聖書:詩編139編1~6節・ルカによる福音書22章31~34節

説教:佐藤 誠司 牧師

「私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。」(詩編139編4節)

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 (ルカによる福音書22章31~32節)

 

私たちは今、日曜日の礼拝で、主の祈りを学んでいます。主の祈りは、その名のとおり、主イエス・キリストが教えてくださった祈りです。一人、寂しい所に退いて祈る主イエスの姿を見て感銘を受けた弟子たちが、「私たちにも祈りを教えてください」と願った。この願いに応えるようにして、イエス様が教えてくださったのが主の祈りです。そのような祈りですから、弟子たちはさぞ喜び勇んで、毎日主の祈りを祈っただろうと思いますが、意外にも現実はそうではなくて、弟子たちが主の祈りを自分たちの祈りとして日々祈り始めたのは、主イエスの十字架と復活の後であったと言われます。どうしてなのでしょうか。

こういうことは考えられるでしょう。主の祈りを教えていただいた弟子たちは、この祈りの大きさ、深さに圧倒されて、とてもじゃないけれど、この祈りを自分たちの祈りとして祈ることは出来なかったのではないか。

では、具体的に、どの祈りが弟子たちにとって、あまりに大きくて深いものだったのか。私は、これは二つの祈りが挙げられると思います。一つ目は先週読みました「御国を来たらせたまえ」という二番目の祈り。そして、二つ目がその次の第三の祈りです。私たちが礼拝や集会、あるいは日常生活で祈る文語体の主の祈りでは、次のように祈ります。

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

これを見ますと、明らかに「天」と「地」を対象的に語っていることが分かります。天というのは、神様がおられるところと理解しても良いでしょう。それに対して「地」というのは、私たちが生活している地上のこと。今の世界を見渡しても、とてもじゃないが、神様の御心が実現しているとは言い難い。それを承知の上で、イエス様は弟子たちにこの祈りを祈りなさいとお命じになったのです。そこには、どのような御心があったのか。今日はその一点を目標に定めて、ご一緒に主の祈りの世界に入っていきたいと思います。

ところで、皆さんは、主の祈りを祈りながら、不思議に思われたことはないでしょうか。神様の御心がこの地上に実現しますようにと祈るのであれば、「御心が成りますように」と祈るだけでも良かったはずです。それを、どうして、イエス様は「御心が天になるように」という一節を付け加えられたのか。これは、考えてみれば、不思議です。どうしてなのでしょう。皆さんは、なぜだと思われますか。この問いの答えは、あとでご一緒に考えるとして、その前に、もう一つの問いかけを皆さんお一人お一人に投げかけてみたいと思います。少し厳しい問いかけです。

これは私も洗礼を受けてクリスチャンになりたての頃、家族や友人たちから指摘されて、真面目に悩んだことですが、よくこう言われたものです。お前は日曜日の生活と普段の生活が乖離しているじゃないか、お前は言っていることと、やっていることが違うじゃないかと言われました。また、口の悪い友人からは、お前は仮面クリスチャンかと揶揄されたこともありました。痛いところを衝いてくるわけです。おそらく、これは私だけでなく、日本の社会で信仰をもって生きるキリスト者なら、誰もが経験することではないかと思います。皆さんは、どうでしょうか。

こういう鋭い指摘を受けた時、私は、ああこれは、自分の信仰が生ぬるいから、中途半端だから、こんなことを言われるのだと、自分を責めていました。言われたことが、ことごとく図星だったからです。しかし、今思うに、あれは本当に悪いことだったのかと、疑問に思うことがあるのです。

どういうことかと言いますと、日曜日の生活と普段の生活が違うというのは、確かに私の未熟さが招いた結果ではありますが、もう一つ、こういうことは言えるのではないかと思います。私たちキリスト者は二つの生き方を知っている。教会の生活と普段の生活です。今仮に、教会の生活を「天にある生き方」と呼ぶならば、私たちは「天にある生き方」と「地上の生き方」という二つの生き方を知っていることになります。

