聖書:詩編16編7~9節・マタイによる福音書6章5~15節
説教:佐藤 誠司 牧師
「私の舌に言葉が上る前に、主よ、あなたは何もかも知っておられる。」(詩編139編4節)
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられる私たちの父よ。御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように。天におけるように、地の上にも。私たちに日ごとの糧を今日お与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください。』」(マタイによる福音書6章8~13節)
これまで私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条と十戒を連続して学んできましたが、十戒の学びが年内で終わりまして、年明けからは主の祈りの学びに入りました。主の祈りは、その名のとおり、主イエス・キリストが教えてくださった祈りです。今朝もご一緒に主の祈りを唱えましたが、私たちはペトロを始めとする直弟子以来、2千年を超える歴史を主の祈りと共に歩んできたわけです。考えてみれば、不思議なことです。私たちはペトロたちと同じ祈りを祈っているのです。「あなたがたは、こう祈りなさい」と主イエスが言われた。その言葉を忠実に守って、民族や言語の壁を越えて、主の祈りがすべてのキリスト者の旗印となっているのです。
主イエスはこの祈りを教えるにあたって、まず神様を父と呼べとおっしゃいました。当時のユダヤにあっては、神を父と呼ぶこと自体は、珍しことではありません。当時のエリートであったファリサイ派の人々も「我が父よ」と呼び掛ける祈りをしていたと言われます。しかし、彼らの「我が父よ」という呼びかけは、非常に厳かで格調高い響きがするのに対して、イエス様が教えてくださった主の祈りは、幼子が全幅の信頼をもって「お父さん」と呼び掛けるような親密で打ち解けた響きのする祈りなのです。
ところで、私たちは十戒を学んだ後に、主の祈りの学びに入ったわけです。ですから、心のどこかに十戒の響きが残っている。十戒の言葉と主の祈りの言葉がオーバーラップしてくる。そういう印象を持っておられる方もおられると思います。例えば「私をおいてほかに神々があってはならない」というのが十戒の最初の言葉でした。これが十戒の土台となる戒めです。これと同じように、主の祈りの土台となっているのが、「御名を崇めさせたまえ」という祈りではないかと思います。
また、全体の構造も、十戒と主の祈りは共通したものがあると思います。十戒は、本文に明記されているわけではありませんが、内容的に第一部と第二部に分かれていました。第一部は神様に対する姿勢が問われ、教えられていました。それに対して、第二部は共に生きて行くべき隣人に対する姿勢が問われ、教えられておりました。主の祈りも、これとよく似た構造を持っていると考えることが出来ます。
「御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」
これが、いわば第一部です。これは神についての祈りと呼んでも良いでしょう。これに対して、後半部分は私たちの地上の生活に関わる祈りと呼ぶことが出来るでしょう。このように考えますと、十戒を生きる人は、主の祈りを祈る。そう言い切っても極論とは言えないのではないかと思います。そういえば、これまで十戒についてお話をする際に、何度か言及した明治時代初期の横浜バンドと札幌バンドの若者たち。キリシタン禁令の高札が下ろされる前に、彼らは宣教師の家でひそかに礼拝を守っていたのですが、彼らが主の祈りと十戒を唱えていたことの意味が新たに浮かび上がってきます。キリスト教への偏見と差別が根強く残る中、生まれたばかりのキリスト者である彼らが信仰生活を貫いたことの背後には、主の祈りと十戒を車の両輪として重んじる信仰の姿があったと思います。
主の祈りと十戒の意外な結びつき。それは、主の祈りを伝えているマタイ福音書の構造からも、見て取ることが出来ます。マタイ福音書は主の祈りを「山上の説教」の中に入れて伝えています。「山上の説教」というのは、主イエスが弟子たちを連れて小高い山に登られた。そこに主イエスを慕う多くの人々が集まって来た。この人々に主イエスが語られた数々の御言葉が、マタイ福音書の第5章から第7章に収められている。それを「山上の説教」と呼ぶ。昔は「山上の垂訓」といういかめしい名前が付けられて、特に重んじられた部分です。
この「山上の説教」の中で、主イエスは十戒を含む律法全体を新しく読み直すことを試みておられます。それは福音の光の中で律法を読み直す試みと言っても良いと思います。一つ例を挙げますと、5章27節以下において、こう語っておられるのです。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。」
「姦淫してはならない」というのは十戒の第七の戒めです。この戒めを、イエス様は新しく福音の光の中で読み直しておられるのです。十戒は「姦淫」という目に見える行為を禁じていました。それを、主イエスはさらに一歩踏み込んで、心の思いという目に見えない罪を禁じておられる。情欲とかみだらな思いというのは、言うなれば心の問題です。もちろん、これは目に見えるものではない。皆さんの中には、はたして、そういう内心の自由に属することを裁くことが出来るのかと思われた方もおられると思います。そこまでを問う主イエスの意図は、いったい、どこにあるのか。これについては、主イエスご自身が、同じ「山上の説教」の中で、次のように語っておられます。5章の17節以下の言葉です。
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。」
心やさしいイエス様のことだから、きっと律法を廃止するために来られたに違いない。そう思う人々が当時も大勢いたのでしょう。これも、考えてみれば、身勝手な期待です。イエス様は、そういう期待を、ここでひとまず否定しておられるのです。その上で「私は律法を完成するために来たのだ」と言っておられる。さあ、律法を完成するとは、いったい、どういうことなのでしょうか。
こういうことは考えられると思います。「律法を完成する」ということは、逆から言えば、律法はまだ完成してはいなかった、ということです。どういうところが完成していなかったのか。それは十戒が与えられた時の状況を見れば、分かります。エジプトで奴隷となって苦しんでいたイスラエルの人々を神様が憐れんで、モーセを指導者に立ててエジプトから脱出させてくださった。十戒は、この人々に与えられた御言葉です。ですから、この人たちは、ついこの間まで奴隷だった。奴隷というのは自由もなければ責任もない。お互いの間に倫理的な合意もないし、良心もない。そういう人間がいくら大勢集まっても、それは決して「民」と呼べるものではなく、ただの烏合の衆に過ぎません。そういう人々に与えられた十戒は、初めから教育的な意味を持っていたと見るべきでしょう。
