聖書:使徒言行録12章1~9節

説教:佐藤  誠司 牧師

「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、『帯を締め、履物を履きなさい』と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、『上着を着て、ついて来なさい』と言った。それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。』」(使徒言行録12章6~11節)

 

使徒言行録の第12章に入ります。ここは次の第13章から始まる本格的な異邦人伝道の先触れのような趣のあるところです。その前の11章ではシリアのアンティオキアに教会が誕生したことが語られておりました。エルサレムを追放されたヘレニストのユダヤ人キリスト者たちが中心となって、この教会は誕生したのでした。

そういういきさつで誕生した教会ですから、アンティオキアの教会はエルサレム教会とはずいぶん違う気風を持っていたと思われます。このアンティオキア教会で、初めて、キリストを信じる人々が「キリスト者・クリスチャン」と呼ばれるようになりました。そして、このアンティオキア教会では、異邦人にも福音が宣べ伝えられて、やがて異邦人伝道への道が開かれていきます。いずれもエルサレム教会では考えられなかったことです。そして、これが新たな波紋を広げていって、その波紋はやがてエルサレム教会にも及んでいきます。今日の物語は、その波紋がエルサレム教会に新たな迫害となって及んでいく有様を描いております。

「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」

このヘロデ王というのは、クリスマス物語に登場するヘロデ大王の孫にあたる人物ですが、ヘロデ家の人々は、どの人物を取りましても、あまり評判がよろしくない。ローマ帝国に取り入って、ユダヤ王に立ててもらったようなものですから、ローマの顔色をいつも伺っている。それと同時にユダヤの民衆の心が自分から離れていかないように、絶えず民衆のご機嫌を伺っている。今回の迫害も、そういう狙いがあったものと思われる。ヘロデは民衆の気を引くために、ヤコブを殺害したのです。

ここでこのヤコブについて説明をしておかなければなりません。と言いますのは、このあとも、使徒言行録にはヤコブという名の人物が登場するからです。今日の個所の17節にも出て来ておりますが、うっかりしますと、あれ、ヤコブは殺されたのじゃあなかったのかなあと、訳が分からなくなってしまいます。じつは、このヤコブは別人でありまして、ヘロデに殺されたほうのヤコブは使徒の一人、アルファイの子、ヨハネの兄弟として登場する人物です。ペトロと共にガリラヤ湖で漁師をしていたのを、主イエスに声をかけられて、従ってきた、そういう人物です。

それに対しまして、17節にその名が出て来ますヤコブは、主イエスの兄弟ヤコブと呼ばれる人物です。イエス様の兄であったか弟であったかは定かではありませんが、マリアとヨセフの間に生まれた何人かの兄弟の一人であることに間違いない。彼は、主イエスが生きておられるうちは、まだ主イエスに従うことはなかったのですが、主イエスの復活のあと、さらに言うなら聖霊降臨のあと、エルサレム教会の中で、おそらく主イエスの兄弟ということが重んじられたのでしょう、次第に発言力を増していって、使徒たちと並ぶ権威を持つようになりました。ですから、使徒言行録を注意深く読んでいきますと、エルサレム教会では、このヤコブの発言が次第に多くなって、使徒たちの影が薄くなっていくことに気付かれると思います。そしてこれがエルサレム教会の歩みに決定的な影響を及ぼしていきます。

さて、ヘロデは、使徒の一人であるヤコブを剣で殺しますと、それがユダヤの人々に喜ばれるのを見て取るや、さらにペトロをも捕らえにかかります。これは教会に対する迫害が、いっそう深刻な局面を迎えたことを現していると思います。ステファノの殺害に端を発して起こった前回の迫害では、エルサレムを追放されたのは、ギリシア語を話すヘレニストのユダヤ人キリスト者だけでありまして、使徒をはじめとする生粋のユダヤ人キリスト者のほうは、追放を免れました。ということは、あの時点では、まだ彼らはユダヤ教の一派とみなされていたということです。

