聖書:申命記8章1~3節・ローマの信徒への手紙12章1~21節

説教:佐藤 誠司 牧師

「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)

「私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を超えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に、教える人は教えに、勧める人は勧めに専念しなさい。分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」(ローマの信徒への手紙12章3~8節)

 

今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいますが、その学びも終わりに近づいてきました。先週は「聖徒の交わりを信ず」という言葉を学びましたが、「聖徒の交わり」を一度で終わるのは、なかなか難しい事だと、つくずく思わされております。そこで、今日は「聖徒の交わり」ということを、もう一歩踏み込んでお話をしてみたいと思います。

先週、こんなお話をしました。「聖徒の交わり」の「聖徒」という言葉には二つの意味がある。一つは「キリスト者」という意味です。この意味に理解をしますと「聖徒の交わり」というのはキリスト者同士の交わり、人と人との交わりということになります。普通、私たちは「聖徒の交わり」というと、こちらの意味に理解をしていると思います。これは人と人との交わりですから「水平の交わり」と呼ぶことが出来るでしょう。

それに対して「聖徒」という言葉には、もう一つ、「聖なる物体」という意味がある。ただの物体ではありません。上より与えられる聖なる物体です。さあ、それはいったい何かということになりますが、私たちはそれを十字架で裂かれたキリストの体、十字架で流されたキリストの血潮だと理解しました。これは聖餐の交わりです。これは先ほどの「水平の交わり」に対して「垂直の交わり」と呼んでも良いと思います。

この二つの交わりは、別個に存在するのではありません。特に「水平の交わり」は人と人との交わりですから、これだけ単体で成り立つものではありません。「水平の交わり」と「垂直の交わり」が、ちょうど十字架のように重なることが大事です。その時に、姿を現わしてくるのが「聖徒の交わり」です。このことを示してくれるのが、ローマの信徒への手紙12章の御言葉です。ここは倫理が語られた部分です。倫理の「倫」という字は、人偏が使われていることからも分かるように「人と人との関係」という意味があります。先ほどの言葉を使えば、これは「水平の関係」になります。ですから、これだけで「聖徒の交わり」が成り立つわけではありません。「垂直の交わり」の中で「水平の交わり」が生かされることが大事です。

パウロはこれから倫理的な様々な勧めを語るわけですが、パウロはいきなり倫理を語ることはしていません。いきなり倫理的な勧めをするのではなくて、パウロはまず、倫理の源泉と言いますか、倫理を生み出す土台から語り始めております。それが1節です。

「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」

ここを土台として、教会の交わりに於ける様々な倫理的な勧めが語られていくわけです。ですから、私たちがローマ書の倫理的な勧告を読む場合、いつもこの土台であり原点である12章1節の言葉に帰って行くことが大切になってきます。水平の交わりは、垂直の交わりを土台とした時に、初めて成り立つからです。この土台を確認したところで、パウロはこう言います。3節です。

「私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を超えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。」

大事なことが言われています。パウロは、教会の交わりで最も大切なのは、各自が自分を慎み深く評価することなのだと述べております。この「慎み深く」というのがキーワードです。さあ、慎み深く自分を評価するって、どういうことでしょうか。これは、皆さんもご承知のように、自分を過大に評価して思い上がることでもなければ、反対に、自分を過小評価して卑屈になることでもありません。そうではなくて、パウロが使ったこの「慎み深い」という言葉は「健やかに生かされる」という意味があったのです。ですから、慎み深く自分を評価するというのは、言い換えますと、健やかに生かされている自分を弁え知るということです。この言葉に導かれて、パウロは教会の交わりについて語り始めます。

「一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。」

健やかに生かされている一人一人が「部分」です。そしてその一人一人が教会という一つの体を形作っている。この「部分」という翻訳は、分かり易い反面、無機的で味気ないです。ここは部分は部分でも、正確に言えば「体の部分」のことなのです。目や耳、鼻や口といった体の部分のことです。そして、ここから生まれたのが「メンバー」という言葉です。取替えの利かない、かけがえのない人という意味です。そしてキリストの体のメンバーとされた一人一人が、異なった賜物を与えられて、互いに支え合い、仕え合うように召されている。そこのところをパウロは、次のように述べております。6節です。

「私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に、教える人は教えに、勧める人は勧めに専念しなさい。分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

いかがでしょうか。パウロは、ごく当たり前のように「私たちは皆、それぞれ異なった賜物を持っています」と、言い切っています。あの人には豊かな賜物があるけれど、私はどうなんだろうと、しょげ返ったり、卑屈になったりする必要は無い。神様が各自に賜物を与えてくださっている。しかも、その人に最もふさわしい賜物が与えられている。それを素直に信じなさい。パウロが言うのは、そこなのです。

ですから、賜物というのは得意分野のことでもなければ、特技のことでもありません。私たちの業ではない。あくまで、神が恵みとして与えてくださったものです。ですから、これを生かさない手はありません。謙虚になりすぎて、謙遜の度が過ぎて、賜物を生かさないというのは、じつは謙遜でも謙虚でもないのです。

イエス様が語られた譬え話に「タラントンの譬え話」があります。主人が3人の家来にそれぞれ、5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けて旅に出た。5タラントン預かった家来と2タラントン預かった家来は、預かったタラントンを用いて、商売をし、さらに多くのタラントンを儲けた。ところが、1タラントン預かった家来は、タラントンをそのまま土の中に隠しておいた。さて、主人が帰って来た時、タラントンを増やした家来たちは主人から褒められます。

