聖書:創世記2章7節・使徒言行録2章1~13節
説教:佐藤 誠司 牧師
「神である主は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」 (創世記2章7節)
「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した。」(使徒言行録2章1~4節)
復活節の時が満ちて、この朝、私たちは聖霊降臨日の礼拝を迎えました。使徒言行録第2章の聖霊降臨の物語を読みました。ここから使徒言行録の本文が始まります。なぜここからが本文だといえるのか。それは、ここに教会が誕生して、使徒たちの働きが、使徒個人のものとしてではなく、教会の業として進められていくからです。パウロが、ペトロが、バルナバやフィリポが登場します。しかし、それらは彼ら個人の活躍として語られるのではない。あくまでキリストの体である教会の業として語られていく。そこが大事なところです。
もう一つ、この聖霊降臨の物語の大事なところは、この物語によって、私たち地上の教会が自分たちのルーツを知ったということです。ご存知のように、一口に「教会」と言いましても、そこには様々な教派があり、伝統があります。教派間において、時に論争も起こります。しかし、いくら多くの教派が存在しても、それら諸教会のルーツは一つです。聖霊降臨によって生まれたのです。どの教派の、どの教会も、この聖霊降臨の物語を自分たちのルーツを語る物語として心に刻み付けている。これはとても大きなことだと思うのです。
過越しの祭りから七週間後の、五旬祭と呼ばれるユダヤ教の収穫の祭りの日。これは主の復活日から数えて50日目に当たるのですが、その日、一同が一つになって集まっていたと書いてあります。一同とは、どういう人たちかと言いますと、使徒を初めとする弟子たちであり、そこには女性たちもいたと、第1章の14節に記されています。彼らは「心を合わせて熱心に祈っていた」と書いてありました。つまり、彼らはすでにユダヤ教のシナゴーグではありえない、独自の交わりを形成しつつあったことが分かります。
場所はどこであったかと言うと、1章13節に出て来た「家の上の階」であったと思われる。家の二階です。そこに弟子たちは泊まっていたのです。おそらく、これはルカ福音書22章に出て来た「最後の晩餐」が行われた二階の部屋であったと思われます。つまり、弟子たちは、主イエスと最後の食卓を囲んだ家に寝泊りし、その食卓を囲んで集まっていたことが、ここから分かります。彼らの中心に、主がパンを裂き、杯を手渡してくださった食卓が常にあったということです。これは大事な意味を持つことだと思います。さあ、2節からは、聖霊降臨の有様が語られていきます。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。」
それは風のようであったとルカは言うのです。風は目には見えません。しかし、風がもたらす力は耳に聞こえる。主イエスの言葉が思い起こされます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」
このあと、主イエスは、こう言っておられました。
「霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
聖書、特に旧約を読みますと、「風」という言葉と「霊」という言葉、そして「息」という言葉が重なって出て来ることに気付かされます。聖書の原文では「風」と「息」、「霊」というのは、同じ言葉なんです。「霊から生まれる」と主イエスはおっしゃいました。今、弟子たちの上に起こりつつあるのは、まさにそういうことです。弟子たちの群れが、霊から生まれようとしている。続いて、3節には次のように書いてあります。
「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」
先ほどは、耳に聞こえてきたと言われていましたが、今度は目に見えたのだとルカは言うのです。「炎」というのは、何を表しているのかと言いますと、出エジプト記第3章にモーセが神の山ホレブで神と出会う場面で、燃える芝が出てきます。炎が燃え尽きないのです。あの炎は神の現臨を表すものとして、その後も聖書に繰り返し出て来ます。そして「舌」というのは、言葉のことなんです。その言葉の象徴である舌が分かれ分かれになって現れて、一人一人の上にとどまった。それは、まさに、新しい言葉が神の現臨によって、弟子たち一人一人の上にとどまったということです。
