聖書:出エジプト記20章17節・コロサイの信徒への手紙3章5~8節
説教:佐藤 誠司 牧師
「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」(出エジプト記20章17節)
「だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。しかし今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、冒涜、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」(コロサイの信徒への手紙3章5~8節)
これまで私たちは、日曜日の礼拝で十戒を連続して学んできましたが、その学びも今日が最終回になりました。というわけで、今日は第十の戒めについて、お話をします。初めにその御言葉、出エジプト記20章の17節を読んでみたいと思います。
「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」
隣人のものを欲してはならないと言われています。ここは以前の口語訳聖書では「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」となっていました。私はこの翻訳にも心を引かれます。そこで今日の説教題を付けました。「むさぼりの心」と決別する。それがこの第十の戒めの本意です。
ところが、それが難しい。いちばん難しいと言っても過言ではないと思います。それほどに私たちの所有物への執着は大きい。子どもはすぐに自分の所有物を守ることを覚えます。友達や兄弟同士、親類同士で喧嘩やいさかいが起こるのも、大抵は所有物が原因になっています。今、世界で起っている戦争も同じです。人間にとって、むさぼりの心ほど、自制しにくい心も無いと思います。厄介なのです。
この第十の戒めについて、昔から指摘されてきたことがあります。この戒めは第九番目の戒めとは、言われていることが違う。第九の戒めまでは、例えば、偽証してはならないとか、殺してはならないとか、いわば具体的な行為を語っている。偶像を刻んではならないというのも、そうです。これらは皆、具体的な行為として表に現れてくる罪です。表に現れるというのは、目に見えるということです。ところが、隣人のものを欲してはならないと語る第十の戒めは、どうでしょうか。これは具体的な行為というより、心のありように関わる問題のように思います。
目に見えないだけに、この第十の戒めは具体性に欠けるし、その罪も軽いという意見を言う学者もいるようですが、果たしてそう言えるか。
「氷山の一角」という言葉があります。目に見えているのは、ほんの一部で、目に見えない水面下には、さらに巨大な氷の塊があって、目に見える氷山を根っこで支えている。偽証も、殺人も、盗みも、確かに重い罪ではありますが、目に見えるそれらの罪を生み出し、根っこで支えているのは、やはり「むさぼりの心」ではないかと思います。ですから、私たちは、偽証や殺人の罪に比べて「むさぼりの心」の罪は重いか軽いかを論ずるのではなく、むしろむさぼりの罪の深さに注目すべきでしょう。私たちが「むさぼりの心」について考えるときに、まず心に留めるべき御言葉があります。コロサイの信徒への手紙の3章5節以下の御言葉です。
「だから、地上の体に属するもの、すなわち、淫らな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかなりません。これらのことのために、神の怒りが不従順の子らの上に下るのです。あなたがたも、以前このようなものの中に生きていたときは、そのように歩んでいました。」
ここで「貪欲」と言われているのが「むさぼりの心」です。この貪欲が偶像礼拝にほかならないと言い切っています。これは非常に鋭い、新約聖書が到達した真理であると思います。新約聖書は、むさぼりは単なる道徳上の問題ではなく、信仰の根幹に関わることだと見抜いているのです。なぜ、むさぼりの心、貪欲は偶像礼拝に結び付くのでしょうか。ここで、第一の戒めを思い起こしていただきたいと思います。
「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」
この第一の戒めも、具体的な行為というよりも、人間の心の有りようの根本に関わる戒めです。表に直接は現れず、従って目には見えない。しかし、それだけに、さらに深いところで人間の存在そのものを支配している。そこが第十の戒めと共通しているのです。このように、十戒は、最後の第十の戒めまで来て、再び第一の戒めに戻ってきていると言える。まことの神に向かわない心は、むさぼりの心にならざるを得ないのです。「あなたがたは神と富とに兼ね仕えることは出来ない」という主イエスのお言葉が思い起こされます。
