聖書:出エジプト記20章13節・ローマの信徒への手紙12章19~21節

説教:佐藤 誠司 牧師

「殺してはならない。」(出エジプト記20章13節)

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」(ローマの信徒への手紙12章19節)

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。また、悪魔に隙を与えてはなりません。」(エフェソの信徒への手紙4章26~27節)

 

私たちは今、日曜日の礼拝で十戒を連続して学んでいます。今日は第六の戒めについて、お話をします。初めにその御言葉、出エジプト記20章の13節を読んでみたいと思います。

「殺してはならない。」

まことに明快です。言葉が明快なだけではありません。意味も明快です。なぜ殺してはならないのか、その理由も語られていません。理由を挙げなくても、分かるからです。人間であるなら、殺してはならないことは、承知しているはず。そう考えるのが常識でしょう。

しかし、一歩、現実社会に飛び込んでみると、事はそれほど明快でないことは、私たちのよく知るところです。戦争が無くならないし、終わらない。戦後、あれだけ世界に支持された民主主義の影が今や薄くなって、代わりに全体主義・権威主義が人々の心を捕らえるようになりました。軍事費の膨張が、もはや歯止めを失っている。殺したがる国家が増えています。国家が行う殺しは二つ、戦争と死刑です。日本は戦争は憲法によって放棄しましたが、その憲法が改正の名のもとに変えられようとしている。死刑制度は日本政府が正義の名のもとに死守しているものの一つです。戦争も死刑も、その背後にあるのは「天に代わりて不義を討つ」という昔ながらの正義感です。この世界の中で、今、「殺してはならない」という十戒の言葉は、ますますその重みを増しているように思います。

今日は十戒の言葉に併せて、ローマの信徒への手紙12章の御言葉を読みました。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が復讐する』と主は言われる、と書いてあります。」

ずいぶんと厳しいことが言われています。これは復讐を禁じている言葉ですが、単に禁止しているわけではありません。神の怒りに任せなさいと言われている。復讐は神様がなさることだからとパウロは言うのです。

復讐というのは、時に正当化されることがあります。昔の日本では、仇討ちということが、むしろ美談としてもてはやされました。有名な赤穂浪士の討ち入りなどは、お上が罰したとしても、民衆は喜んで喝采を送る。そういうところがあります。

ところが、パウロはそれを禁じるのです。どうしてなのでしょうか。復讐の背後に怒りがあるからです。さらに言えば、その怒りを支えているのは正義感だからです。私たちも、しばしば経験することですが、私たちが怒る時、その怒りの支えになっているのは、ほぼ百パーセント正義感です。私たちが心底怒っているとき、それは自分が正しいと思っている時です。パウロの言葉遣いに注意を払ってください。パウロは慎重に言葉を選びつつ、こう言っています。

「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」

これは単に復讐を禁じているのではない。自分で復讐するな。そして神様の怒りに任せよとパウロは言うのです。この「任せる」と翻訳された言葉は、もともと、とても面白い意味を持っていた言葉です。この言葉の元来の意味は「場所をあける」という意味だったそうです。私たちは、ついすると、心が自分の怒りだけで充満すると言いますか、目いっぱいになってしまいます。心が、自分の怒りで占領されるのです。それに対して、パウロは、心のどこかに、場所をあけておきなさい。神様の怒りのために、場所を空けておきなさいと言うのです。心が、ともすると、自分の怒りや正義感で占領されてしまいそうになる。そこを、ひょいとどいて、「神様、どうぞ、場所を空けますから、あなたの怒りでもって、ここを埋めてください」と、その場所を神の怒りに明け渡すのです。

そして、この言葉は、聖書の別の箇所では、これとは対照的な意味で使われています。それはエフェソの信徒への手紙の第4章27節です。ここは実際に開いてご覧になってください。新約の349ページです。ここに、こんな言葉があります。

