聖書:出エジプト記20章7節・ローマの信徒への手紙8章14~17節

説教:佐藤 誠司 牧師

「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。」 (出エジプト記20章7節)

「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共に栄光も受けるからです。」(ローマの信徒への手紙8章14~17節)

 

私たちは今、日曜日の礼拝で十戒を連続して学んでいます。今日は第三の戒めについて、お話をします。お話を始める前に、その部分、出エジプト記20章の7節を読んでみたいと思います。

「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。」

いかがでしょうか。第二の戒めに比べて、ずいぶんと短いと感じられたのではないでしょうか。短いということは、憶えやすいということでもあります。実際、ユダヤの人々は大昔から現在に至るまで、十戒を完全に憶えています。ところが、どこの社会でも、やりそこなう人というのがいるもので、この短い戒めを間違って憶えてしまう人が、いつの時代にもいたといいます。大事な言葉を抜かしてしまうのです。いったい、どの言葉を抜かしてしまったかと言いますと、「みだりに」という言葉を欠落させて憶えてしまったのです。

さあ、そうなりますと、どうでしょう。「あなたは、あなたの神、主の名を唱えてはならない」となってしまった。「みだりに」という語が入ると入らないとでは、ずいぶんと意味が違ってきます。「みだりに」が入りますと、文法的には「部分否定」になります。みだりに唱えてはならない。だったら、正しく呼ぶのは良いのだな、ということになります。

ところが、「みだりに」を欠落させると、どうでしょうか。「主の名を唱えてはならない」となってしまいます。これは部分否定ではなく、全否定です。そんなバカなことがあるかと思われたかもしれません。しかし、これと同じことが、実際にユダヤ教の歴史の中で起こりました。ユダヤの人々の間で、神の名を唱えない時代が続いたのです。その結果、どうなったかと言うと、神様の名前の正しい呼び方が分からなくなってしまったのです。ヘブライ語は、子音だけが文字で表されていていて、それにどのような母音を付けるかで、読み方が決まります。旧約聖書を開きますと、「主」という呼び名がたくさん出て来ます。これがじつはそうでありまして、四文字の子音は文字として伝えられていますが、発音が分からなくなったので、読めなくなった。そこで後の時代に、「名前」という名詞が持っている母音を、そのまま当てはめて、それをもって、これを「ヤハウェ」と表記される読み方をするようにしたのです。少々強引な力技ですが、そうでもしないと、読むことすら出来なかったのです。神様の名前を呼ぶのは、恐れ多いという考えが、ここまで大きな結果を呼び起こしたのです。

このような考えの、どこが問題なのでしょうか。「みだりに唱えてはならない」と言うのですから、適切な唱え方がある、ということです。十戒はそこまで否定してはいないはずです。それが、どうして、神様の名を呼ばないという態度を生んだのでしょうか。十戒の第三の戒めを取り上げるとき、押さえておかなければならないのは、これは元々は魔術を禁じる戒めだったということです。魔術師たちは神の名を唱えることで、その神の力を引き出して我が物としたのです。そう言えば、使徒言行録の19章に、ユダヤ人の祈祷師がイエスの名を使って悪霊を追い出そうとして、却って悪霊にひどい目に遭わされるお話が出て来ました。

十戒は神の名を唱えるなと言っているのではない。あくまで「みだりに唱える」ことを禁じている。じゃあ「みだりに」とは、どういうことなのか。そこが問題になってきます。これはもう、国語辞書で調べれば、たちどころに分かります。「自分勝手に」とか「軽率に」という意味だと、すぐに分かる。しかし、私が昔、神学大学の学生だった頃、旧約の先生に訊いたところ、次のような答えが返って来ました。

「十戒の第三の戒めは、もともと魔術を禁じた戒めなので、『みだりに』というのは『滅びに至るような仕方で』という意味でしょう」。

なるほどと思いました。滅びに至るような仕方で神の名を唱えるなと十戒は言います。禁止の命令です。しかし、聖書が語る禁止や否定には、その背後に正反対のメッセージが隠されていることが、ままあります。例えばヨハネ福音書の3章。イエス様がニコデモに言われた言葉が、そうです。あの時、イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」とも言われました。いずれも厳しい否定です。しかし、この否定の言葉から聞こえてくるメッセージは「神の国にお入りなさい」という招きのメッセージです。このように、主イエスは否定や禁止の言葉を用いて、私たちを招いておられることが多いのです。

十戒の第三の戒めも、同じです。一見、厳しい禁止の命令ですが、その背後には忍耐と慈しみがあるのです。その忍耐と慈しみは、神様が独り子を人として世に生まれさせるという御業によって実を結びました。十戒は「主の名をみだりに唱えてはならない」と言いました。これは禁止の形を取ってはいますが、じつは招きの言葉です。祝福に至るような仕方で、主の名を唱えることが出来る。そういう道があるのです。その道を語っているのが、今日読んだ新約聖書の箇所、ローマ書の8章の御言葉です。