むさぼりの心は、常に具体的な標的を持っています。むさぼる心がまず向けられるのは、隣人の家です。この「家」というのは、必ずしもハウスのことではなく、隣人の持ち物全般を指しています。それを具体的に言えば「隣人の妻」となるわけです。そこで思い起こすのが、イエス様が山の上でお語りになった次の言葉です。マタイ福音書の5章27節以下の言葉。これを新共同訳聖書で読んでみます。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
なぜ敢えて新共同訳を選んだかと言いますと、他の日本語訳聖書が「女を見る者は」と訳したところを、新共同訳は「みだらな思いで他人の妻を見る者は」と訳したのです。新共同訳らしい意訳ですが、案外、十戒の心はそこにあるのではないかと思います。その「みだらな思いで他人の妻を見る」代表がサムエル記下の11章が伝えるダビデのバト・シェバ事件です。こんなお話です。
ある日の夕暮れに、ダビデ王が宮殿の屋上を散歩していたとき、水浴びをしている美しい女性を見て情欲を掻き立てられた。ダビデが人をやって女の事を尋ねさせると、忠実な部下である軍人ウリアの妻バト・シェバであると分かった。ダビデは彼女を呼び出して、肉体関係を持った。すると、一度の交渉で彼女は身ごもります。ダビデは夫ウリアに悟られまいと、ウリアを妻のもとに帰しますが、忠実なウリアは部下が戦っているときに、妻と夜を過ごすわけにはいかないと、頑として帰ることをしなかった。また、ダビデはウリアに酒を振舞って、妻と一夜を共にするよう計らいます。バト・シェバの妊娠がわが身に及ぶのを恐れたのです。ところが、これも忠実な部下ウリアには通用しなかった。困り果てたダビデは、生きて帰れぬ激戦地にウリアを送り出し、置き去りにして戦死させます。
一安心するダビデのもとに預言者ナタンが遣わされて、かなりきわどい譬えを語ってダビデの罪を糾弾します。こんな譬えです。
「ある町に、二人の男がいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買い求めた雌の子羊のほか、何も持ってはいなかった。彼はその仔羊を養い、彼の乏しいパンを食べさせ、彼の杯から飲ませ、彼の懐で眠らせ、彼にとってはさながら娘のようであった。あるとき、豊かな男に一人の客があった。豊かな男は自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の子羊を取り上げて客に振舞った。」
この話を聞いたダビデは激怒して、「そんなことをした男は死罪にすべきだ」と叫びます。すると、預言者ナタンは言い放ちます。
「その男は、あなただ。」
私がこの物語が凄いと思うのは、ダビデが、子どもでも解るような、あからさまな譬えを聞いても、それが自分のことだとは露ほどにも思わなかったことです。私は、これは誇張ではないと思います。むさぼりの心というのは、それほどまでに深く人の心を支配するのだと、この物語は語って止みません。そして、このむさぼりの心を、私たちも持っていることを、認めないわけにはいかない。そういう思いがいたします。この人間の心の深みにまで力を及ぼすむさぼりの心に、私たちは打ち勝つことが出来るのでしょうか。もし、打ち勝つことが出来ないのなら、私たちは罪の奴隷になってしまうでしょう。さあ、私たちが自分の思いにもあらがって、むさぼりの心に打ち勝つ道は、あるのでしょうか。
ここで話が飛ぶようですが、三位一体について、少しお話をしておこうと思います。父と子と聖霊。この三つの在り方で、三つの関わりを持ってくださるのが、私たちの神様で、三つの在り方なのだけれども、じつはお一人の神様だ、というのが三位一体です。その三つの在り方ですが、まず第一は父なる神としての関わりです。世界を創造し、保ち、統治しておられる愛の在り方です。父として律法を与え、裁きを担われます。しかし、この愛の在り方は人間の罪によって破られてしまいます。
そこで神様は、もう一つの在り方を取られます。それが御子であるキリストです。御子キリストが罪の赦しによって、破られた神と人との関係を回復され、和解を成し遂げてくださった。それが御子の十字架と復活です。
