聖書:詩編32編1~5節・コリントの信徒への手紙二5章16~21節
説教:佐藤 誠司 牧師
「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」(コリントの信徒への手紙二5章17~19節)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいますが、その学びも終わりに近づいてきました。使徒信条は父なる神を信じる信仰と御子イエス・キリストを信じる信仰を語ったあと、聖霊を信じる信仰を語ります。そして、使徒信条は聖霊を信じる信仰の中身を、一つずつ丁寧に挙げて行きます。まず初めに「聖なる公同の教会」を信じる信仰を語り、次に「聖徒の交わり」を信じる信仰を語りました。この二つは教会に深く関わることです。私たちが教会の交わりの中で知る恵みと言っても良いと思います。
それに対して、次の三つの事柄、「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」という三つの事柄は、教会の交わりの中で知る恵みと言うより、もっと個人的な仕方で知る恵みと言えると思います。そこで、今日はこの三つの内、「罪の赦し」を信じる信仰について、実際に聖書を開いて、ご一緒に学んで行きたいと思います。
罪の赦しと聞いて、私がいちばん初めに思い浮かぶのは、ルカ福音書の7章が伝える「罪の女」の物語です。こんなお話です。主イエスがファリサイ派のシモンの家に招かれて食事の席に着いておられた時のこと。この町で「罪の女」と呼ばれて蔑まれている女性が高価な香油の入った石膏の壺を持って、ひそかに主イエスに近寄って来た。そして彼女は、主イエスの足もとで、泣きながら涙で主イエスの足を濡らし、自分の髪の毛で主の足を拭い、繰り返し接吻して、香油を塗ったのです。まさに息を呑むような光景です。当然、シモンを始め、そこにいた人々の彼女を見る目は冷たいものでした。
しかし、イエス様だけは違いました。主イエスは、彼女の非常識ともいえる一連の行為を、なすがままに受け止め、受入れておられたのです。なぜでしょうか。主イエスは見抜いておられたのです。この女性の非常識な行為の背後に、ひたむきな愛があることを見抜いておられた。だから、主イエスは彼女にこうおっしゃった。
「あなたの罪は赦された。」
罪の赦しの宣言です。この「罪の女」の物語がその典型なのですが、福音書に出て来る罪の赦しは「宣言」という形で起こることが多いのです。主イエスが罪の赦しを宣言なさるのです。その場合、罪の赦しを宣言された側の人間は、自分の罪が赦されているなどとは、露ほども思っていないことが多いのです。主イエスに香油を注いだ女性も、そうでした。彼女は自分が赦されているなどとは、いささかも思ってはいなかったし、望んでもいなかった。ただ、彼女は主イエスに寄せる愛に突き動かされるままに行動した。ただそれだけです。しかし、この「それだけ」は大きいのです。私は、この「罪の女」の物語は「罪の赦し」の本質を見事に語っていると思います。
今日は使徒パウロがコリントの教会に書き送った第二の手紙の御言葉を読みました。その中に、次の言葉がありました。17節です。
「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」
有名な御言葉ですが、案外、その意味は覆われているように思います。例えば、ここに出て来る「古い」と「新しい」の対比です。「古い」って、どういうことなのでしょう。また「新しい」とは、どういう意味なのでしょうか。「古い」とか「新しい」という言葉そのものは、私たちも日常生活の中で、それこそ頻繁に使います。現代社会は変化のサイクルが極端に短いですから、古いものと新しいものは、目まぐるしく入れ替わります。例えば週刊誌。今日、最新号と銘打たれて店頭に平積みされたものが、ほんの数日後には、平積みはおろか、店内からも締め出されて、古雑誌になってしまいます。新しいものは、より新しいものに場所を譲る。それが当たり前の世の中です。古いと新しいの基準が日々変動していくわけです。