このように、ルカは、聖霊降臨は、まず耳に聞こえて、次に目に見えたと語ります。聖霊そのものは、耳にも聞こえないし、目にも見えないでしょう。しかし、聖霊の働きは耳に聞こえるし、目にも見える。だから、ルカは、このあとで「聖霊」という言葉を出して来るのです。4節です。
「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した。」
ルカはここで初めて、2節と3節で述べてきた不思議な現象が聖霊によって引き起こされたことなのだと語ります。そして、ルカは非常に慎重に「聖霊」と「言葉」を結び付けています。
さて、聖霊降臨といえば、ルカのこの不思議な表現に戸惑いを覚える人が多いのも事実です。確かに、2節、3節の表現などは、人知をはるかに超えて、まことに不思議であり、説明不可能のようにも思えます。しかし、まさにその人知を超えた不思議さの中に、教会誕生の真実は隠されているのではないでしょうか。どういうことかと言いますと、人知を超えるというのは、とりもなおさず、神の御業ということです。つまり、ルカが聖霊降臨の物語によって語っているのは、教会とは純粋に神様の御業によってこの世に誕生したのだという、その一点ではないでしょうか。
さて、一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、他国の言葉で語りだしたと書いてありました。すると、この大きな物音を聞きつけて、エルサレムの人々が集まってきます。五旬祭はユダヤ教の大きな祭りですから、地中海世界に散らされていたユダヤ人たちが、エルサレム巡礼に帰ってきていたのです。この人たちはユダヤ人ではありますが、日常生活ではもはやヘブライ語ではなく、その住んでいる国の言葉を話しているわけです。彼らは、キリストを信じて一つ家に集まっている一団の人たちが、自分の故郷の言葉を話しているのを聞いて、ビックリ仰天します。しかも、彼らがさらに驚くのは、このガリラヤの人たちが自分たちの故郷の言葉を話しているに留まらず、彼らが皆、神の偉大な御業を語っていたからです。ここはよく注意して読まなければならないところです。これは、ヘブライ語で神の御業を語っているのが、それぞれの国の言葉に翻訳されて語られていたというのとは違うのです。確かに現象的には、そのようにも見えるのですが、その本質を言えば、神の御業がその国の言葉に突入してきたと言いますか、その国の言葉を神の御業を語る言葉へと造り替えたということです。
日本語もそうですが、言葉の背後には、その国の考え方や民族の習慣があるわけですが、神の御業がその国の考え方や民族の思考の様態までを変えていく。神の御業がその国の言葉そのものを変えていくのです。そして、やがて言葉だけでなく、人々の心までを変えていく。そういうことが、ここに予告されているわけです。ですから、ここで人々が驚いているのは、自分の国の言葉が、こんなにも生き生きと神の偉大な御業を証しする器として用いられている、そのことに驚いているのです。ですから、9節から10節、11節にかけて記されている地中海沿岸の様々な国や地域は、ことごとく、これから先、使徒言行録が使徒たちの世界宣教の舞台として描く国や地域ばかりです。
つまり、使徒言行録はここで何を語っているかと言うと、これから先、これらの国の文化、習慣、考え方そのもの中にキリストの福音が突入していって、その文化や習慣、考え方をまるごと、神の偉大な御業を語る言葉にしていく。その中に、今、使徒言行録を読んでいる、あなたの国も含まれているのですよと、語りかけているのです。日本でも、同じことが起こりました。愛という言葉は、キリスト教が入って来るまでは「愛欲」という意味しか持っていなかった。ですから、明治生まれの私の祖母は、テレビで「愛」という言葉が出て来ると、「まあ、いやらしい」と言って眉をひそめたものです。「愛」という言葉は、人前で口にするのも恥ずかしい、日陰の身だったのです。それが、キリスト教が入って来て、180度変わった。愛とは尊いもの、偉大なものという認識が広まって定着した。キリスト教信仰が言葉を変え、人の心までを変えたのです。
