聖書:エレミヤ書31章31~34節・コリントの信徒への手紙一11章23~26節
説教:佐藤 誠司 牧師
「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、そして言われた。『これは、あなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。』食事ののち、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」 (コリントの信徒への手紙一11章23~26節・口語訳)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。これが使徒信条の第一部です。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語りました。これが使徒信条の第二部で、ここが使徒信条の中心になります。
そして、その次が第三部になります。ここは「我は聖霊を信ず」という言葉で始まることからも分かるように、聖霊を信じる信仰を語っています。そして、使徒信条は続いて、聖霊を信じる信仰の中身を語り始めます。その中身の最初に置かれているのが、「聖なる公同の教会を信ず」という言葉です。使徒信条は教会を信じることを、聖霊の働きのトップに据えているのです。そして使徒信条が次に挙げるのは「聖徒の交わりを信ず」ということです。
先週もお話ししたことですが、同じ「信じる」ということでも、父なる神を信じる、キリストを信じる、聖霊を信じるというのと、教会を信じる、聖徒の交わりを信じるというのとでは意味が異なります。神を信じる、キリストを信じる、聖霊を信じるというのは、信仰の対象として信じているわけです。それに対して「聖なる公同の教会」を信じる、「聖徒の交わり」を信じるというのは、信仰の対象として信じているのではなくて、神様が教会の中に生きて働いておられる、交わりの中に生きて働いておられる。教会とその交わりが神のものであると信じる。そういう意味なのだということを、ここでまず抑えておきたいと思います。
その一点を抑えた上で、今日は「聖徒の交わり」についてお話をするわけですが、いきなり、ここで問題が浮上してきます。「聖徒」とは何なのか、ということです。日本語に訳された使徒信条では、ここは「聖徒」となっています。足羽山に「聖徒之墓」という名の共同墓地があることからも分かるように、この「聖徒」というのはキリスト者のことです。誤解してはならないのが、「聖徒」というのは、その人の性格に起因する呼び名ではない、ということです。「聖徒」と聞きますと、私たちは「聖」という字に捕らわれて、神々しい性格の人とか、立派な信仰の持ち主を連想しますが、「聖徒」というのは、そういう意味は全くない。「聖徒」の「聖」という字は、もともと「神のものとされた」という意味がありました。ですから「聖徒の交わり」というのは立派な聖人君子の交わりのことではなく、神のものとされた人々の交わりということです。
ところが、まことにややこしいことですが、「聖徒」には、もう一つの意味があるのです。使徒信条は、もともとラテン語で書かれたものですが、この「聖徒」という箇所に使われたラテン語の単語を見ますと「サンクトゥス」という語が使われています。この「サンクトゥス」の意味を調べると、二つの意味があるのです。一つは「聖徒」すなわち「キリスト者」という、人を表す意味です。これは先ほどお話ししました。そして、「サンクトゥス」には、もう一つ「聖なる物体」という意味があったのです。ということは、どうですか。ここから分かるのは、使徒信条が言う「聖徒の交わり」には、二つの意味があったということです。一つは「聖なる人の交わり」という意味。そして、もう一つは「聖なる物体による交わり」という意味です。前者は人と人との交わりですから、これを譬えるなら「水平の交わり」と言うことが出来ると思います。それに対して、後者は上から与えられる交わりですから「垂直の交わり」と言うことが出来るでしょう。水平の軸と垂直の軸が十字に交差するところに、真の交わりがある。そう言っても良いと思うのです。
では、その「交わり」とは、そもそも、どういうことなのか。そこが疑問として浮かび上がってきます。「交わり」という言葉は、最近では日本でも一般に使われるようになりました。しかし、ほとんどの場合、それは人と人とのお付き合いという域を出ない意味で使われているように思います。しかし、この言葉はキリスト教が生み出した用語です。この「交わり」という言葉の元になったのが「コイノーニア」というギリシア語で、これは「交わり」と訳しても、もちろん差支えはないのですが、より正確に訳しますと「一つのものに共にあずかる」という意味を持っていた言葉です。最近は独り暮らしの人が増えて、機会も少なくなりましたが、昔はクリスマスにまん丸い大きなケーキを買って来て、それをみんなで切って分けました。あっちが大きい、こっちはイチゴが多いとか、童心に戻って、笑いながら過ごしたものです。一つのものを分け合う時、そこに豊かな交わりが生まれます。あれが本来の「交わり」だったのです。
しかしながら、聖書が語る「交わり」は、クリスマス・ケーキを分け合う交わりではありません。先ほど「水平の交わり」と「垂直の交わり」のお話をしました。「水平の交わり」というのは、人と人との交わりです。それに対して「垂直の交わり」がある。それが「聖なる物体による交わり」です。さあ、私たちに上から与えられる「聖なる物体」とは、何なのでしょうか。もう薄々気付いておられる方もおられると思います。キリストの体なのです。ただの体ではありません。十字架で裂かれたキリストの体です。十字架の上で裂かれたキリストの体に共にあずかる。この垂直の交わりに、一人一人があずかる時に、水平の交わりが、ただの人と人との交わりを超えて、祝福されたものになる。水平の交わりと垂直の交わりが、十字架のように重なる時に、主にある交わりが生まれるのです。
ところが、コリントの教会で、この主にある交わりが人々の不信仰によって乱れてしまうという出来事が起こりました。