ところが、聖書、特に新約聖書が言う「古い」「新しい」は、そういう変動相場制ではない。基準は固定されているのです。その基準は何かというと、キリストによる罪の赦しなのです。使徒パウロがローマの信徒への手紙の5章でアダムとキリストを対比させて、罪の赦しを語っていますが、あのアダムが「古い人間」の象徴であり、キリストが「新しい人」の象徴なのです。同じパウロが書いたエフェソの信徒への手紙の4章には「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着なさい」という言葉があります。「古い人」とは罪の奴隷となっていた古い私たちのことであり、「新しい人」というのはキリストによって罪赦された新しい私たちのことです。つまり、パウロが言う「古い」「新しい」というのは、罪の赦しと深い関係がある、ということです。
罪赦されるとは、罪の責任を問われなくなる、ということです。罪の責任が取り除かれるのです。素晴らしいことです。ですから、罪の赦しを信じることは、とても大事なことです。一般論として信じるのではありません。ほかでもない、この私が罪赦された存在であることを信じるのです。しかし、それは確かに素晴らしいことではあるのですが、同時に大変に難しいことでもあります。なぜ、自分の罪が赦されていることを信じるのが難しいのでしょうか。
こういうことを考えてみてください。私たちが神様から頂く恵みや喜びは、いろいろあります。今日も健やかに目覚めることが出来た。健康が支えられた。お子さんやお孫さんが志望校に合格した。一流企業に入社した。嬉しい恵みです。私どもの教会で言えば、週報に毎週、感謝献金の報告が掲載されます。献金をされた方のお名前のあとに、括弧にくるまれて、感謝の内容が記されています。皆さん、本当にいろんな事に感謝を覚えて、ささげものをなさっておられる。とても素晴らしいことです。でも、それらは皆、目に見えるものです。
それに対して「罪の赦し」は、どうでしょうか。自分の罪が赦されていることを、私たちはどうして知るでしょうか。こればかりは、見て納得することは出来ないし、確かめることも出来ません。しかし、冷静になって、考えてみてください。神様が私たちに備えておられる恵み、与えてくださる恵みというのは、目に見えないところで与えられることのほうが、圧倒的に多いのです。目で見て確かめることが出来ない恵みがある。その秘められた恵みの第一のものが「罪の赦し」なのです。
罪の赦しが見えないというのは、裏を返せば、自分の罪が見えていないということでもあります。私たちは自分の失敗や惨めさには目が届きます。ところが、それらの根っこにある自分の罪には、なかなか気がつかない。罪に気がつかないから、罪の赦しが分からないのです。じゃあ、どうすれば良いのか。「あなたは罪人だ、罪人だ」と繰り返し語る説教を聞き続ければ、罪の赦しが見えてくるでしょうか。もちろん、そういうことではありません。そうではなくて、罪の赦しを信じるのです。信じるというのは、見て確かめることではありません。納得をすることでもない。
ヨハネ福音書の20章に弟子のトマスの物語があります。復活の主イエスが弟子たちの前に現れてくださった時、トマスだけが不在であった。主イエスと会うことが出来た喜びを語る仲間たちに、トマスの心は穏やかではありません。彼は「あの方の手に釘の痕を見、この指を釘跡に入れてみなければ、私は決して信じない」と言いました。これは言い替えると、証拠を見たら信じるということです。この「見たら信じる」というのは、聖書本来のヘブライ思想には無かったもので、古代ギリシアの思想です。見ることと信じることを直結させたのはギリシアの思想だったのです。トマスはこのギリシア思想の影響を受けていたわけです。
では聖書本来の思想であるヘブライ思想は信じることをどのように捉えていたかと言いますと、ヘブライ思想は信じることを愛することと深く関連付けたのです。ですから、聖書を読んでいますと、信じることを求める文脈で、しばしば愛することが求められている。そういう場面が多いことに改めて気づかされます。復活のキリストがペトロの信仰を立ち直らせる場面で、主イエスは「あなたは私を愛するか」と三度に渡ってお尋ねになりました。私たちは、証拠を見るから信じるのではない。愛するから信じるのです。こんなふうに考えてみてください。皆さんは「愛しているけど、信じていない」なんてことがありますか。「信じているけど、愛していない」などということがあるでしょうか。見るから信じるのではない。愛しているから、信じるのです。
