太陽を 慈しみはとこしえに。
夜をつかさどるために月と星を造った方に。 慈しみはとこしえに。
エジプトで初子を打ち 慈しみはとこしえに。
そこからイスラエルを 慈しみはとこしえに。
力強い手と伸ばした腕で導き出した方に。 慈しみはとこしえに。
葦の海を二つに分け 慈しみはとこしえに。
イスラエルをそこに渡らせ 慈しみはとこしえに。
ファラオとその軍勢を葦の海に投げ込んだ方に。 慈しみはとこしえに。
その民に荒れ野を行かせた方に。 慈しみはとこしえに。
大いなる王を打った方に。 慈しみはとこしえに。
力強い王たちを 慈しみはとこしえに。
アモリ人の王シホンを 慈しみはとこしえに。
バシャンの王オグを殺した方に。 慈しみはとこしえに。
彼らの土地を相続地として 慈しみはとこしえに。
僕イスラエルの相続地として与えた方に。 慈しみはとこしえに。
私たちが低くされていたとき 私たちを思い出し 慈しみはとこしえに。
敵から私たちを助け出した方に。 慈しみはとこしえに。
すべての肉なるものに糧を与える方に。 慈しみはとこしえに。
天の神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。」
お聞きになって、すぐに気づかれたと思います。同じ言葉が何度も繰り返されています。何を語っても「慈しみはとこしえに」という言葉で結ばれる。すべての事が神の慈しみを語る言葉になる。最初の1節から3節で、神とはどのようなお方であるかを、感謝をもって語っています。次の4節で「大いなる奇しき業を行う方」という言葉を出して、次からはその「大いなる奇しき業」とは何であったかを語り始めます。
まず初めに、天地創造の御業を語って神に感謝し、次にイスラエルの民がエジプトを逃れてからの旅路を語って、この旅路を守り支えた神の慈しみに感謝しています。天地創造と出エジプトと言えば、イスラエルの人々にとって、神の御業の二本柱とも言える偉大な御業です。この二つの偉大な御業を賛美したところで、この詩編は時代の壁を通り越して、今現在、礼拝の中で神の御業をほめたたえている自分たちの賛美を浮かび上がらせます。それが23節以降の言葉です。
「私たちが低くされていたとき 私たちを思い出し 慈しみはとこしえに。
敵から私たちを助け出した方に。 慈しみはとこしえに。
すべての肉なるものに糧を与える方に。 慈しみはとこしえに。」
いかがでしょうか。どこか主の祈りに響きが似ているのではないでしょうか。ここには日ごとの糧を与えてくださるお方への感謝があります。また、悪より救い出してくださいという祈りが聞かれたことへの感謝があります。この詩編は自分たちの先祖が受けた救いの恵みを数えるだけでなく、今ここで礼拝を守っている自分たちが日々の歩みの中で受けている救いの恵みをも数えつつ、それを「慈しみはとこしえに」という一言に込めて、高らかに歌っている。私はここに主の祈りの心があると思うのです。自分たちの信仰の歴史を振り返ってみても、今ここに自分が生かされていることを考えてみても、「慈しみはとこしえに」「慈しみはとこしえに」と賛美する。行き着くところは、いつもこれ。「慈しみはとこしえに」という賛美です。
主の祈りの最後の頌栄は、イエス様が教えてくださった祈りではなく、後の時代の教会の人々が付け加えたものだと言いました。しかし、それは、この頌栄の言葉の価値を、いささかも減じるものではありません。むしろ、主の祈りの心は、この頌栄の中にあると私は思います。ではその主の祈りの心とは、何なのか。
「国と、力と、栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。」
これは事実を述べているのであって、「限りなくなんじのものでありますように」というふうに願いを述べているのではない。事実を述べる言葉が、そのまま賛美の言葉になっているというのが、主の祈りの頌栄の最大の特徴です。事実を語る言葉と賛美の言葉というのは、水と油のように、普通はなじまないのです。それが、主の祈りにあっては、一つとなっている。
私が小学生だった頃、近くの教会学校、当時は日曜学校と言っておりましたが、そこでも毎週の礼拝で主の祈りを祈っていました。すると、ある先生、牧師ではなく、信徒の先生が、主の祈りについて、こんなお話をしてくださいました。祈れなくなったら、主の祈りを祈ったらいい。一人ぼっちになったら、主の祈りを祈ったらいい。主の祈りは絶対に一人では祈れない祈りなんだ。イエス様が一緒に祈ってくださる祈りなんだよ。だから、主の祈りは、一人で祈るときも「我ら」と言うのだと、そんなお話を熱く語ってくれました。私はこの先生のお話が学問的に正しいかどうかは分かりません。しかし、心に響くメッセージであり、心に残る話であり、人を生かす話であったことは確かです。そしてそれは私だけのことではなくて、当時日曜学校に通いながら、その後、教会を離れてしまった元少年・少女たちの心に、今も残っている宝物だと思う。そして、ここに、主の祈りの心はあると思うのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
3月15日(日)のみことば
「神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた。」(旧約聖書:創世記3章21節)
「よく言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」(新約聖書:ルカ福音書23章43節)
死に行く人、しかも犯罪人として処刑されていく人が、希望というものを持ち得るとしたら、それは主イエスの慈しみをおいてほかにあるでしょうか? その人に主イエスが言われたのは、そういう言葉です。これは、死んだら天国へ行けるよ、ということではない。今日、あなたは私と一緒に楽園にいる。楽園とは何でしょうか? これは、浮世にいる人がせめてもの慰めに夢見た理想郷のことではありません。楽園といえば、創世記の第3章に、アダムとエバが自らの罪によって楽園を追放される物語があります。あれによって、人間は楽園を失ったのです。もう二度と楽園には帰れない。そういう定めを負ったのです。
しかし、あのとき、神様は不思議なことをなさいました。追放される二人に、わざわざ革の衣を作って着せてくださった。革の衣というのは、どこか命の犠牲を連想させます。なぜ、そういう衣を着せて追放なさったか? あの衣に、神様の御心は示されていたのです。もう一度、あなたがたは帰って来なさい、ということです。誤解のないように言いますと、これはエデンの楽園に帰って来なさいということではありません。あの楽園は完全に失われたのです。エデンには罪の無い者しか、入ることは許されなかった。罪に落ちた人間は楽園には絶対に帰れない。しかし、神様の前に帰ることは許される。罪赦された者として、罪贖われた者として、贖い主と一緒に帰って行く。あなたは今日、私と一緒に楽園にいるとは、そういうことです。