2023年3月9日(木)

 

  『 どんなことにも感謝を 』

 

「 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。 」

(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16-18節)

キリスト教の幼稚園などで暗唱聖句として選ばれることが多く、愛唱聖句としてあげる大人も多いみことばです。

しかし人生の中で、つらいこと、悲しいことがあると、この聖句を愛唱聖句としてあげることが憚られることもあると思います。

不幸や悲しみの中にあっても、この聖句をあげ続けた方がいます。

ある教会のⅠさんは、クリスチャンの夫と結婚して、クリスチャンホームを築きますが、夫は早めに亡くなり、二人の子どもも病気で相次いで亡くなりました。

Ⅰさんは言います。「夫と私の信念は一緒です。必ず神がおられ、私たちを守って下さる。だから私は今も落胆していないんです。」良い息子と、優しい娘に出会えた。その伴侶も申し分ない人で、孫をよく育ててくれた。

Ⅰさんの中には、あのみことばがありました。

「どんなことにも感謝しなさい。」これは、やみくもに感謝するのではなく、どのような境遇の中にも恵みを見なさいということです。

Ⅰさんの人生の中に、いつもこのみことばがあったから、彼女がこの世を去る時に、地上の一人一人に、感謝の言葉を残すことが出来ました。

 

 

「 今月の本の紹介 」

 

「 バスが来ましたよ 」 (アリス館)

由美村 嬉々 (文)    松本 春野 (絵)

 

ある朝、バスを待つわたしに「バスが来ましたよ」というかわいい声がきこえてきました。その女の子は、目の見えないわたしを支えてバスに乗せてくれました。

その日から毎日「バスが来ましたよ」という声は、わたしを助けてくれました。

やさしさのバトンがつながれていく、本当にあった物語です。

 

次回の予定    4月15日(土)

 

 

 

2023年2月18日(土)

 

  「 信仰の無い自分  」

(マルコによる福音書 9章14-29節)

 

ひどい発作をもつ息子と、その父が出て来ます。

父はイエスさまに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と言います。そんな父に向かってイエスさまは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われます。父は、自分の信仰の無さに気がつき「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と言いました。

信仰の無い自分に気がついた時に初めて、信仰を告白できることがあるのではないでしょうか。

今まで、どうやっても願いがかなわなかった時に、私たちは信じることが出来なくなってしまうことがあります。しかし、そんな自分を認めて、そこからまたイエスさまの力と救いのわざを信じ続けることは大事なことだと思います。

 

「 今月の本の紹介 」

 

『 かみはこんなにくちゃくちゃだけど 』  ヨシタケシンスケ 著  (白泉社)

 

毎日の生活の中でイヤなことがあれば、必ず良いこと、うれしいこともある。

どんな時でも、小さな希望が隠れている。ちょっとだけ視点を変えてみることで、プラス思考で生きることができそう。そんなことを思わされる絵本です。

 

『 親身にぶつかる 』 デビッド・アウグスバーガー 著

( 平野ふみ子・平野英里 訳 )

 

自分と意見が違う人と、どのように向き合っていけばいいのか。

拒否したり、攻撃するのではなくて、補い合ってお互い成長していけたらいいですね。

 

次回の予定    3月9日(木)

 

 

 

2023年1月19日(木

「 一緒に喜んでください 」

(ルカによる福音書 15章1-7節)

 

幼稚園と教会学校の1月の聖句です。

見失った一匹の羊を捜す人のたとえ話をイエスさまが語っています。

いなくなった一匹の羊が見つかった時、その人は友達や近所の人々を呼び集めて

「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言います。

「一緒に喜んでください」という言葉を英文にすると「Rejoice with me」です。

「Rejoice」(喜んでください)という言葉は「天上にある喜び」という意味があります。

羊を持っている人とは、イエスさまのたとえです。天の神様とイエスさまが共に喜んでいるということでしょうか。

幼稚園の子どもたちに、イエスさまはどんな時に喜んで下さるかを聞いてみました。

子どもたちは「やさしくすること」など、いろいろ答えてくれます。

イエスさまは、これをすると喜んで下さるかを、一度止まって考えてみることも大事だということを子どもたちに話しました。

この聖書箇所では、羊の他に、「無くした銀貨」「放蕩息子」の三つのたとえ話が描かれています。

「放蕩息子」のたとえでは、父が兄息子に「弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と言います。

天の神様と一緒に喜ぶことがとても大事であることを、イエスさまは語っているのです。

 

 

「 今月の本の紹介 」

 

『 絵本・ことばのよろこび 』  松居直 著  (日本基督教団出版局)

