聖書:出エジプト記20章1~3節・ヨハネによる福音書15章16節

説教:佐藤 誠司 牧師

「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」(出エジプト記20章2~3節)

「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。」(ヨハネによる福音書15章16節)

 

私たちが日曜日の礼拝で十戒を学び始めて、今日が4回目になります。十の戒めと書いて十戒ですから、初めは一つの戒めを1回完結で取り上げたら、全部で10回で終わるだろうと、高をくくっていましたが、いざ始めてみると、どうしてどうして、そんな甘いものでないことが、すぐに分かりました。語られていることが深いのです。これまでの3回のお話の内、初回は十戒だけでなく、律法の心についてお話をしました。そして2回目から十戒の前文と第一の戒めに入りましたが、これがなかなか終わりません。終わることが出来ないのです。どうしてでしょうか。それは、この十戒の前文と第一の戒めこそが、十戒の中心だからです。その部分を、今一度読んでみたいと思います。

「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」

この前文と第一戒は、言うなれば神様の自己紹介です。神様がイスラエルの人々にご自身を現わされた。これが十戒の土台です。土台ですから、私たちが十戒を読み進めるたびに、帰って来るべきなのは、ここなのです。神様はここで、こう語りかけておられます。

「私は主、あなたの神」

この「私は主」というのは、ふんぞり返って「私はお前らの主人なのだ」と言っておられるのではない。あなたの救い主、あなたの慰め主は私なのだと、懇ろに語りかけている。そういう言葉です。旧約聖書には神様が改まった口調で「私は主」と言っておられる場面がいくつもありますが、これらも「私が主なんだから、黙って聞け」と言っておられるのではない。「私があなたがたを選んだのだ」という、救いを告げる表現なのです。

ここで「あなた」と呼ばれているのは、イスラエルの民です。民ですから、複数の人々がいるわけですが、神様は敢えて彼らを「あなた」という二人称単数で呼んでおられる。これは「あなたと私」の関係の中にイスラエルの人々を引っ張り込んでおられる、ということです。このイスラエル民族、ユダヤ民族と言っても良いのですが、この人々の存在は古代オリエントの歴史の中で、一つの大きな謎でありました。というのは、周りの民族は皆、偶像の神々を拝んでいる。偶像礼拝をしているのです。そんな中で、イスラエルの人々だけが偶像に走ることなく、唯一の神を拝んでいる。しかも、契約という人格的な関係の中で礼拝をしている。どうしてこのようなことになったのか。それが大きな謎だったのです。

そこで、この謎を多くの学者が解明しようと調べたのですが、事の仔細は分からなかった。ただ、分かったのは、これは人間の側からの働きかけによるのではなく、まず神がご自身を現わして、語りかけて、イスラエルの人々をお選びになった。それは動かせない事実であろうと、かろうじて、そこまでが分かったのです。この選びの有様を語っているのが、申命記の7章6節以下の言葉です。少し長いのですが、大切な箇所ですので、読んでみたいと思います。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、地上にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。あなたがたがどの民よりも数が多かったから、主があなたがたに心引かれて選んだのではない。むしろ、あなたがたは、どの民よりも少なかった。ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに、また、あなたがたの先祖に誓われた誓いを守るために、主は力強い手によってあなたがたを導き出し、奴隷の家、エジプトの王ファラオの手から、あなたがたを贖い出したのである。」

これは神の選びというものを、ほぼ余すところなく伝えている御言葉です。神様はイスラエルの人々が強く見どころのある民族だったから選ばれたのではない。「導き出す」という言葉が使われています。これは単なる選びでもなければ、ただの導きでもない。主なる神様はイスラエルの人々を奴隷の状態から導き出した。引っこ抜いたのです。これが神の選びです。

ですから、神に選ばれた人々を待っていたのは、平穏な生活ではなく、旅でした。物見遊山の旅ではありません。荒れ野の旅が待ち受けていたのです。しかし、これは当てのない放浪の旅ではない。神に選ばれて、約束の地に向かう旅です。十戒を受けた神の民は、神に選ばれたという事実が、その存在と歩みの根拠になっているのです。

この存在と歩みを続けるということは、厳しい戦いでもあります。だから、荒れ野の旅は試練の連続でした。しかも、これは信仰の試練でした。試練に遭うたびに、信仰がぐらついて、試されたのです。その試練の代表が「疑い」の心でした。自分たちが神に選ばれていることへの疑い、自分たちを選んでくださった神の御心への疑いが、拭い難いものとして、生まれてしまうのです。ですから、「私のほかに神があってはならない」という戒めが大事になってくる。あなたは自分が選ばれているという事実に徹しなさいということです。自分が選ばれているという事実に、ちゃんと根を降ろして生きなさいということです。

ここで、神の選びについて、私たちが弁えておかねばならないことが、一つ、あります。それは、選びと愛は一つに重なるということです。先ほどご紹介をした申命記7章の御言葉に「ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに神はあなたがたを選ばれた」という言葉がありました。神様がイスラエルの人々を選ばれたのは、気まぐれで選んだのではない。愛のゆえに選ばれた。神の選びの背後には、神の愛があったのです。ここは、やはり押さえておくべき点です。