しかし、タラントンを土の中に隠しておいた家来は、そのタラントンをそのまま主人に返します。すると、主人は彼を「怠け者の家来」と呼んで叱ったというお話です。彼は何も不正をしたわけではない、主人から預かったタラントンをそのまま返却したに過ぎません。常識的に考えれば、彼は責められるべきではないですね。

しかし、主人は彼を叱りました。なぜなのでしょうか。あの主人は神様であり、あのタラントンは神様から一人一人に託された賜物だったのです。そういえば、このタラントンという聖書の言葉から「才能」を意味する「タレント」という言葉が生まれたと言います。上から頂いた賜物は横にいる人々と分かち合う。これが聖書の基本的な考え方です。自分には賜物が無い、才能が無いと言うのは、謙遜な態度ではないのです。

さて、ローマ書に戻りますと、この6節から8節にかけて記されている様々な賜物とその生かし方は、よく見ますと、サンドイッチのような形になっています。様々な賜物が語られている部分がサンドイッチの真ん中の具の部分です。そしてそれらを真ん中にして、両側を挟んでいるのが、3節の「慎み深く」という言葉と、9節の「愛」という言葉です。つまり、真ん中にある様々な賜物とその生かし方を支えているのは、一人一人の「慎み深さ」と「愛」なのだと、パウロは言っているのです。ここは私たちが教会の交わりや奉仕を理解する上で、とても大事な示唆を与えるものだと思います。教会の交わりの中で、私たちが、賜物を生かして奉仕をしたり、支え合ったりする場合、大事なのは、その人の力量でもなければ能力でもなくて、慎み深さと愛なのです。その愛について、パウロは9節から語っていくのですが、それをパウロは「愛には偽りがあってはならない」という言葉で始めております。

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」

これは意外に思われるかも知れませんが、パウロという人は、愛について語ることに、非常に慎重なところがあります。特にこのローマ書は、非常に長い手紙であるにも関わらず、愛について語ったところが意外なほど少ないのです。それが今、パウロは、教会の交わりを語るに際して、満を持したかのように、愛について語り始める。教会の交わりだから、語るのです。私たちは、そのことの重みを、やはり、しっかりと受け止めたいと思います。

その愛について語る言葉の、その最初に、パウロが言ったことは「愛には偽りがあってはならない」ということでした。この「偽り」という言葉は、もともとは「役者」という意味のあった言葉です。役者、つまり、お芝居の役を演じる俳優です。当時の演劇は、ほとんどが仮面劇です。上から見ただけでは素顔が見えない。素顔を見せないで演技をすることから生まれた言葉です。つまり、愛には偽りがあってはならないというのは、愛の行為を役者のように振舞うなということです。役者というのは、あくまで演技をします。心ではなくて、演技で愛の行為を振舞って見せる。教会の交わりにおいては、そういうことがあってはならないのだとパウロは言うのです。

そしてパウロは「愛には偽りが無い」「愛は偽らない」と語った後で、その偽りなき愛に生きるとは、どういうことなのかを語り始めます。

「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」

パウロは「互いに」という言葉を繰り返しています。上から、つまり神様からいただいた愛を横に分けるという営みは、決して一方通行に終始するものではないのです。ここに「愛の相互性」があります。

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」

これは「あなたがたの内でいちばん偉い人は、皆に仕える者になりなさい」というイエス様のお言葉を思い起こさせます。

そして、以上の事柄すべてを貫いているのが、やはり、3節の「慎み深く」ということだと思うのです。パウロが言う「慎み深さ」とは、日本的な謙譲の美徳でもなければ、遠慮でもない。「健やかに生かされている」という意味が、この「慎み深い」という言葉にはあったのです。健やかに生かされている自分を知る。主イエスに贖われ、救われて、教会の交わりの中で健やかに生かされている自分を知る。そこから、互いに仕え合い、互いに愛し合う生き方が始まっていきます。「聖徒の交わり」は、ここにハッキリと現れている。この生き方に、素直に従う者でありたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

7月20日(日)のみことば

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない。」(旧約聖書:イザヤ書42章2~3節)

「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」(新約聖書:マタイ福音書27章42節)

今日の新約の御言葉は十字架の主イエスを嘲る人々の言葉です。私たちは、ここを読みますと、なんてひどいことを言うのだと思って憤慨してしまいますが、しかし、よく考えてみますと、これは、私たち人間が心の奥底に秘めている一つの切実な問いかけではないかと思います。本当にイエスというお方は救い主なのか。本当にイエス様は私のために十字架についてくださったのか。本当に主イエスの十字架は神様の御心であり、神のご計画なのかと。こういう「本当なのか」という疑念、問いかけが、私たちの心の中には確かにあると思います。

しかし、それは、出来事の表面だけしか見ていないから出て来る思いです。大事なのは、イエス様の御業の背後にある憐れみの心を見ることです。はらわたが痛むほどの憐れみの心が、私に向けられている。その憐れみの心は、今日の旧約の御言葉に示されています。

「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すこともない。」

この傷ついた葦、暗くなっていく灯心というのは、傷ついて役にたたなくなった物の代表です。こんな役立たずは普通なら、誰もが捨ててしまう。そういうものです。ところが、主イエスの憐れみは、そういう役立たず、傷ついて捨てられるのを待っている存在に向けられる。主イエスは「私は捨てない」と言われるのです。捨てないというのは、放置しておくということではありません。立ち直らせる。もう一度、命を与える。その上で、新しい使命を与えるということです。イエス・キリストのお姿が、ここにあります