『 よあけ 』 (福音館書店)

ユリー・シュルヴィッツ 作・画   瀬田貞二 訳

 

以前「信徒の友」で連載していたこの本は、一人の女性から松居直さんへのお便りで始まります。

彼女は小学、中学時代に絵本に夢中になりましたが、やがて大学、OL、結婚と育児をする中で、心の中がからっぽになっていきます。身も心もカラカラになったのに気が付いたのは、子どもを妊娠した時でした。しかし、子どもと共に絵本にまた出会い、輝く世界を取り戻すのです。海草のように世間に流され、自分さえ失うところを、絵本に助けられたと彼女は言います。絵本によって内なることばを取り戻した彼女にとって、それは生きてゆく時の力になっていくと松居さんは書いています。

暗闇の中で輝く「命のことば」を下さった主に感謝します。

 

『 よあけ 』

静寂の中に沈む深い闇、山の湖の岸に老人とその孫が眠っている。やがて二人は小舟で湖へこぎ出す。夜明けの一瞬、朝の光が山と水を緑に染める。それだけのシンプルなストーリーですが、中国の「漁翁」という漢詩をモチーフにして、作者のシュルヴィッツは、美しい水彩画の世界を創り出しています。

松居さんが、声に出して読むのが大好きだという絵本のひとつです。

 

次回の予定    2月18日(土)

 

 

 

 

2022年12月17日(土)

 

「 さあ、ベツレヘムへ行こう 」

(ルカによる福音書 2章8-15節)

 

これは、幼稚園の12月の聖句です。

天使から、救い主の誕生の知らせを聞いた羊飼いたちが言った言葉です。

英文に直すと 「Let us go over to Bethlehem」になります。

「over」という副詞が入っていますが、これには大きな意味が込められています。

「over」(越えて行く)という言葉ですが、何を越えて行くのでしょう。

当時、羊飼いたちは貧しく、人の羊を預かり、その世話をして暮らしていました。

彼らは、人々に差別されていて、ベツレヘムの町の中に入ったことはありませんでした。

野宿をして羊の群れの番をしていた羊飼いたちは、天使たちにイエスさまの誕生を告げられると、今まで越えたことのなかった壁を乗り越えて、救い主に会いに行きます。

人々との間に存在していた深い淵を越えて、彼らはベツレヘムへ向かったのです。

そればかりではなく、人々にその嬉しい知らせを告げて回り、町の人たちとクリスマスの喜びをわかちあったのでした。

 

 

「 今月の本の紹介 」

 

『 絵本・ことばのよろこび 』  松居直 著  (日本基督教団出版局)

『 シモンとクリスマスねこ 』 (福音館書店)

レギーネ・シントラー 文   下田尾治郎 訳

 

 

前回に引き続いて、今日も松居直さんのことばです。

クリスマスの贈り物を考える季節、子どもたちに楽しい「ことば」を贈り物として伝えられたら、それは、いつまでも忘れられぬクリスマスになることでしょう。

「シモンとクリスマスねこ」は、待降節を迎えた後の12月1日から24日のクリスマスの前の晩まで、毎晩「ことば」の贈り物として1話ずつ物語を語ります。

小さなシモンは、クリスマスが来るまでの24の数をじょうずに数えることができません。

そこでお父さんは、ねこのフローラのしっぽの縞の数を、毎日1つずつ数えてしるしをつけていくと、全部数え終わった時にクリスマスが来ることを教えてくれたのです。

24のお話の中には犬や羊、イースターうさぎやねずみなど、いろいろな生き物たちも登場し、楽しく、心温まるお話がいっぱいです。クリスマスを待つ子どもたちの心に喜びを与えてくれるでしょう。

 

 

次回の予定    1月19日(木)

 

 

 

2022年 11月17日(木)

 

「 地の果てに至るまで 」

「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

( 使徒言行録 1章6-8節 )

 

エルサレムから始まった福音が、地中海世界から全世界へと広がっていきます。

その時々の権力や、土着の宗教などとの対立が起こりますが、日本でもやはりそうだったのではないかと思います。

イエスさまが天に上げられる前に、最後に言われた「地の果て」という言葉で思い出す映画があります。

『喜びも悲しみも幾年月』という、若い灯台守の夫婦を描いた映画です。引越しを終えて、「またこんな地の果てみたいなところに来た」という妻に、夫は「平地の真ん中に立っている灯台なんて無い。どこだって地の果てさ」と言います。これは良いセリフですね。