「悪魔に隙を与えてはなりません。」

この「隙を与える」というところが、じつは、先ほどの「任せる」というところと同じ言葉が使われているのです。どちらも「場所を空ける」という意味ですが、ローマ書のほうが神様について言われているので「任せる」という訳になり、エフェソ書のほうは、なにせ悪魔が相手ですので「悪魔に任せる」と訳すと、なんとも具合が悪い。そこで少しばかり意訳をして「悪魔に隙を与える」と訳されたのでしょう。しかし、ここは正確に訳しますと「悪魔に場所をあけるな」「悪魔に心を明け渡すな」ということです。で、このエフェソ書の言葉の、直前を見ますと、面白いことが分かります。26節をご覧になってください。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」

この言葉を受けて、「悪魔にすきを与えてはなりません」という言葉に続くわけです。私は、このエフェソ書の言葉は、私たちの心の思いというものをよく見抜いていると思います。ここでパウロは、何が何でも怒るなとは言ってはおりません。私たちが怒る人間だということを、パウロはよく承知しているのです。だから、パウロは「怒るな」とは言わない。そうではなくて、「怒ることがあっても、罪を犯すな」と言う。さらに具体的に言うと、日が暮れるまで怒ったままでいてはならないとパウロは言うのです。

当時のユダヤでは、日が暮れると翌日になります。一日は日没と共に始まるのです。ですから、これは怒りを翌日まで日延べするな、怒りを翌日まで引っ張るなということです。怒ったまま新しい日を迎えるなということです。新しい一日というのは、神様が与えてくださるものでしょう。どんな素晴らしい出会いを神様は備えてくださるか、どんな恵みを用意しておられるか、その神様がくださる新しい一日を、初めから怒って迎えるなと言うのです。そのように、怒りを鎮めて、心を清算して、全くの素の心と言いますか、柔らかい、しなやかな心で新しい日を迎えないと、これはもう、悪魔に場所を空けることになる。宵越しの怒りを抱えていると、その怒りの心に悪魔が入り込むのです。そうであってはならない。

このエフェソ書のメッセージは、ローマ書12章の「神の怒りに場所を空けなさい」というメッセージと、ちょうど対になった表裏一体の御言葉です。さあ、「神の怒りに心を明け渡しなさい」というローマ書の言葉と、「怒ったまま明日を迎えて、悪魔に心を明け渡してはならない」というエフェソ書の言葉が同時に響くとき、私たちは、そこにどんなメッセージを聞き取ることが出来るでしょうか。

この二つのパウロの言葉に共通しているのは、人間の怒りというものが、いかに罪に陥りやすいかということでしょう。悪魔に心を明け渡してしまうのは、私たちが怒りっぱなしになっている時です。前の日の怒りを、翌日まで持ち越す時です。なぜなのか? 先ほども申し上げましたように、復讐とか怒りの心の根っこにあるのは、自分のほうが正しいという偏狭な正義感です。自分のほうが相手よりも正しいと主張するのです。だから、あんなやつ、絶対に赦さんぞと、心を頑なにするのです。その時に、その人の心から欠落しているのは何でしょうか。それは神様への信頼です。もっと言えば、信仰が無くなっている。自分の怒りにしがみついている時、私たちは容易に信仰を失ってしまう。それが悪魔にすきを与え、悪魔に心を明け渡してしまうということです。そこで、パウロは言うのです。

「あなたの怒りを捨てて、神の怒りに任せなさい。神の怒りに場所を空けなさい。」

本当の意味で怒り得るのは、神様お一人なのだ。怒るべき時には、神様が怒りを発せられる。そのことを弁え知るべきではないかとパウロは言うのです。では、私たち人間の怒りと、神様の怒りとでは、いったい、どこが違うのでしょうか? 我々人間の怒りの背後にあるのは正義感、しかも自分のほうが相手よりも正しいという偏狭な、独りよがりな正義感です。では、神の怒りの背後にあるのは、いったい、何なのでしょうか。私は、それは「悲しみ」ではないかと思うのです。人間の怒りの背後にあるのは、独りよがりな正義感です。しかし、神様の怒りの背後にあるのは、そういう人間の罪深い怒りに向けられた悲しみではなかったか。