「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、そして言われた。『これは、あなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。』食事ののち、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」
今日の御言葉を、聖餐式で読まれるように口語訳聖書で読みました。ここには最後の晩餐の席で主イエスが聖餐を制定なさったことが記されています。いわば聖餐の原点です。パウロの視点は全くの一点集中であり、余分なものはすべてそぎ落として、その原点に光を当てております。それは26節の次の言葉です。
「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
なぜこれが原点なのかと言いますと、コリントの教会で共同の食事が大変に乱れていて、そのために正しい聖餐が守れないので、主にある交わりが阻害されている。ぜひこれを正したいと、その願いからパウロはこれを語っているわけです。
しかし、共同の食事が乱れていることと、正しい聖餐が守れないことの間に、いったいどのような関係があるのでしょうか。ヒントになる言葉が使徒言行録の2章の42節に出て来ます。
「一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。」
まことに短い文章ですが、ここに初代教会の生き生きとした姿が描かれています。ここに「パンを裂き」という言葉が出て来ました。私たちは、「パンを裂くこと」といえば、聖餐のことだと教えられてきましたが、じつは、これは共同の食事のことだったのです。じつを言いますと、初代の教会では聖餐は共同の食事の中で祝われておりました。なので、共同の食事が乱れるに伴って、聖餐が正しく行われなくなったのです。当時の日曜日は休日ではありません。早くから教会に来ることが出来たのは、裕福な主人階級の人たちだけです。彼らは食べ物とワインを持参して来ましたので、遅れてやって来る人たちを待つ間に、一杯やっているわけです。それに対して奴隷身分の人たちは、一日の労働を終えて、さらに主人の許しを得て、やっとのことで礼拝に駆け付けました。当然、手ぶらです。共同の食事が始まる頃には、出来上がった人たちと空腹の人たちがいて、分かち合いがなされていない。とてもじゃないけれど、主にある交わりとは言えない状況だったのです。
そこでこの状態を打破するために共同の食事と聖餐を分離したのがパウロだったのです。こうして聖餐は独立して礼拝の中で守られるようになり、共同の食事は「愛餐」という名前が与えられて、礼拝後の営みとなりました。ですから、コリント教会で共同の食事が乱れたということは、ただ単に食事の秩序が乱れたとか、互いの思いやりが無くなったということではなくて、今自分たちが守っている共同の食事がいったい何であるかということが、ちゃんと弁えられなくなっていたということです。ですから、共同の食事が乱れたということは、とりもなおさず、それと分かち難く結ばれている聖餐の意味をも、人々は弁えなくなっていたということです。パウロは、そこを正すために、主があの夜に何をなさったかということを、もう一度思い起こさせるために、この手紙を書いたのです。
「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための、私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事ののち、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』」
この言葉によってパウロが言いたかったのは、聖餐の持つ本当の意味です。聖餐が何を意味し、何を語りかけているか。それをハッキリさせたいのです。だから、パウロは最後に言います。
「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」
主の死を告げ知らせるのが聖餐なのだとパウロは言うのです。ところで、この「主の死を告げ知らせる」というのは、もちろん、主の十字架の出来事を指してはいますが、じつはそれだけではない。主の十字架によって何が起こったのか。そこまでをハッキリと知ることです。主の十字架によって起こったこと。それが「聖徒の交わり」でした。「聖徒の交わり」とは人と人との交わり、水平の交わりだけではありません。「聖なる物体」による交わり、主イエスの体による垂直の交わりがあって、初めて「聖徒の交わり」が引き起こされて行く。そのことを私たちは心に刻みたいと思います。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
7月13日(日)のみことば
「うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(旧約聖書:ヨシュア記1章9節)
「イエスは言われた。『わたしについて来なさい。』」マルコによる福音書1章16~20節
この一言。大事なのは、これだけです。誰かと出会ったとか、誰かに勧められたとか、そういうことではない。イエスというお方が私に向かって「私について来なさい」と言われた。これが大事です。そして、この言葉を聞いた私がどう思ったかとか、どのように迷ったかとか、迷ったあげくに一大決心をしたとか、そういうことが重要なのではない。イエス様に従って行ったこと。これだけが重要です。だからマルコ福音書は、これだけしか書かないのです。
ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも、この主の招きに従っただけです。招きに応えた。ただそれだけです。それ以上のことでは決してない。何か偉いことをやり遂げたというのではないのです。イエス様が言われた、この「従う」という言葉は、じつに含蓄のある言葉であると思います。従うと聞きますと、私たちは、何気なく、ああ、これはイエス様の言われることを聞いてお従いすることなんだなあと思いますが、イエス様が使われたこの言葉は、じつは、もっと具体的な意味を持つ言葉です。どういう意味かと言いますと、背中の後ろにピタリと付いて行くという意味なのです。