また、北陸に来たトマス・ウイン宣教師も「ここは地の果てか」と同じ意味合いの言葉を言ったということです。

福音の光で日々の歩みを照らして行く働きは、どこだって地の果て、イエスさまが言われたのはそのようなことではないかと思います。福音が初めて新たに語られるところは、どこでも地の果てなのです。

 

「 今月の本の紹介 」

 

『 絵本・ことばのよろこび 』  松居直 著  (日本基督教団出版局)

『 三びきのやぎの がらがらどん 』 (福音館書店)

マーシャ・ブラウン 絵   せたていじ 訳

 

先日亡くなられた松居直さんの文を紹介しました。

『サラダ記念日』で有名な歌人の俵万智さんは、2~3歳の頃『三びきのやぎのがらがらどん』を一日に幾度もお母さんに読んでもらい、3歳の時には、まだ文字も読めなかったのに、『がらがらどん』の文章を一言半句違わないように語ったということです。

松居さんは「子どもはことばを覚えるのではなく、食べるのだ」と言います。

おいしいことばを心ゆくまでたっぷりと食べ、心の底から喜びを感じた子どもは、いつか無意識のうちに、そのことばを紡ぎだします。この子たちはことばを聞く喜び、見えないものを見る喜びを知っています。

「教会は子どもの心にはいるおいしいことばを、子どもたちに食べさせているでしょうか」

やがて喜びのことばをつむぎだす子どもたちを、教会は育てなければなりません、と松居さんは語ります。

 

次回の予定     12月17日(土)

 

 

 

2022年 10月15日(土)

 

  「 退却する場所 」

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

( マタイによる福音書 11章28節 )

 

「リトリート」という英語の言葉があります。日本語に直すと「修養会」、カトリックでは「黙想会」とも言い、ミッションスクールなどで使われています。

これは、もともとは軍隊用語で「退却」とか「前線から離脱する」という意味です。

どうしてこの「リトリート」という言葉がキリスト教で使われるようになったのでしょう。

今日のみことばでイエスさまは「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われます。私たちは、日常の生活や仕事などから退却して、魂の養いのために日曜日ごとに教会に戻って来ます。

朝の連続ドラマを見ていて、おやっと思った場面がありました。主人公の友だちのやんちゃな男の子が教会へ行き、お祈りをしていました。それで、自分が子どもの頃、教会学校で出会った男の子のことを思い出しました。手の付けようの無いようなやんちゃなその男の子を、お母さんは、良い子にしてもらうように教会に行かせていました。

また、中学時代は、技術の教室が問題児のたまり場になっていたのですが、そこにいつも来ていたやんちゃで暴力的な少年も教会学校でよく一緒になりました。

彼にとって教会は「リトリート」、退却しても良い場所だったのではないでしょうか。

私たちも、イエスさまのもとに退却して、魂の安らぎを得ることは大切なことではないかと思います。

 

「 今月の本の紹介 」

 

『 野ネズミとドングリ 』  島田卓哉著  (東京大学出版局)

 

まるで絵本か童話のようなかわいいタイトルですが、実際には、気が遠くなるような研究について書かれています。ドングリにはタンニンという毒が含まれているのに、野ネズミはどうしてドングリを食べることが出来るのか。そんな自然の中にある不思議を解明するために、数多くのドングリを一つ一つ調べたり、野ネズミの生態調査や森林の生態系などについても詳しく研究したことが書かれている本です。自然の中には、まだまだ知られていないことが沢山あり、それを長い時間と手間をかけて調べている人がいるのはすごいことです。

かしわぎまきこさんがイラストを描かれていて、かわいい絵にほっこりします。

 

次回の予定     11月17日(木)

 

 

 

2022年 9月15日(木)

  「 終わりの言葉 」

 

「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」

( ルカによる福音書 24章50節~53節 )

 

これはルカによる福音書の最後の、イエスさまが天に上げられた時の場面です。

一つの書物がどんな言葉で終わるかは大事なことです。日本語もギリシャ語も、弟子たちが「神をほめたたえていた」という言葉で終わっています。

50節の、イエスさまが「祝福された」という言葉と、この「ほめたたえていた」は、原文では同じ言葉になっていて、元の意味は「良い言葉を語る」ということです。

これを書いたルカの意図は、イエスさまと弟子がどちらも「神様に向かって良い言葉を語った」という意味の同じ言葉を使ったことを書き残したかったのではないかと思います。ここから教会の出来事が始まり、使徒言行録へとつながっていくのです。

イエスさまから良い言葉を聞いた弟子たちが、良い言葉を語るようになっていく。

それは印象的な終わり方です。

 

 

「 今月の本の紹介 」

 

『 うろんな客 』  エドワード・ゴーリー著

柴田元幸 訳  ( 河出書房新社 )

 

ある夜、妙な姿の客が突然現れて、その日から一家の生活は振り回されていきます。

本は破られ、タオルは隠され、彼がドアのそばの床に横たわるので、邪魔になって仕方ありません。この「うろんな客」の正体とはいったい何でしょう?