もちろん、時間の長さから言えば、教会の生活よりも普段の生活のほうが圧倒的に長いのですが、皆さん、どうでしょうか。軸足は教会の生活にある、と言いますか、教会の生活が普段の生活を支えている。そういうことが皆さんの中で起こっているのではないでしょうか。この点については、じつは聖書も語っております。使徒パウロがフィリピ書の中で「私たちの国籍は天にある」と述べています。キリスト者の国籍は地上ではなく、天にあるのです。だからキリスト者の本国は天です。そこから、私たちは地上の生活へと遣わされて来るのです。さあ、そうしますと、私たちの地上の生活は旅人としての生活ということになります。軸足を天に持つ人間が、旅人として地上に生きるのですから、地上の生活は、いきおい、不器用で、ぎこちないものになります。そのぎこちなさが周りの人たちから指摘されたり、仮面クリスチャンと言われたりするでしょう。しかし、案外、そこに、主イエスの願いがあったのではないかと思うのです。その願いが込められているのが、主の祈りの次の言葉です。

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

よくよく考えますと、これは天を知る人の祈りです。天を知っていて、しかも、地上に遣わされて来た。そういう人にして、初めて祈ることが出来る祈りです。その意味で、これは主イエスだけが祈ることの出来る祈りだと言っても差支えがない。しかし、主イエスは弟子たちに「あなたがたは、こう祈りなさい」とお命じになった。どうしてなのでしょうか。弟子たちを天使にするためです。「天使」などと聞きますと、私たちは真っ白い服を着て、羽があってというビジュアル系の天使を連想しがちですが、聖書が言う天使というのは、そういうビジュアル系の存在ではないのです。見た目のビジュアルではなく、天使とは純粋に働きのことなのです。ですから、天使というのは、世間一般の人たちが考えているような荒唐無稽な存在ではなく、むしろリアルな存在です。

キリスト教の神学の中心となる分野に教義学と呼ばれる学問があります。その教義学の最初のほうに「創造論」というのが出て来ます。伝統的な教義学では、この創造論の最後に「天使論」を扱うのです。でも、よりによって、どうして創造の御業を論じる中に天使が出て来るのかと不思議に思われるかもしれません。聖書が語る創造というのは、造ってそれでおしまいではなく、創造の中に「統治」が含まれています。神様は御自分が造った世界を統治される。統治というのは、神の御心が貫徹されることですが、人間にはその御心が分からない。そこで人間が知らない神の御心を伝えるために天から遣わされて地上にやって来るのが天使なのです。ですから「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは主イエスの祈りであると共に、天使の祈りでもあるわけです。

以上のことを踏まえますと、この「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを主イエスが弟子たちに教えてくださったことの背後には、弟子たちを天使にするという御心があったことが分かります。そのために主イエスが弟子たちに繰り返し語ってくださったのが、天の国、神の国を語る譬え話です。ルカ福音書が伝える「見失った羊」の譬えがありますが、あの譬えは次の言葉で結ばれています。

「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」

最後の最後に「天」が出て来るのです。それまで、私たちは、このお話は地上のことだと思っていた。見失った一匹の羊を羊飼いが捜し、やっと見つけた。その喜びを、羊飼いは近所の人たちと分かち合います。私たちも喜びます。しかし、この地上の喜びよりも、もっともっと大きな喜びが天にあるのだよと、イエス様は教えておられるのです。まさにこれは、イエス様だけが語り得た譬え話です。この譬え話を語ることで、イエス様は何をしておられるか。皆さんは、何だと思われるでしょうか。私は思うのですが、イエス様はこのお話によって、私たちに天を覗き見させておられるのではないかと思います。さあ、ここから覗いてごらん、聞いてごらん。天の喜びが見えるか、喜びのどよめきが聞こえるか。