ところが、教会を取り巻く状況は、この短い間に一変していた。エルサレムではローマに対する抵抗が熱を帯びてきて、律法主義と愛国主義が一体となった風潮がエルサレムを席巻しておりました。加えてアンティオキアでの異邦人伝道の噂がエルサレムの人々の耳にも届きますから、どうもあの教会の連中は我々の信仰とは違うのではないかと、エルサレムの人々も薄々気がついてきた。そこに起こったのがヘロデのヤコブ殺害で、それに対して民衆は拍手喝采したというのですから、エルサレム教会は、明らかに岐路に立たされているわけです。福音のダイナミズムに身を委ねて、キリストの教会として生きていくのか、それとも、自らの身の安全のために福音を返上し、ユダヤ教へと帰って行くのか、二つに一つです。真ん中の都合の良い道は考えられません。さあ、エルサレム教会は、どの道を行くのか?

このようなことを踏まえてペトロの逮捕の物語を読みますと、ルカはこの物語の中に、じつに興味深いことを、興味深い手法を使って語っていることが分かってまいります。ヘロデは人々の支援を得て、ますます張り切ってペトロを捕らえにかかります。ヘロデはペトロを牢獄に閉じ込めます。教会では、ペトロのために熱心な祈りがささげられています。さあ、ここからルカは、大変興味深い手法でペトロの牢獄からの脱出を語っていきます。6節に、こう書いてあります。

「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。」

ここでルカは、彼にしては珍しく象徴を使った語り方をしていると思います。ここでのペトロは、ペトロ個人というよりも、使徒の代表であり、使徒的教会としてのエルサレム教会の良心を象徴していると思われます。そのエルサレム教会の使徒的教会としての良心が眠っているのです。二本の鎖につながれ、二人の兵士に挟まれてです。二本の鎖と二人の兵士。これは今のエルサレムを支配し席巻しいている律法主義と愛国主義の象徴と読むことも出来るでしょう。つまり、エルサレム教会の、教会としての良心は、今、律法主義と愛国主義の鎖につながれ、さらに監視されて、眠っているのです。

すると、そこへ主の天使が現れます。ルカ福音書と使徒言行録に登場する天使は、神様の特別のご計画を告げるために現れます。ここでもそうです。この天使は、ただ単にペトロを救出するために現れたのではない。神様の特別のご計画と新たな使命をペトロに告げるために、天使は現れたのだと、そう見るべきでしょう。さあ、では、そのご計画と使命とは、いったい、どういうものであったのか? そこが肝心要になってまいります。

さて、天使はペトロのそばに立つと、光が牢の中を照らしました。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、なんと、ペトロをがんじがらめにしていた鎖が外れるのです。そして天使は続いて、こう言います。

「帯を締め、履物を履きなさい。」 「上着を着て、ついて来なさい。」

この「起き上がる」とか「帯を締める」「履物を履く」あるいは「上着を着る」というのは皆、大人の男性が戦いに臨むときのいでたちです。旧約を見ますと「腰に帯びして立ち上がれ」「上着を身につける」という表現がいくつも出て来ます。つまり、天使は、エルサレム教会の良心を呼び覚まし、今こそ闘いのために立ち上がるよう、促したということです。ペトロはついて行きます。しかし、彼にはまだ、事の真相は見えていません。彼は幻を見ているのだと思い込んで、ただついて行っているのです。さあ、第一、第二の衛兵所を過ぎて、町に通じる鉄の門の前まで来ると、不思議なことに、門はひとりでに開きました。ペトロが進んで行くと、急に天使は離れ去ったと書いてあります。町に通じる門とは、いったい、どういうことなのでしょうか? 門というのは、聖書の中で、しばしば、象徴的な意味合いをもって出て来る言葉です。使徒言行録にも第3章に「美しい門」の物語が、門を象徴として語っていました。ではこの「町に通じる門」とは、何の象徴かと言いますと、おそらくこれは、地中海世界の都市に通じる門ということなのでしょう。この「町」というところに使われた「ポリス」という言葉は、ただ「町」を意味するだけではなく、もう一つ、ギリシア世界の「都市国家」を意味する言葉でもあります。ルカはここで、そういう二重の掛詞を使っているのではないかと思われます。天使が離れ去ると、ペトロは我に返って言います。