独特な文章とモノクロのイラストが特徴の、大人のためのユニークな絵本です。

 

 

次回の予定     10月15日(土)

 

 

2022年 8月6日(土)

 

  「 神は真実な方です 」

( コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章9節 )

 

「信仰」という時、「私が神様を信じている」というように、自分の思いや心のことをいうことが多いのではないかと思いますが、聖書は「キリストの信仰」ということを言っています。これは、「キリストの真実」といいかえることも出来ます。

私たちが信仰をもっているから、恵みを与えられたのではなく、キリストの真実によって与えられているのです。

若い時、熱心に教会に来ていた人でも、人生の最後に向かっていく時、聖書や祈りのこと、教会のことも忘れてしまうことがあります。しかし、最後に何も残らないのではなく、神様はこの人を捕らえ、最後まで愛し、ご自分のものとして下さるのです。

「主われを愛す」という讃美歌がありますが、「われ主を愛す」という信仰の片面がやがて消えていったとしても、「主われを愛す」は最後まで残り続けます。

消え去ったあとにも残っていくものを大事にしていきたいです。

 

「 今月の本の紹介 」

 

『 23分間の奇跡 』  ジェームズ・クラベル著

青島幸男訳    ( 集英社文庫 )

 

「みなさん、おはよう。わたしがきょうから、みんなの先生ですよ」と新しい先生が言いました。戦争に負けた国の、ある教室で、緊張している子どもたちの前にその女性教師は現れました。そして、わずか23分の間に、彼女と子どもたちに奇跡が起こります。

先生は子どもたちに何を話し、何を教え、子どもたちは何を学んだのでしょう。

子どもは柔軟で、すぐに新しいことを学んでいきます。大人の言葉は、子どもに大きな影響を与え、その生き方を変えてしまうことも出来ます。

短いけれど、考えさせられる本です。

 

次回の予定     9月15日(木)

 

 

2022年 7月14日(木)

「 どん底で聴くみことば 」

「 今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろうと言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 」

(ルカによる福音書 22章54-62節)

 

前回のオリーブの会では、パウロが「どん底」を経験した伝道者であったという話をしましたが、今日は、ペトロも「どん底」を経験した人であるということを話したいと思います。

最後の晩餐の時、弟子たちの中で、誰がいちばん偉いだろうかという議論が起こりました。

ペトロはイエスさまの一番弟子だったので、余裕をもってその場を見ていたのではないかと思いますが、イエスさまはその時、ペトロの危うさを知っていました。

ペトロはイエスさまに「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける・・」と言われ、むきになって、イエスさまとご一緒だったら「牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言い放ちます。そんなペトロにイエスさまは「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われ、そのことは実現するのです。

イエスさまを裏切ってしまったペトロは、主が言われた言葉を思い出して激しく泣きます。その時のイエスさまの言葉を、ペトロは思い出したというだけではなく、今まさにこの場で語られているものとして聴いたのです。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

これまでのペトロはおそらく、一番弟子である自分の信仰に自信を持っており、自分はそこそこ頑張っている、いいせんいっていると思っていたかもしれません。

しかし今、「どん底」にいる時だからこそ彼は、励ましと愛に満ちた主のみことばを、その心に激しく、強く受け止めることが出来たのではないでしょうか。

自分は「そこそこやっている」という意識は、みことばを聞く上では、あまり良いことではありません。

パウロのように、ペトロのように「どん底」である自分を意識した時に、みことばは恵みとなっていくのだと思います。

 

「 今月の本の紹介 」

 

『 わたしと小鳥とすずと 』 金子みすず童話集より

( JULA出版局 )

 

「 星とたんぽぽ 」

 

青いお空のそこふかく、 海の小石のそのように、

 

夜がくるまでしずんでる、  昼のお星はめにみえぬ。

 

見えぬけれどもあるんだよ、  見えぬものでもあるんだよ。

 

 

ちってすがれたたんぽぽの、  かわらのすきに、だァまって、

 

春のくるまでかくれてる、  つよいその根はめにみえぬ。

 

見えぬけれどもあるんだよ、  見えぬものでもあるんだよ。

 