罪の赦しを信じるというのも、これと同じです。私たちは、自分の罪が赦されていることを、どうして知るでしょうか。こればかりは、見て納得することは出来ないし、確かめることも出来ません。万が一、証拠を見て納得することが出来たとしても、それは納得であって、信仰ではない。罪の赦しは、見て信じることではないのです。では、罪の赦しは、どのようにして信じることが出来るのか。この疑問を解く鍵は、やはり「愛」だと私は思う。パウロは、第二コリントの今日読んだ箇所に先立って、こう語っています。14節です。
「事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。」
ここは昔の文語訳聖書は「キリストの愛われらに迫れり」と訳していました。キリストの愛が迫って来るのです。キリストの愛が迫って来る時に、いったい何が起こるか。それを最も雄弁に語っているのが、今日のお話の最初にご紹介した、あの「罪の女」の物語です。あの女性が取った異常とも言える行為は、すべて愛が結んだ結晶でした。しかし、それは彼女がイエス様に向けた一方通行の愛ではない。涙でイエス様の足を濡らし、髪の毛で拭い、接吻して香油を注いだ。この息を呑む行為は、この人が迫り来る主イエスの愛に応えて取った行為です。主イエスの愛が迫って来る。それに抗うことなく、むしろ身を任せた時、あの行為が出て来た。主イエスはそれを見抜いておられたと思います。だから、主イエスは、こうおっしゃいました。
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。」
そして、主イエスは、今度はこの女性のほうを見て、こう言われました。
「あなたの罪は赦された。」
罪の赦しの宣言です。罪の赦しは、罪の赦しをもたらすお方の宣言から始まります。しかし、彼女は自分の罪が赦されていることを、どうして知ったでしょうか。もちろん、証拠を見たから信じたのではない。迫り来る主イエスの愛を受けて、心からの愛を主イエスに注ぎ出すことが出来た。この愛され、愛するという愛の中で、この人は知った。私は愛されている。私は赦されている。そして私は愛している。彼女は主イエスを信じる信仰の中で、罪の赦しを信じたのです。だから、主イエスは最後に、こうおっしゃいました。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
私たちも、このお言葉を罪の赦しの宣言と共に、頂いています。そのことを信じて、新しい一歩を踏み出していきたいと思います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
7月27日(日)のみことば
「苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが、あなたの戒めはわたしの楽しみです。」(旧約聖書:詩編119編143節)
「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」(新約聖書:ルカ福音書6章22節)
「人の子のために」と言っておられる。人の子とは主イエスご自身のことですから、これはただ単に憎まれたり、追い出されたりするのではない。主イエスを信じるが故に人々に憎まれることがある。ののしられたり、汚名を着せられたりすることがある。これらは皆、信仰に生きているが故に起こることではないか? だったら、あなたがたは自分を憎む者を憎み返すことが出来ようか? 信仰故にののしられたら、ののしり返すことが出来るだろうか? 憎まれたら憎み返す。たたかれたら、たたき返す。それは世の人の姿ではないか? あなたがたの間ではそうであってはならない。
主イエスはときに不思議な言い方をなさいます。「あなたがたはそうであってはならない」とは言わずに、「あなたがたの間ではそうであってはならない」というふうにおっしゃる。間なのです。英語でいえば「ビトウィーン」です。なぜ「間」なのか? あなたがたはそうであってはならないというのは、一人一人の有り方が問われているのです。それに対して、あなたがたの間ではそうであってはならないという言い方。これはどういうことかと言いますと、あなたがたの間に私はいる、ということなのです。