「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」

ここはルカ福音書の第2章、降誕物語の天使と羊飼いのお話に似ています。あのときも天使は離れ去りましたが、そのとき、羊飼いたちは言いました。

「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」

羊飼いたちに使命が託された瞬間です。天使が離れ去るとは、そういうことです。天使は、ただ単にペトロを牢獄から脱出させただけではない。ペトロに新たな使命を告げ知らせ、その使命をペトロに託すために、彼を牢獄から脱出させたのです。しかし、ペトロは、まだそれには気づいていません。彼は牢獄を出ると、すぐに教会の仲間たちのところへ帰って行きます。当時、教会にはまだ建物はありません。信徒たちが家を開放して、そこで礼拝や集会、祈りを守っていたのです。その中に、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家がありました。おそらく、このマリアの家の二階が、最後の晩餐が守られた所であり、聖霊降臨の出来事もこの家で起こったものと思われる。そして彼女の息子、マルコと呼ばれたヨハネは、このあと、使徒言行録で大きな役割を担って登場します。

さあ、マリアの家ではペトロのために熱心な祈りが日々ささげられておりました。多くの教師、信徒が祈りのために集まっていたのです。ところが、ペトロが門をたたくと、ロデという女中が出て来たのですが、ペトロだと分かると、喜びのあまり、門も開けずに家の中に駆け込み、皆に知らせました。すると、人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言って、ロデの言葉を信じようとはしないのです。ここら辺り、大変コミカルに描かれているのですが、同時にエルサレム教会の体質に対して、かなり痛烈と言いますか、一種のアイロニーを込めてルカは語っているように思います。なぜかと言いますと、教会では日々、ペトロのために祈りがささげられていたわけでしょう? ペトロが牢獄を出て来れるよう、彼らは祈っていたはずなのです。それなのに、当の本人であるペトロが帰って来ると、彼らにはそれがにわかには信じられなかったのです。これはちょうど、マルコ福音書9章の悪霊にとりつかれた息子を持つ父親に似ていますね。あの父親は、主イエスに向かって、こう願いました。

「主よ、出来ますなら、この子を憐れんでください。」

すると、イエス様、こう言われたでしょう?

「出来ればと言うのか。信じる者には何でも出来る。」

エルサレム教会の人々の祈りも、そういう祈りだったのです。主よ、出来ますならば、ペトロを救い出してください。いつもいつも「出来ますならば」がつきまとう。

そしてもう一つ、ルカがアイロニーを込めて語っているのは、門のことです。牢獄の門と教会の門が際立った対比を見せて語られています。ペトロが教会の門をたたいても、開けてもらえなかったでしょう。牢獄の門は開かれたのに、教会の門は開かれなかったのです。

ペトロは門をたたき続けます。すると、門はやっと開かれるのですが、ペトロは中に入りましたか? 入っていないでしょう。そこでペトロは、驚く人々を手で制して、事の次第を説明します。ペトロという人は、面白いところのある人でして、前のコルネリウス物語のときもそうでしたが、人々に事の次第を説明しながら、ペトロ自身が、事の背後に隠されていた神様の秘められたご計画に気付いていく。そういうところのある人です。おそらく、このときも、そうだったのでしょう。天使が現れたこと。鎖が外されたこと。「帯を締めて、立ち上がれ」と言われたこと。天使が道を開いて、町に通じる鉄の門まで導かれたこと。その門が開かれて、一筋の道が備えられたこと。それらを順を追って話しているうちに、彼は聞くのです。主の御声を聞く。さあ、どのような御声を、彼は聞いたのでしょうか?

