聖書:出エジプト記20章1~3節・ローマの信徒への手紙7章18~25節
説教:佐藤 誠司 牧師
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」(出エジプト記20章2節)
「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章19~24節)
これまで、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を連続して学んできましたが、その学びを8月3日(日)で終えて、先々週8月10日(日)から十戒の学びに入りました。私ども日本のプロテスタント教会には「使徒信条」と「十戒」と「主の祈り」を「三要文」と呼んで特に大切にする習慣があります。それで私たちも使徒信条に次いで十戒を学ぶわけですが、この三要文を特に大切にする習慣は、おそらく、明治時代の最初の日本人キリスト者と宣教師たちとの出会いに遡ることが出来ると思います。
当時はキリスト教禁令がまだ解かれていませんでしたから、礼拝を公に行うことは出来ず、横浜の宣教師の家で、ひそかに小さな集会が守られていたに過ぎません。まだ歌うべき賛美歌もなかった時代です。そこで主の祈りがなされ、十戒が唱えられたのです。なぜ彼らは十戒を唱えたのか。それは、十戒が礼拝と生活を結び付ける要の役割を果たしていたからです。後年になってキリスト教が認められてからも、まだまだキリスト教に対する偏見は根深く、石つぶてを投げられることも、多々あったと言います。地域社会の中でも、家庭においても、キリストを信じる信仰を持って生きていくのは、大変だったのです。陰に日向にキリスト教への反発やいじめがあった。そういう生きづらさを抱えた時代に、十戒は信仰を持って歩むための杖であり、支えだった。だから、若者たちは十戒を愛し、日々、十戒を唱えたのです。
この横浜と並んで、最初のプロテスタントの礼拝が行われたのは、北海道の札幌です。有名なクラーク博士が札幌農学校で伝道した。その時に生まれたキリスト者の若者たちが母体となって建てられたのが現在の札幌独立キリスト教会です。クラーク博士は一年しかいなかったのですが、滞在中に、生まれたばかりの日本人キリスト者のために「イエスを信じる者たちの誓約」という冊子を遺しました。これは大きく二部に分かれておりまして、前半は正統的なキリスト教の教理が記されています。それに対して、後半は十戒が詳細に述べられて、そこに署名を求める形になっています。若者たち、その中に新渡戸稲造や内村鑑三、宮部金吾といった人たちがいたのですが、この青年たちがそれぞれ署名をして、誓約をしている。十戒は、生きづらさの中で、まさに信仰者の生活を支える杖であり、支えだったことが、ここからも分かります。
このように、ざっと歴史を振り返ってみるだけで、日本のプロテスタント教会の黎明期に、十戒が大きな意味を持っていたことが分かります。そしてもう一つ、興味深いのは、彼らが十戒を自由への招きの言葉として読んでいたという事実です。
これは私たちにとって意外と言いますか、驚きの事実であると思います。十戒という言葉は「十の戒め」と書く、その字面から連想するように、どうも堅苦しい規則や決まり事というイメージがある。とてもじゃないが、自由への招きだとは思えない。中身だって、そうです。「何々してはならない」という禁止の命令がじつに多い。禁止でなくても「安息日を覚えて、これを聖別せよ」とか「父母を敬え」とか、命令が目白押しです。いったい、これのどこが自由なのかというわけです。
しかし、十戒が語っているのは、単なる命令ではありません。おいおい説明をしていきますが、十戒の命令は「何々してはならない」という禁止の命令も、「何々せよ」という普通の命令も、「断定法」という特別な命令なのです。
例を挙げて説明しますと「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」という第一の戒め。これは、「私」と言っておられるお方を神とする生き方もあるけれど、神としない生き方もある。あるいは、ほかの偶像の神々を神とする生き方もある、というふうに、いくつもの選択肢を前提とした言い方ではなく、あなたには、この生き方しかない。私を神として生きる道しかないと断定している。そういう言い方なのです。ですから、これは文法的には「命令」の形を取ってはいますが、「あなたは私以外の者を神としない。そういう生き方があなたの新しい生き方なんだよ」と断定している。私以外の者を神としない生き方が、今やあなたの生き方になっている。この道を歩みなさいと招いておられる。命令よりも、さらに一歩踏み込んで断定しておられる。それが十戒の命令形の特徴で、「断定法」と呼ばれるものです。