金子みすずの詩は、小さいもの、弱いもの、名も無いもの、見えないものに目を止め、愛を注いで歌っています。ある人はこれを、みすずの心のいのりだと言っています。

 

 

「 はちとかみさま 」

 

はちはお花のなかに、 お花はお庭のなかに、

 

お庭は土べいのなかに、 土べいは町のなかに、

 

町は日本のなかに、 日本は世界のなかに、

 

世界は神さまのなかに。

 

そうして、そうして、神さまは、小ちゃなはちのなかに。

 

小さなものたちを見つめるみすずの心の目には、それらのものを造られた神さまが見えていたのかも知れません。

 

次回の予定    8月6日(土)

 

 

 

 

 

2022年 5月19日(木)

「 どん底からの伝道者 」

「 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば 」

(ローマの信徒への手紙 5章9-10節)

「徹底」という言葉は、良い意味で使われることが多いですが、逆の意味で「底に徹する」「どん底」というように使われることもあります。

パウロは、自分がキリストの「敵であったとき」と言っていますが、これはパウロが「どん底」だった人であるといってもいいかも知れません。

石川県のK教会にはステンドグラスがあり、そこに、夜空に輝く大きな星が描かれています。これはクリスマスの星ではなく、旧陸軍の憲兵隊の帽子に付いていたマークの星だということです。

その頃、憲兵だったkさんは教会に行き、危険思想が語られていないか、毎週の礼拝で聞き耳を立てていました。説教を聴くうちにいつか、みことばが  kさんの心を揺るがすようになり、やがて信仰をもって伝道者になったということです。

伝道者としてのk先生は、静かなおとなしい方であったということですが、その言葉というより、生き方が徹底したキリスト者であったと思うのです。

憲兵という、キリストとは全く敵対した立場であったk先生は「どん底」から這い上がってきたキリスト者と言えるのではないでしょうか。

同じようにキリスト者を迫害してきたパウロと共通したものがあるかも知れません。

「どん底」にある者をも、イエスさまは愛によって救い上げて下さるのです。

 

「 今月の本の紹介 」

「 人生が変わる紙片付け! 」  ダイヤモンド社

( 著 石阪 京子 )

家の片付けに頭を悩ませている人は多いと思いますが、その中でも「紙」の片付けについて教えてくれる本です。「紙」ということを意識するしないに関わらず「紙」は何よりも無意識に溜まっていくものかも知れません。新聞、チラシ、葉書、プリント類、レシート、包装紙等々まだまだあります。そんな紙のごみをすっきり片付けるための知恵が詰まった1冊です。

 

次回の予定    6月18日(土)

 

 ナンジャモンジャの花

 

 

2022年 4月23日(木)

「 ペトロの見た幻 」

「 神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 」

(使徒言行録 10章34-35節)

 

ペトロが、ローマ人のコルネリウスの家で福音を語った時の、最初の言葉です。

ユダヤ人であるペトロは、それまでは異邦人に対し、あまり良い印象を持っていませんでした。そんなペトロは、ある幻を見ます。天から、大きな布のような入れ物が下りて来て、その中には、獣や鳥などが入っており、「 これをほふって食べなさい 」という声がしました。ペトロは、「 清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。 」と言います。すると、「 神が清めた物を清くないなどと、言ってはならない。 」という声が聞こえます。そんなことが三度ありました。

ペトロはその後 「 神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 」と語りました。そして、「 神は人を分け隔てなさらない。 」とコルネリウスや大勢の人たちに言います。

自分の思いで、人のことをとやかく言うのではなく、「 神様は、愛において、人を分け隔てなさらない 」ということ。「 すべての人が神様の愛のうちにある 」ことを、私たちは常に忘れてはならないと思います。

「 今月の本の紹介 」

今日は、2冊の本を紹介しました。

 

『 55歳からのキリスト教入門 』 小島誠志 ( 日本キリスト教出版局 )

第七章 「安息日と礼拝」から

「 生きることは労苦であります。私たちは生きて労働して疲れており、他者の罪によって傷ついており、自らの罪によって他者を傷つけ自ら深く傷ついています。だから安息日を備え私たちを待っていてくださる救い主のもとに帰って行くのです。 」

最近の自分の心に、とても迫ってくる言葉でした。

 

『 74歳、ないのはお金だけ。あとは全部そろってる 』  牧師 ミツコ

( すばる舎 )

お金が無くても、 日々の暮らしに満足し、感謝して生きている牧師ミツコさん。

お金の使い方や健康管理、人間関係での心の持ちようなど、これまでの牧師の経験や信仰からくる、その生き方に共感できることが多くありました。

日々感謝して、こんなに前向きに豊かな気持ちで年を重ねていけたら、とても幸せなことだと思います。

 