旧約の列王記上19章にエリヤの物語があります。私の大好きな物語の一つですが、もうあまりお話をする時間がありません。

エリヤはここで神様に向かって泣き言を言います。あれほど勇敢にバアルの預言者たちと戦ったエリヤが、神様に向かって「もう命を取ってください」とまで言って嘆いている。情けない姿ですね。ところが、神様はそんなエリヤをパンと水で養って、神の山ホレブまで導いてくださるのです。ホレブといえば、シナイ山のことです。モーセが神様と出会ったところです。イスラエルにとってみれば信仰の原点です。エリヤはそこに導かれる。そしてエリヤは、そこで神様にお会いするのです。いろんなことが書いてありますが、一つだけ言いますと、エリヤは「靜かにささやく声」を聞くのです。

「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。」

これは神様からの問いかけです。エリヤはこの問いかけに答えます。

「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々は、あなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうと狙っています。」

ここにエリヤがなぜ神様に泣き言を言ったのか、その理由がハッキリ現れています。彼はこう言っているのです。私一人が神様のために頑張ってきた。なんとかイスラエルの信仰を回復させようと努力してきた。けれども、もうダメです。彼らは最後に残った私の命をも狙っています。もうダメです。すると、神様はなんとおっしゃったか。

「行け。あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ」と言って、最後に神様はこう言われたでしょう?

「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。バアルにひざまずかず、これに口付けしなかった者である。」

今からあなたは新しい出発をしなさいということです。来た道を引き返すのですが、これはただ帰って行くのではない。神様から新しい使命を託されて、帰って行くのです。エリヤが聞いた神様の御声は「静かにささやく声」であったと書かれていました。

さあ「靜かにささやく声」って、どんな声なのでしょうか? 激しい風の中に、エリヤは神様の声を聞こうとしました。風というのは、霊と同じですから、神様の顕現の象徴ですね。ところが、そこには神様はおられなかった。エリヤは失望します。次いで、激しい地震が起こります。エリヤはここに神様はおられると期待しますが、そこにも神様はおられなかった。次にエリヤは、火の中に神様の声を聞こうとしますが、そこにも神様はおられなかった。風も地震も火も皆、神顕現の象徴です。しかし、神はその中からは語られなかった。エリヤは失望します。そのとき、彼は聞くのです。靜かにささやく声を聞く。

この「靜かにささやく声」というのは、声の大きさのことではなくて、思いもよらない声ということです。人の思いを超える声ということです。エリヤは風の中、地震の中、火の中に、神様の声を期待しました。ここで神様は語ってくださるに違いないと思ったのです。しかし、それは、あくまでエリヤが期待している声でありまして、エリヤの願い・願望を映し出す鏡のようなものです。早い話、彼は「エリヤよ、お前は一人で、よう頑張った」と言ってほしいのです。そんなことって、私たちにもありますね。ところが、神様は、そんなエリヤが思いもよらないことを語りかけられた。それが「靜かにささやく声」ということです。

私はペトロが聞いた主の御声も、これと同じではなかったかと思います。ペトロは牢獄を脱出して、エルサレム教会に帰ろうとします。今こそ、迫害に耐えて福音宣教のためにエルサレム教会で働きなさいと、そういう決心をペトロはしたでしょうし、そういう御声を期待したのです。ところが、開かれない門の前で、ペトロは全く思いもよらない御声を聞いたのではないでしょうか。それは、あの牢獄の鉄の門が開いたとき、すでに示されていたことでした。広く地中海世界に至る道を、あなたは福音を携えて行きなさい。この声を聞いたからこそ、ペトロは「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言い残して、そこを出てほかの所へ行ったのです。「ほかの所へ行った」というのは意味深長でしょう。彼はエルサレム教会を出て行くのです。

私たちの人生においても、これは起こることです。思いもよらない所に道が開け、門が開けられる。私たちも、しばしば決心をします。決意を固めます。それは時に信仰の決心でもある。そうしますと私たちは、そこに神様の御心があるものと期待もしますし、神様がその決心を肯定してくださるものと思い込みます。しかし、時に、神様は、私たちの決心とは別の道を開かれることがあります。全く逆方向の道が開かれることだって、あるのです。そのときに、私たちは、自分の決心すら神様に明け渡して、委ね切ってその道を歩むことが出来るか。信仰とは決心ではなく、委ねて生きること。今日のペトロとエリヤの物語は、そこのところを問いかけているように思うのです。