また、イエス様は、じつに様々な譬えを用いて、天の秘密を語っておられます。ある時は、イエス様は天を「からし種」に譬えてお語りになった。目にも留まらぬほど小さなからし種が、やがて空の鳥が巣を作るほど大きく成長する。天とは、そのようなものだと教えてくださったのです。

また、こんなこともありました。伝道に遣わされた弟子たちがイエス様のもとに帰って来て、口々に報告をした。きっと大きな成果があったのでしょう。喜び勇んで報告をします。そんな弟子たちに、イエス様は、こうおっしゃったのです。

「悪霊どもがあなたがたに服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

地上のことで喜ぶなと言われたのです。これは言い換えると、あなたがたの喜びは天にあるじゃないか、ということです。また、これと関連のあることですが、イエス様はこうも言っておられます。

「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

このほかにも、イエス様は天について、天の国について、じつに多くの言葉や譬え話を弟子たちに語ってくださいました。そのすべてをここで解き明かすことは、到底叶いません。それほど、珠玉のような言葉をあまた語ってくださったのです。何のためなのでしょうか。もちろん、これは、弟子たちを天使にするためです。この目的をハッキリと語っておられる御言葉があります。マタイ福音書の16章が伝える次の御言葉です。

「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」

天の国の鍵が授けられる。これこそ究極の天使の働きではないでしょうか。それをペトロよ、あなたに託すと言っておられるのです。考えてみれば、神の御心を地上に知らせ、成し遂げるというのが天使の働きですから、まことの天使はイエス様お一人なのです。ペトロを始めとする弟子たちは、ことごとく天使にはふさわしくない。それを承知の上で、イエス様は弟子たちに天の国を覗き見をさせ、天の国の譬え話を語り聞かせ、祈ってくださった。その祈りがルカ福音書の22章に記されています。

「私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

これは深い意味を持つ言葉です。あなたは天使としてこの世に遣わされる。だから、この世の人々を兄弟として力づけてやりなさい。主イエスはそう言われるのです。これはペトロだけではありません。私たちにも向けられた言葉です。この務めを果たすために、私たちに与えられたのが、次の祈りです。

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

この祈りを感謝をもって受け取り、地上の世界のために日々祈る者でありたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

2月15日(日)のみことば

「私を嘲るのは敵ではない。そうであるなら耐えられる。尊大に振舞うのは私を憎む者ではない。そうであれば彼から隠れられる。だが、それはあなたなのだ。」(旧約聖書:詩編54編13節)

「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」(新約聖書:第二コリント書4章18節)

使徒パウロがコリント教会の人々に書き送った手紙の一文です。ここには「見える」という言葉と「見えない」という言葉が際立った対照を見せて使われています。一読して、すぐに分かることは、パウロが「見えるもの」よりも「見えないもの」のほうに大きな価値を見いだしていることです。しかし、それは何も、見えないものはどうでも良いということではありません。パウロが言いたいのは、そういうことではなくて、見えるものと見えないものは質的な違いがあるということです。

では、見えるものとは、どういうものなのでしょうか? 私たちも日常生活において、しばしば経験することですが、見えるものが私たちの心を捕らえてしまうことがあります。特に昨今の日本の社会は見えるものが一番重んじられます。学校に行けば見える形で成績を上げないといけない。会社に行けば、見える形で業績を上げないと評価されません。目に見える成果を上げよ、というのが社会全体の合言葉にすらなっている、それが今の日本の社会ではないかと思います。私たちは、好むと好まざるに関わらず、目に見える世界に住んでいます。特に今の日本社会は目に見える成果を優先する社会です。そのような社会の中で私たちはキリスト者として生きています。「目に見える成果を挙げよ」というのが合言葉のような社会で信仰を持って生きるのです。そのためには、私たちはやはり、目に見える物や出来事の背後に神様の導きや祝福を見て取ることが大切になってきます。パウロが言う「見えないものに目を注ぐ」とは、そういうことです。