次回の予定    5月19日(木)

 

 

 

2022年 2月26日(土)

「 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。 」

(詩編 121―2)

幼稚園の2022年度の年間聖句について、今 考えているところです。

毎月の聖句を、英文とも照らし合わせながら読んでいます。

その中に 「子供たちをわたしのところに来させなさい。」というイエスさまの御言葉があります。子どもを引っ張って連れて来るのではなく、その子の心に働きかけて、行きたいと思わせる。それは、キリスト教教育の原点だと思います。

「探しなさい。そうすれば、見つかる。」 これは、無くしたものを捜すのではなく、人生で大切なものを求めて探すということだということが、英文も一緒に読むことでわかってきます。

子どもたちは、いろんな質問をしてきます。「平和ってなに?」 「イエスさまとかみさまの関係ってなに?」そんな質問のひとつひとつに、はぐらかさずに答えることが大事だと思っています。

新しい一年も、子どもたちと共にみことばを読んでいくことを考えると楽しくなります。

 

「 今月の本の紹介 」

『 ブルーノ 』 Fukase作  ( 福音館書店 )

この絵本は、4人組バンド「 SEKAI NO OWARI 」のボーカルであるFukaseさんが初めて描いた絵本です。

平和な王国ブルーノを、ある日嵐が襲い、多くの命が失われてしまいました。

王様を信じて助けを待つタルカスと、村人を救うために、その方法を考え抜いていた王様でしたが、お互いの思いを分かり合うことが出来ず、悲しい結果になってしまいます。

この絵本は表と裏の両サイドが表紙になっていて、タルカスと王様の双方の視点で物語が進んでいきます。

「たとえ理解に苦しむ状況でも、相手の行動の背景を知ることで、相手を許すこと、そして自分を救うきっかけになる」というFukaseさんの思いが、この本を読む人の心に伝わるといいです。

 

次回の予定     3月10日(木)

 

 

2022年1月20日(木)

「 イエスさまがとなりに  」

「子よ、元気を出しなさい。」

( マタイによる福音書9章2節 )

 

幼稚園の礼拝の時は、子どもたちに問いかけて、思ったことを話してもらい、キャッチボールをするようにお話をしていきます。

「元気が出る時」「元気が出ない時はどんな時?」と子どもたちに聞いてみました。

「元気が出ない時」という問いかけには、子どもたちから あまり声が出なかったので、先生に聞いてみると「悲しい時には 元気が出ません」という言葉が返って来ました。

それでは、一緒に悲しんだり、泣いてくれる人がそばにいたらどうですか?というと、先生の顔はパッと明るくなり、「そんな人がそばにいてくれたら嬉しいです」と言われました。

隣りに誰もいなくて、一人ぼっちの時は元気が出ません。でも、イエスさまはいつも隣りにいてくれます。だから、元気を出しなさい。イエスさまの命令には、いつも約束が共にあります。

「悲しむ人々は幸いである」とイエスさまは言われます。その人たちは慰められることを約束されているからです。

子どもたちと一緒に、言葉を交わしながら、神様のことをお話していく。それは、キリスト教幼稚園の楽しいところです。

 

今月の本の紹介

 

「 うちのねこ 」  高橋和枝   ( アリス館 )

 

はる  のらねこだったねこが ある日 うちへやってきた。

ソファのしたにいて でてこない。

ねことくらしているのに ねことくらしていないみたい。

ちかづくと かみついたり ひっかいたり。

そして なつ あき ふゆがきたけど

ほんとうは ずっとそとで のらねこを していたかったのかな。

ゆっくり ゆっくり 「うちのねこ」になるまでの おはなしです。

 

 

次回の予定    2月26日(土)

 

 

 

2021年 12月4日(土)

「 恵みを分かち合う 」

 

「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」

( ルカによる福音書2章8節~20節 )

 

クリスマスイヴというのは、12月24日の真夜中から夜明け前のことで、イエスさまがお生まれになった時のことです。

讃美歌267番の3節に「人はみな眠り 気づかぬまに めぐみの賜物 天よりくる。」という詩があります。

人々が寝静まった夜更け、羊の群れの番をしていた羊飼いに天使たちが、救い主がお生まれになったことを知らせました。身分の低い羊飼いたちは、普段は町の中に入ったことがありませんでしたが、彼らは「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」とベツレヘムへ行きます。イエスさまを探し当てた羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせます。これがキャロリングの始まりです。

喜びの出来事をみんなに知らせて恵みを分かち合う。今もその時と同じように、子どもたちはページェントやキャロリングで、みんなにクリスマスの恵みと喜びを伝えているのです。

 

今日は、クリスマスの祝会の歌の練習をしました。教会学校の子どもたちの劇で歌われる讃美歌やオリーブの会の出し物のキャロルをパートに分かれて歌いました。

なかなかみんなで練習する時間が無いので、ほとんどぶっつけ本番のようなものですが、毎年きれいなハーモニーになります。子どもたちの劇も楽しみです。

大人にとっても 子どもたちにとっても 喜びでいっぱいのクリスマスとなりますように!