しかし、罪の赦しは罪の現状肯定ではありません。赦しは「なあなあ」で終わってはならないのです。後始末が大事です。そこで、罪が赦された後も残っている罪の落ち武者と戦い、勝利して、人間を真の意味の神の子に導いていく第三の在り方が登場します。それが聖霊です。この聖霊は、人間の心の奥底に残って、いわば進駐軍のような働きをする。再び人間を捕らえようと画策するむさぼりの心にとってみれば、天敵のような存在です。ですから聖霊は勝利者の性格を本来的に持っているのです。聖霊といえば、私たちを導く信仰の霊というイメージを持っておられる方が多いと思いますが、じつは聖霊は戦いの霊、勝利の霊だったのです。このことを言い表したのがエフェソの信徒への手紙4章30節の御言葉です。
「神の聖霊を悲しませてはなりません。」
聖霊は連戦連勝の勝利者ですから、悲しみとは無縁なのです。この聖霊に対して、第二の在り方である御子キリストは自己犠牲を伴う罪の赦しの主体ですから、悲しみを本質としておられる。赦しというのは、どうしても、悲しみの要素が強いのです。ところが、罪の赦しから、次の聖化に向かって、潜伏する罪の落ち武者と戦い、勝利するとなると、自ずと性質が違ってくるわけで、聖化の主体である聖霊は、もはや悲しんではならない存在になります。以上のような三つの在り方、父として、御子として、聖霊としての在り方が、ことごとくお一人の神の愛の在り方だというのが三位一体の本質なのです。
以上のこと、なかでも勝利者としての聖霊の働きに注目しますと、また新たなことが分かってきます。パウロの手紙には勝利者としての聖霊を語る言葉が意外に多いということです。ローマ書の8章13節に、こうあります。
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬほかはありません。しかし、霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」
ここで「肉」と言われているのが、むさぼりの心です。むさぼりの心と聖霊は互いに対立して戦うのです。ガラテヤ書の5章16節17節に、こう書いてあります。
「私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのため、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。」
十戒の心とも言うべきものが、キリストの十字架と復活を経て、ここに結実していると思います。十戒の心とは、何だったのか。それは、ただお一人の神を愛することと、隣人を愛すること。言ってみれば、人間のいちばん真っ当な、当たり前の健やかさに生きることなのです。神を愛し、隣人を愛する。これは規則でがんじがらめに定められた生き方ではありません。あの明治時代の若者たち、横浜バンドと札幌バンドの若者たちは、十戒の中に、それまでの日本には無い自由を発見し、自らその自由に生きました。私たちもこの自由を共に生きたい。そう心から願います。十戒の心は、そこにあるからです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
1月11日(日)のみことば
「私を求めなかった者に私は尋ね出され、私を探さなかった者に見いだされた。私の名を呼ばなかった国民に、『私はここにいる、私はここにいる』と言った。」(旧約聖書:イザヤ書65章1節)
「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(新約聖書:ローマ書5章10節)
義とされるとは、とりもなおさず、私たちが神様との間に平和を得ることなのだとパウロは言います。この「平和」というのは、ただ漠然と争いの無い状態を言うのではない。和解をすること、しかも、神様と和解をすることです。その和解の真相を語っているのが、今日の御言葉です。この和解は、私たちがまだ神様の敵であったときに成し遂げられた和解です。こういう和解は、ほかには見られない、聖書独自のものです。普通、和解というのは、双方の歩み寄りのことを言います。両側が歩み寄って、肩を抱き合って、握手をする。それが和解です。
ところが、神様と人間の和解は全く違う。人間の側が固く心閉ざして、そっぽ向いている時に、神様のほうで一方的に和解を成し遂げてくださった。神様との関係が、平和、シャーロームになった。もう何も心配することはない。ですから、これは私たちの信仰の原点です。人生の荒波の中で、いろんなことが起こる。そのときに、どこへ帰って来るか、というと、私たちの帰るべき場所は、ここなのです。キリスト教の救いのすべてが、この御言葉で、言い尽くされているといっても過言ではありません。