正義感を背景にした人間の怒りと、悲しみを背後に持つ神様の怒りが、正面からぶつかった出来事が聖書の中に出てきます。それは主イエスとファリサイ派の律法学者たちとの激突です。このファリサイ派の人々は、それこそ、我こそは神の忠実な僕だと自負しておりまして、自分たちは誰よりも正しいと確信していました。その確信が怒りとなって、主イエスに向けられたのです。

この激突の結果、何が起こったか。人間の偽りの怒り、正義を装った怒りによって、主イエスは十字架につけられたのです。主イエスの十字架は、人間の怒りの行き着く果てです。しかし、それと同時に、主イエスの十字架は、神の怒りの究極の形ではなかったかと思います。神の怒りの背後には悲しみがあるのだと申しました。人間の怒りの背後には偽りの正義感があります。正義感に支えられて、人間の怒りは爆発するのです。しかし、神の怒りは、深い悲しみを伴って、人間の上に下ります。

しかし、その神様の怒りを真正面から受け止めることの出来た人間は、一人としていなかった。主イエスだけが、この神の怒りを受け止めた。身をもって引き受けたのです。ファリサイ派の人々が受けるべき神の怒りを、主イエスが身代わりになって受けてくださった。しかも、主イエスはご自分に向けられたファリサイ派をはじめとする人間の怒りをも、真正面から引き受けてくださった。人間の怒りと、神の怒りが、主イエスの十字架で激突したのです。このことが分かったからこそ、パウロは「キリストは、私たちが敵であった時に、十字架についてくださった」と言ったのです。

パウロは「自分で復讐しないで、神の怒りに任せなさい」と言いました。これは、神様が我々に代わって復讐されるという意味も、もちろんあるのですが、それよりも、もっと深いメッセージがここに隠されていたのです。それは、主の十字架に委ねなさいということです。十戒は「殺してはならない」と私たちを戒めています。私たち人間は、その戒めに従うことが出来ずに、神の御子イエス・キリストを殺してしまいました。しかし、神様はそのことを通して、私たちの罪を贖い、赦してくださいました。

私たちは憐れんでいただいた。罪を赦していただいたのです。ならば、同じ憐れみを受けている人を、私たちも赦すことが出来るのではないか。赦された者として、兄弟を赦す。自分で復讐することを放棄し、神の怒りに任せるとは、そういうことではないでしょうか。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

11月30日(日)のみことば

「大いなる恐るべき主の日が来る前に、私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子らに、子らの心を父に向けさせる。」(旧約聖書:マラキ書3章23~24節)

「だから、キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(新約聖書:第二コリント書5章17節・新共同訳)

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」(新約聖書:第二コリント書5章17節・口語訳)

今日の新約の御言葉は、敢えて新共同訳と口語訳を併記しました。新共同訳の「キリストに結ばれる」というところが、口語訳では「キリストにある」となっていたのです。これは口語訳聖書のほうが忠実な翻訳です。「キリストにある」とか「主にある」という言い方は、パウロ独特の言い方ですが、どうもその意味が分かったようで分かりにくい。そこで新共同訳聖書は、それをほぼ全部「キリストに結ばれる」という分かりやすい表現に改めたのです。ところが、聖書の言葉の深みと言いますか、御言葉の深い意味というのは、往々にして、その分かりにくさの中にある。ここも、じつはそうでありまして、「キリストにある」「主にある」というパウロが手放すことをしなかった言い回しの中に、パウロが伝えたかった真実があるように思うのです。

では、その真実とは、どういうものであったか。パウロがよく使う「キリストにある」「主にある」という表現は、使われるところによって、いろんなニュアンスがあります。例えば、キリストとの人格的な交わりを表す、そういう使われ方もずいぶんあります。しかし、今日の箇所では、そうではなくて、「キリストの中に置かれる」という意味だと理解したほうが良いと思います。この17節は「キリストの中に置かれた者は誰でも、新しく創造された者なのだ」というふうに読めば良い。つまり<in christ>なのです。