 

次回の予定   1月20日(木)

 

 

2021年 9月16日(木)

「 マルタとマリア 」

「必要なことはただ一つだけである。」

( ルカによる福音書 10章38~42節 )

 

この物語には、マルタとマリアという二人の対照的な女性が出て来ます。

マルタは姉でマリアは妹であるとよく言われていますが、実はそうではなく、どちらが姉であるということははっきりしていないようです。この時代、家に客を迎え入れるのは男性がすることで、女性が客を招くことはあまりありませんでした。また、ラビと呼ばれる教師の話を聞くことが出来るのも男性だけでした。

イエスさまの足もとでその話に聞き入っていたマリアと、もてなしのために忙しく立ち働くマルタ。イラ立つマルタは、マリアが手伝うようにとイエスさまに言います。

そんなマルタをイエスさまは「マルタ、マルタ」と二度もその名を呼び「必要なことはただ一つ」だということをあたたかいまなざしで伝えます。

私たちもマルタのように「多くのことに思い悩み、心を乱し」必要なことを見失ってしまうことがあるのはないでしょうか。おもてなしのために献身的にせわしく立ち働き、マリアにイラ立つマルタの姿に共感を覚える人も多いのではないかと思います。そんなマルタを通して、イエスさまはあたたかいまなざしで私たちのことをも招いて下さっています。

 

今月の本の紹介

 

今日は、「JAF  Ⅿate 」8、9月号より  宮下 奈都さんの「生まれてくるもの」という文章を紹介させて頂きました。

犬と散歩をして、小学校の校庭のそばを通った時のこと、一人の男の子が歌を口ずさみ始めると、そばにいた男の子たちも小さい声で、嬉しそうに同じ歌を歌い始めました。

コロナのせいで、大きな声を出さないよう気をつけていた子どもたちでしたが、一人の子の楽しさや喜びが歌と一緒に広がり、宮下さんも幸せな気持ちになったそうです。

また、犬を飼う時に心配したのは、忙しくなりすぎて三人の子どもたちにかける時間や愛情が少なくなるのではないかということ。しかし、心配は無用でした。犬はとてもかわいくて、犬への愛情が増えた分、子どもたちに向ける愛情も濃くなったように思われたそうです。

犬の分、愛情が減るのではなく、逆に増えていく。喜びとか、楽しみとか、幸せみたいなものは限りなく、どんどん生まれてきて、人生を輝かせてくれる。

説教の中で、いつも牧師が語られる「分けると増える」のメッセージをこの文章の中に発見し嬉しくなりました。

 

教会のハルカちゃん

 

2021年 8月28日(土)

「 神様が造られた自然の中で 」

 

「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」            ( 創世記 1章28節 )

先日、幼稚園の年長さんたちは、奥越高原牧場で、牛のえさやりや模擬搾乳を体験したり、夜は花火大会をして、楽しい一日を過ごしました。自分たちで食事を作り、カレーライスやサラダの中には自分たちが育てたきゅうりやパプリカなどの野菜が入っていました。

創世記の「地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」という言葉の意味は、人間が自分勝手に支配するのではなく、神様のみこころを知り、それにかなうように生き物たちの世話をするということです。

子どもたちは今回、牛の世話をしましたが、日頃から園で飼っているうさぎをかわいがったり、野菜を育てたりと、神様のみこころにかなうことをしています。

自然界に対する人間の姿勢は、まず神様のみこころを知ることが大事であるということを聖書では言っています。

のびのびと過ごす楽しい一日の中で、子どもたちは素晴らしい笑顔でした。

 

今月の本の紹介

 

『 マララのまほうのえんぴつ 』  作  マララ・ユスフザイ

( ポプラ社 )

 

今回は、史上最年少でノーベル平和賞を受賞したマララさんの自伝絵本を紹介させて頂きました。子どもの頃マララさんは、テレビアニメに出てくる、まほうのえんぴつが欲しくてたまりませんでした。そのえんぴつで何かを書くと、みんな本物になるのです。