ですから、神を神とするというのは、いくつもある選択肢の中から「私はこの生き方を選ぶ」と言って決心をする生き方ではない。神を神として生きるというのが、私の本来の生き方なのです。はじめにご紹介した明治時代のキリスト者の青年たちが、十戒に心引かれて「自由への招き」として十戒を大切にしたのは、ここに最大の理由があるのではないかと思います。
どうして、そのような事が言えるかというと、十戒の本文が始まる前の2節。ここは神様が御自分を現わしておられる所ですが、ここにその理由が明確に示されていると思います。読んでみます。
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」
これは神様が自己紹介をしておられる所です。自己紹介というのは、ただ単に自分の名前を言うだけでは成り立ちません。相手との間にこれから始まる新しい関係を明確に言い表して初めて自己紹介が成立します。ここも、そうです。ここで神様は解放者としてのご自身を現わしておられる。私はあなたを導くあなたの神、あなたを解放し、自由にするあなたの主である。あなたは解放された自由人として、私の言葉を聞いて歩みなさい。十戒の心というべきものが、この最初の自己紹介の中に語られているのです。ですから、私たちは、これから、十戒の言葉を一つずつ読み進めて行きますが、その時に大事なのは、読み進める度に、この自己紹介の言葉に帰って行くことです。例を挙げますと、「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」という第四の戒め。これを次のように読むのです。
「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。なぜなら、私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者だからである。」
奴隷の身分からの解放ということが、十戒においては、何よりも重んじられている、ということです。しかも、その場合の「解放」は、単なる奴隷の身分、奴隷の境遇からの解放に留まることではなくて、その人の人格や生き方そのものが新しくされることを意味しています。だからこそ、解放という言葉は、新約聖書に至って「罪からの解放」に発展していくわけです。罪からの解放というのは、罪の奴隷からの解放ということですが、これは単なる奴隷の身分や境遇からの解放ではなく、人間そのものが新たにされる。新しい人によみがえることなのです。
ですから、十戒が語る人間像というのは、神様の解放の御業によって新しくされた人間の姿であり、本来の自分の姿です。それが人間が生きていく様々な境遇の中で、次々と語られて行くというのが十戒です。神様との関係があり、隣人との関係があり、父母との関係があります。その中で、新しくされた人間は、どう生きていくのか。それが次々と語られていくのですから、横浜と札幌の、生まれたばかりのクリスチャン青年たちが、心躍るようなような思いで十戒を読んでいたのは、私たちにも想像に難くありません。彼らにとって、十戒とは、まさに自由への招きだったのです。
若者たちは、ここに自分たちの本当に新しくされた姿、本来の自分の姿を見ました。このように生きていきたいと心から願っていた姿を、ここに発見したのです。ですから、十戒が語っている道からそれるということは、自分が自分でなくなってしまうことになります。ここのところを、しっかり弁えておかないと、なんだか十戒は規則ずくめで堅苦しい、本当の自分を押し殺し、押し殺して、無理をして生きることだという誤解が生じてしまいます。信じて生きること、十戒のメッセージに生きることは、無理をすることではない。信じるというのは、最も自由な生き方であり、喜ばしいことなのです。
ただ、私たちは、ここでもう一つ、押さえておかなければならないことがあります。それは私たち人間の弱さです。私たちは十戒の言葉を聞きますと、素晴らしい言葉だと思いますし、このように生きたいと心から願います。その思いに偽りはない。ところが、その反面で、相も変わらず神様の言葉に抵抗し、開き直っている自分がいることを、認めざるを得ないということです。これはパウロという人も、真剣に悩んだことです。今日読んだローマ書の第7章で、パウロは正直にこう述べています。
「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」