そして、この「愛」を蝶番にして、私たち人間が神様を選ぶということが、起ってくるのだと聖書は語っているのです。そうお聞きになって、私たち人間が神様を選ぶなんてことが、果たして許されるのかと、怪訝に思われたかもしれません。神様がイスラエルの人々を選んだ。私たちキリスト者を選んだというのなら、分かる。しかし、私たち人間が神様を選ぶというのは合点がいかない。第一、それは神への冒涜ではないかと思われたかもしれません。しかし、これは起こり得ることであり、またある意味、起らねばならないことでもあるのです。さあ、私たちが神を選ぶとは、いったい、どういうことなのでしょうか。

十戒と並んでイスラエルの人々が重んじる御言葉があります。それは「シェマー」と呼ばれる申命記6章4節以下の御言葉です。

「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」

「聞け、イスラエルよ」という言葉で始まる有名な御言葉です。この「聞け」というのがヘブライ語で「シェマー」という。そこから、この御言葉は「シェマー」と呼ばれて、ユダヤ教の礼拝の冒頭で皆で唱えた御言葉です。この御言葉がハッキリと伝えているのは、「あなたの神、主を愛しなさい」ということです。この「主を愛する」というのが、じつは、私たち人間が神様を選ぶことの中身なのです。

どういうことかと言いますと、これは聖書でしばしば起こることなのですが、同じ言葉であっても、それが神様について言われる場合と、人間について言われる場合とでは、意味が違ってくることがあるのです。一つ、例を挙げますと、「試す」という言葉。人間が神様を試すことは固く禁じられています。それに対して、神様が人間を試すのは、「鍛える」という意味があって、これは時に神様が、御自分が選んだ人間になさることです。その典型がアブラハムが愛する息子イサクを犠牲にささげる物語です。神様は、あの出来事によってアブラハムの信仰を鍛え上げておられるのです。

「選ぶ」という行為も、これとよく似ています。神様が人間をお選びになる場合と、人間が神様を選ぶという場合とでは、同じ「選び」でも意味が違ってくるのです。神様が私たちを選ばれることの背後には、豊かな慈しみの愛がある。これは私たちにも、よく分かることです。それに対して、私たち人間が神様を選ぶというのは、どういうことなのか。それは異教の神々、偶像の神々の中で、私たちを奴隷身分から解放してくださった神様のみを礼拝する事、すなわち、十戒の心に忠実に生きることです。ここで生きてくるのが、十戒のあの言葉です。

「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」

この御言葉に忠実に生きること。それが私たち人間が神様を選ぶことです。もちろん、この選びは、えり好みで選ぶのではない。神様を愛する愛が動機となっている選びです。ですから、この愛は時に戦いを生み出します。神の民イスラエルの歴史が、その戦いを鮮やかに示しています。イスラエルの先祖の人々は、最初、まことの神を知らなかったのですが、神様がアブラハムを選ばれた。そこから、この民の歴史が始まりました。神様がアブラハムにお求めになったのは、他の神々ではなく、私を選びなさいということでした。ですから、神の民イスラエルの歴史は、神に選ばれた民の歴史であると同時に、まことに雑多な神々がいるこの地上世界で、まことの神だけを選んで生きる戦いの歴史でもあったのです。それは日本という異教文化の国でキリスト者として生きる私たちの戦いにも通じます。

今の日本社会は、神々が林立するアニミズム社会です。昔からの老舗の神々がいる一方で、新人の神々が次から次へ登場する国です。人間と神との違いが曖昧な社会と言っても良い。違いが曖昧だから、人間が容易に神になるのです。お国のために戦って死んだ人を神として祭ることが、何の違和感もなく行われた国です。こういう神ならぬものが神々として登場するこの国で、まことの神様を選び抜いて信仰を貫くことは、もうそれ自体が戦いになるでしょう。

この国で神を選ぶということは、神様第一を貫くことであり、神の主権を重んじることです。他のものに支配されることを拒み、神に支配されることを喜ぶということです。それは、自分が自分を支配することをも拒絶するということです。この選びを貫徹するために、神ご自身も戦われました。だからこそ、独り子を人としてこの地上に送られたのです。今日は、このお方が十字架につけられる前の夜に、弟子たちに語られたお言葉を読みました。

「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。」

これは私たちに向けられた励ましの言葉です。闇が支配する中で、私があなたがたを選んだのだとハッキリ告げておられるのです。このお言葉を信じましょう。イエス様が愛をもって私たちを選んでくださったのです。主イエスは、私たちに求めておられます。私を選び続けなさい。私を選び抜きなさいと言って、私たちを招いておられる。戦いを伴うことです。しかし、そこには、まことの喜びがあります。主の招きに応えて歩みましょう。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

9月7日(日)のみことば

「さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、彼らに語れ。この私が命じることすべてを。彼らの前でおののくな。」(旧約聖書:エレミヤ書1章17節)

「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」(新約聖書:使徒言行録2章14節)

使徒言行録にはペトロやパウロたちの説教が多く掲載されていますが、私たちはそれを、ペトロやパウロといった個人の説教として読むべきではない。そうではなくて、初代教会という群れが、いったいどういうメッセージを語っていたか。そこに使徒言行録の眼目があるように思うのです。今日の個所もペトロが語った説教が記されているように思えますが、これは生まれたばかりの教会が、いったいどのようなメッセージを人々に語ったのか。そこが大事なように思います。だから、最初に「ペトロは十一人と共に立って」と書いてあります。

立ち上がったのはペトロだけではなかったのです。使徒と呼ばれた12人全員が立ち上がった。使徒たちは初代教会を代表する人々ですから、これは確かにペトロが語った説教ではありますが、それと同時に、これは初代教会が人々に向けて語り始めたメッセージを知る、貴重な史料でもあるわけです。