やがてその地域で、女の子たちが学校に行くこと、教育を受けることが禁じられるようになりました。マララさんは「誰か」ではなくて「自分」が声をあげることによって、多くの人にそれを伝え、世の中を変えていくことが出来るということに気がつきました。

まほうのえんぴつは、自分の言葉と自分の行動の中にある。そのことに気づいたマララさんは、すべての子どもたちの学ぶ権利と未来のために、声を上げ続けるのです。

 

次回の予定    9月16日(木)

 

 

2021年 6月12日(土)

「 イエスさまのもとに戻って行く 」

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

( ルカによる福音書 17章19節 )

 

教会学校と幼稚園の5月の聖句は 「 あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」というマルコによる福音書5章34節の御言葉でした。

長い間、病いに苦しんでいた女にイエスさまがかけられた言葉です。1ヶ月の間、子どもたちと話していて気がついたことがあります。「安心して行きなさい。」というイエスさまの言葉には、「また戻って来なさい」という、言葉にはなっていない意味が秘められているということです。「また、ここに戻って来なさい。そして、ここからまた 出かけて行きなさい。」というイエスさまの言葉が込められているのです。

今日の聖書で、イエスさまは、10人の重い皮膚病の人たちに、「祭司たちのところへ行って体を見せなさい」と言われました。 そこへ行く途中で彼らは病いが癒され、清められます。イエスさまの言葉を信じて清くされたのは10人とも同じでしたが、そのうちの1人のサマリア人だけが大声で賛美しながら戻ってきました。心から、感謝と喜びにあふれて、イエスさまのもとに戻ってきたのです。それはとても大事なことです。その人の信仰が、そこに現れています。「もう一度戻って来なさい」そして、そこから「立ち上がって行きなさい」とイエスさまは私たちにも言われます。

日曜日ごとに、神様のもとへ戻ってきて、そこからまた自分の生活や仕事や、大変な日々の暮らしの中へ帰って行く。「安心して行きなさい」とイエスさまは送り出して下さっているのです。

 

今日は、ゴスペルソングを2曲 紹介して頂きました。

アメリカのTonex ( トーネイ )の歌です。

 

1曲めは 「 Make me  Over 」 です。

「 神様、僕を 生まれ変わらせて下さい 」という言葉で、自分の罪と悔い改めを歌った、しっとりとした穏やかな曲です。

 

もう1曲は 「 ALIVE 」 ( 生きている ) という曲です。

先ほどの歌とは、打って変わって、テンポが速いにぎやかな曲で、十字架にかけられたイエスさまが、墓の中からよみがえられて 「 生きている! 」ということがテーマになっています。

 

次回の予定          7月29日(木)

 

 

2021年 5月20日(木)

 

「 名前を呼んで下さる神様 」

 

「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

( イザヤ書 43章1節 )

 

幼児さんびかに「ひとりひとりの名をよんで」という歌があります。

幼稚園のクラス礼拝の時に、名前を呼ばれた時どうだったかを聞いてみると、

「うれしい」「たのしい」「かなしい」など、呼び方によっても違うことがわかります。

「天職」という言葉がありますが、元は「Calling」という聖書からきた言葉です。

神様から呼ばれて、○○しなさいと言われ就く仕事ということです。

神様は、私たち一人一人の名を呼んで下さっています。

「召命」というのは、神様がその人の生涯を引き受けて御自分のものとされることです。

呼ばれることを喜びとされることは大事なことです。

子どもたちは、呼ばれたら返事をします。呼ばれたら返事をして、一日を過ごしていくことは、子どもも、大人にとっても大事なことです。

 

今月の本の紹介

 

『 おもいのまんま 』 ひろはまかずとし墨彩画集 (河出書房新社)

 

「 まわり道したから あなたに逢えた 」

 

「 安心して下さい。あなたにとって これが最後の山です 」

 

「 どんな時でも よかったと思う事にしています。 そうすると 本当に よかったという結果になるから 不思議です。 」

 

どの言葉も、疲れた時や辛い時に、心を少し励ましてくれたり、癒してくれるような言葉です。この本の中でひろはまさんが語っているのは、無理をしないで、ありのままの自分でいること。たいへんな時でも、乗り越えたすぐそこには、また良いことがあるということ。まず自分が幸せでいること。など、大切なことが、優しい言葉と、素朴で少し不思議な絵で描かれています。

どの絵の中にも必ず、小さな天使が飛んでいて、ひろはまさんの世界観のようなものを感じさせてくれます。

 

次回の予定      6月12日(土)