教育的な言葉というのは、確かに大切です。しかし、それは期間限定と言いますか、まことの民、神の民イスラエルが生まれるまで、ということです。この期間限定の律法の役割について、パウロはガラテヤ書の中で、次のように述べています。
「こうして律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました。私たちが真実によって義とされるためです。しかし、真実が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
では、十戒のどこが完成されていないのか。いったい何が十戒や律法を完成するのか。そこが肝心要になってきます。私は、十戒を取り上げてお話をしたときに、よく「十戒の心」ということを申し上げたかと思います。十戒は禁止の命令や戒めの言葉が多いですから、そこにばかり気を取られると、十戒の心というものを聞き逃してしまう。そうではなくて、私たちは禁止の言葉の背後にある十戒の心に耳を傾けたいのです。では、十戒の心とは何か。私は、それは愛だと思います。神を愛する愛と隣人を愛する愛です。ここもパウロの言葉を読んでみたいと思います。コロサイ書の3章13節以下の言葉を読みます。
「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。さらに、これらすべての上に、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。」
これは素晴らしい言葉です。パウロはここで、私たちが身に着けるべき美徳をいくつか挙げて、そのあとに「これらすべての上に、愛を加えなさい」と言うのです。愛はすべてを完全に結ぶ帯だとも語っている。十戒の心と主の祈りを結ぶのも、愛なのです。十戒の心は、十字架と復活を経て、キリストの中に結実しています。十戒の心とは、何だったのか。それは、ただお一人の神を愛することと、隣人を愛すること。言ってみれば、人間のいちばん真っ当な、当たり前の健やかさに生きることなのです。
では、十戒と主の祈りは、どこで結ばれるのでしょうか。
全部で十ある十戒の戒めの中で、最も鮮やかに十戒の心というものを言い表しているのは、やはり次の御言葉であろうと思います。
「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」
そして、この言葉に結ばれるようにして対応している主の祈りの言葉は、次の言葉です。
「御名が聖とされますように。」
ここは新共同訳聖書とその前の口語訳聖書では「御名が崇められますように」となっていました。また、さらに前の文語訳聖書は「願はくは御名の崇められん事を」となっておりました。また私たちが祈っている主の祈りは厳かな文語で「御名を崇めさせたまえ」となっています。つまり、すべてが「崇める」という言葉を使って訳していたわけです。聖書協会共同訳は、それを敢えて破って「聖とされますように」と訳したのです。
どうして聖書協会共同訳は「崇める」という語を捨てたのか。やはり、この事の背後には聖書協会共同訳らしい緻密な解釈があるのでしょう。「崇める」というのは、私たち人間の側の行為です。ところが、神様の御名は、人間が崇めるから聖とされるわけではない。神の御名が聖とされるために、人間の側のお手伝いが必要というわけではない。だから「崇められますように」という翻訳はおかしいと、聖書協会共同訳は判断したのでしょう。これは、まあ理屈の上では正しいのですが、皆さん、どうでしょうか。私はそこまで理詰めにならなくてもと思います。確かに神様は、御自分が聖とされるために人間の力を必要とされるようなお方ではない。全きお方だからです。
しかし、神様はそれを認めておられる、いや、むしろ喜んでおられるのではないかと思う。崇めるという行為だけではありません。賛美することも、祈ることも、伝道することも、集まることも、喜んでおられる。この許しと喜びの上に成り立っているのが、私たち礼拝であり、信仰生活です。その礼拝の中で、また信仰生活の中で、私たちは素直に祈って良い。「御名をあがめさせたまえ」「御名が崇められますように」と祈って良いのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
2月1日(日)のみことば
「主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注いだからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため、主が私を遣わされた。」(旧約聖書:イザヤ書61章1節)
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(新約聖書:マルコ福音書1章1節)
今日の御言葉はじつにマルコらしい、明快な言葉で福音の幕開けを告げています。福音の「福」という字は、幸福の福です。そこからも分かるように、この字は「喜ばしい」という意味があります。そして福音の「音」という字は、訓読みでは「おと」と読ませる。この字は、じつは「手紙」という意味のあった字です。そういえば手紙が来ないことを音沙汰が無いとか、音信不通とか言います。つまり、福音とは、喜ばしい手紙ということなのです。喜びをもたらす手紙と言っても良いと思います。肝心なことは、福音とは手紙だということです。手紙ですから、当然、差出人と受取人の双方が存在します。出す人と受け取る人がいないと、手紙とは言えません。
福音書はイエス様のご生涯をたどる書物ですから、一般にはイエスという人の伝記のように思われています。しかし、福音書は、はたして伝記なのでしょうか。こういうふうに考えてみては、いかがでしょうか。私たちが、例えば野口英世の伝記を読むとします。その場合、野口英世は、あくまでも、昔生きていた人であって、私たちにとっては壁の向こう側の人です。そして、読者である私たちは、こちら側にいて、向こう側の野口英世とこちら側の私たちとは、一応、無関係です。その無関係な私たちが、野口英世という人を客観的に眺めている、というのが伝記です。しかし、福音書は、違います。手紙なのです。差出人と受取人が、一つの関係の中にいる。それが手紙の手紙たる所以です。