言葉が変えられていく。言葉が本来の姿を取り戻していく。そういうことが起こるのだと使徒言行録は語る。
本来の言葉とは、どういう言葉なのでしょうか。そこが肝心要になってまいります。旧約の創世記は、その点を、とてもしっかりと語っておりまして、11章にバベルの物語があって、人が本来の言葉を喪失していく出来事が語られているのですが、その前に「これが本来の言葉ですよ」という物語をちゃんと語っているのです。それが今日読んだ旧約の箇所、創世記第2章7節の人間創造の物語です。こう書いてあります。
「神である主は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」
さあ、「ここにも「息」という言葉が出て来ております。まさに「神の息」ですが、これが聖霊です。人間というのは形だけではダメなのです。神様が命の息、すなわち聖霊を吹き込んでくださることによって、人は初めて人となった。こうして人は生きる者となったのです。この「生きる者になった」というのは、単に生物学的な意味で生きる者となったということではありません。この「生きる者になった」というのは、神様に応答する者、返事をする者となったということです。創世記によれば、人が言葉を使うのは、ここからです。ここから分かりますのは、本来の言葉というのは霊的なものだということです。神様に返事をするのが本来の言葉です。しかし、言葉で返事をするためには、まず心と生き方が神様のほうに向いていないといけません。心と生き方が、言葉を変えていくのです。返事をする言葉へと変えていく。そしてもう一つ、神様に返事をするためには、神様の呼びかけ、語りかけを聞いていなければなりません。創世記第2章7節は、そういうことを語っています。神が命の息、すなわち聖霊を吹き込んでくださって、人は神様に返事をする言葉と心、生き方を獲得した。それを喪失したのがバベルの出来事であったわけです。
しかし、今や聖霊降臨の出来事によって、人は本来の言葉を回復しました。心を一つにして互いに祈り合う、その交わりの中で、それは起こりました。神の恵みに応えていく生き方と心の上に、神様に返事をしていく霊的な言葉が与えられ、その神の御業を喜んで語る言葉が、地中海世界の多くの言語を造り替えて、今や海を越えて、この日本にも届いている。これこそ神の偉大な御業であると思います。私たちは、その御業を日本の言葉で讃美します。その感謝と賛美が、私たちの言葉と生き方、心をさらに造り替えて、私たち一人一人と、私たちの教会を、神の恵みを映し出す鏡としてくださる。聖霊降臨とは過去の出来事にあらず、今に至る神の御業、神の偉大な御業なのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
6月8日(日)のみことば
「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。」(旧約聖書:詩編51編9節)
「また、まず強い人を縛り上げなければ、誰も、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛っておいてから、その家を略奪するものだ。」(新約聖書:マルコ福音書3章27節)
今日の新約の御言葉は、主イエスが語られた不思議な譬え話です。イエス様がお語りになる譬え話は、時におおらかなユーモアに満ちていることがあります。今日の御言葉はその典型です。イエス様はここで、ご自分を強盗に喩えておられるのです。しかも、人の家に押し入って、家財道具を一切かっさらって行く強盗に喩えておられるのですから、これは痛快な譬え話です。強い人が武装して家を守っているというのは、心を頑なに閉ざして身を守っている人のことです。
そこに、もっと強い人がやって来る。主イエスが強盗として押し入って来られる。そして頑なに閉じられた心の中に入って行って、武具を奪い取り、家財道具を全部掻っかっさらっていく。このように、主イエスはここで御自分を強盗に譬えておられるのです。頑なに閉じられたあなたの心にも、私は押し入って行く。あなたの心の扉を開き、あなたの心の只中に私は入って行く。悪霊を追い出し、聖霊を主人として住まわせるにふさわしい家に作り変える。この家財道具というのは、その人が持っている賜物や才能のことでしょう。それらを一切合財奪い取って行くのだとおっしゃるのです。これはとても痛快な譬えだと思います。