一生懸命に善を行おうとしているけれど、どうしても出来ないと書いてあります。そして最後に「私は、なんという惨めな人間なのだろう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と言っておりますが、よく注意して見てください。この善を行おうとして行えないことを嘆いている部分ですが、ここには「キリスト」という言葉が全く出て来ないのです。これ、どういうことかと言いますと、「私が一生懸命努力をして、神様の掟に従おう」と、そういうふうに頑張っているのです。私が一生懸命頑張って悪と戦って、神様の掟を守りましょうと。確かに一生懸命な生き方です。しかし、その一生懸命さの行き着く先は、はたしてどこであったかと言うと、それが24節です。「私は、なんという惨めな人間なのだろう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」ということです。人間の一生懸命は必ずここに行き着きますよとパウロは言うのです。
ここから救われる道は、はたしてあるのか。あるとすれば、その道はどこにあるのか、と言うと、その道はここに隠されています。24節の嘆きの言葉の、ものの言い方です。非常に微妙な言い方なのですが、皆さんも注意深くパウロの言葉遣いに注目していただきたいと思います。「誰が私を救ってくれるでしょうか」と言っております。この言い方は、「どうやったら、ここから逃れられるだろうか」というのとは意味が違います。私たちは、試練や困難にぶつかると、すぐに「どうしたらいいだろうか」とか「どうやったらいいんだ」とか言います。しかし、「どうしたら」とか「どうやったら」というのは、詰まるところ、自分がどうやったらということでしょう。これはどういうことかと言いますと、まだ自分の中に望みを持っている言い方です。何かうまい手はないか、何か良い策はないかというわけです。
今までのパウロは、自分の中ばかり見ていた。自分のどこかに力は残っていないだろうか。どこかに解決の道は無いだろうか。そんなふうに、自分の中をぐるぐると捜し回っていたのですが、もう望みはどこにも無い。どこにも無いから「私はなんという惨めな人間なのだろう」という言葉が出たのです。しかし、それでいいのです。私たちが、どうしようもない、惨めな人間だということは、始めから分かっている。だからこそ、イエス様は来てくださったわけです。だから惨めで良い、ダメ人間で良いのです。ですから、私たちが「ああ、自分はなんて惨めな人間なんだろう」と思った時に、「だから私は救われないのだ」ではない。反対です。そういう惨めな私を救うために、イエス・キリストが来てくださったのです。
パウロは「誰がこの私を救ってくれるでしょうか」と問いました。「誰が」です。この「誰が」という問いかけには、じつは「キリストが」という答えが隠されているのです。だから、パウロは25節で、一見唐突に神様に感謝の声をあげる。生ける主を見上げつつ、十戒の言葉を聞くことが出来る。主イエスの言葉と十戒の言葉を同時に聞くことが出来る。これが大事です。
私たち人間は弱い存在です。「父母を敬え」という戒め一つを取ってみても、キリストの助けを頂かなければ、私たちは自分の力ではこれを守ることは出来ないということです。私たちが十戒を学ぶ上でいちばん大事なのは、ここなのです。キリストの福音の中で、愛の中で十戒を学ぶのです。その時に、新しい道が開かれます。その道をご一緒に歩みましょう。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
8月24日(日)のみことば
「私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。」(旧約聖書:エレミヤ書31章33節)
「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現わされました。」(新約聖書:ローマ書3章21節)
「しかし今や」という言い方が、目を引きます。この言い方は、これまで語ってきた事とは打って変わったメッセージを伝えようとしている時に使う言い方です。「今や」という言葉は今まで話してきたことと全く別次元のことをこれから話す、そういう気持ちが込められています。しかし、それだけではなくて、今からこの話をするということは、かつて無かったものが生じた、特別な出来事が起こったと、そういうことをパウロは語ろうとしているのです。それは何かというと「神の義が律法を離れて現わされた」ということです。
今日の御言葉の直前でパウロは次のように語っています。
「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」
ここから分かるように、これまで何が問題になってきたかと言うと、「人間が神様の前で義とされる」ということが、ずっと問題になってきた。つまり、人間の側が問われてきたわけです。ところが、今日の箇所では、どうですか? 「神の義が示された」となっています。人間の側ではない、神様の側のことが、ここで語られている。これが今までとは違うところです。律法遵守という人間の側の努力ではなく、神の恵みとして「神様の義」が現わされた。じつはこれが福音の原点なのです。