14節に「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」という印象的な言葉があります。聖霊に導かれている。それが神の子なのです。その聖霊の導きによって与えられている心の思いとは、どういうものでしょうか。それは、事あるごとに自分は駄目なんじゃあないかとビクビクしている奴隷の霊ではない。奴隷というのは、どんなに大きな権限を与えられていても、いつ自分の身に危険が及ぶかもしれません。創世記のヨセフ物語で、ヨセフがエジプトの役人の家で信頼されて、大きな権限を委ねられましたが、主人の奥さんの讒言によって、たちまち牢屋に入れられました。奴隷だからです。奴隷というのは、いつ、どんな危険が身に及ぶか全く分からないし、知らされてもいない。

ところが、神様と私たちの関係は違います。聖霊に導かれて、今や私たちは神様の子どもとされている。この聖霊の導きについて、パウロは15節の後半にこう書いています。

「この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。」

「お父さん」と神様に向かって言える。どんなことでも訴えることが出来る。人前で話す時のように、言葉を選んで本心を隠す、なんてことはもう要らない。辛いなら辛いと言い、悲しかったら泣けば良い。助けが必要なら「助けてください」と叫べば良い。そして私たちが「ああ、そうだ。私は神様の子どもなのだ」と気が付く。それは私たちの中で生きて働く聖霊の実りなのです。そして最後の17節です。

「子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

ここに「神の相続人」という言葉が出ております。これは、とてつもない大きな恵みを言い表した言葉です。神様の相続人なんです。その神様とは、世界を支配し、歴史を支配しておられるお方です。私たちは、そのお方の相続人なのです。凄いことです。しかも、これは能力の問題ではない。体が弱いから駄目とか、病気だから、あなたは駄目とか、そういうことはない。私たちは神の相続人とされている。恵みの相続人です。

しかし、この17節には「キリストと共に苦しむなら」という言葉が付け加えられています。さあ、キリストと共に苦しむとは、どういうことなのでしょうか。キリストの苦しみと言うと、私たちは、すぐ迫害とか殉教とか、激しいことを連想します。確かに初代教会の人々は、そういう目に遭いました。しかし、現代社会に生きる私たちは、そうそう迫害されたり殉教したりは、なさそうです。だから、ついつい、この「キリストと共に苦しむ」という言葉が実感を伴って受け取れない。そういうことはあると思います。

しかし、ここに言う「キリストの苦しみ」とは、迫害されたり、殉教したりという、そういう劇的なことではなくて、キリストはいったい何を悲しんでおられるか、何に心を痛めておられるか。そういうことではないかと思うのです。キリストが悲しみを覚え、心を痛めておられること。それは、やはりこの世の罪だと思うのです。

私たちが毎日、新聞やテレビで目にすること、耳にすること。その根底には、やっぱり罪が深く根を下ろしていると私は思います。どうしようもない罪が、この世界の政治や経済、社会の様々な出来事に根を張り、支配力を増している。戦争や争いが絶えない。皆さんも、おそらく、それを感じておられると思うのです。そして、そのために心を痛め、深い嘆きと悲しみを覚えておられると思います。じつは、それこそが、「キリストと共に苦しむ」ということです。初代教会の人たちも、これと同じことを覚えて、祈りました。そして、そのために迫害を受けたのです。今の私たちは迫害されることはないかもしれません。しかし、迫害は受けなくても、私たちがこの世の罪深さに心を痛め、嘆きを覚え、執り成しを求めて祈る。それこそが「キリストと苦しみを共にする」ということです。そして、この主と苦しみを共にすることが、神の相続人であることの動かぬ証拠なのだとパウロは言うのです。

このように、パウロは「私たちはキリストと共同の相続人だ」と言いましたが、そのパウロがガラテヤ書の中で「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」と言いました。またパウロは、律法主義に傾いていく人々に向かって「あなたがたの内にキリストの形が出来るまでは、私は、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」と言いました。

ここから分かりますことは、私たちの信仰生活というのは、キリストが私たちの中に形作られていく歩みだということです。皆さんお一人お一人の信仰の生活の中にキリストの形が作られていくのです。だから、私たちはキリストと離れることが出来ない。パウロが言う「キリストと共同の相続人」とは、そういうことです。

この共同の相続人である私に、主イエスは新たな使命を与えられます。80歳にして、モーセにあの使命が与えられたように、私たちにも使命が託されます。責任が与えられます。何歳になってもこの使命と責任は与えられる。病気になっても、失敗しても「私の羊を養いなさい」と言って、使命と責任を、必要な力を添えて与えてくださる。これは恵みとしての務めです。この務めを果たす中で、私たちは神様を父と呼ぶことが許されています。祝福に至る仕方で神様を父と呼ぶことが出来る。この恵みに応えて歩みたい、そう心から願います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

10月5日(日)のみことば

「私は主、あなたがたの神である。私が聖なる者であるから、あなたがたも身を清め、聖なる者となりなさい。」(旧約聖書:レビ記12章44節)

「食べる人は食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。」(新約聖書:ローマ書14章3節)

ローマの教会に、キリスト者になる前の習慣を引きずって、特定の日を重んじる人が現れました。しかも、同じ教会の中に、そういう日にこだわる考えを迷信だと決め付けて、日に捕らわれる人たちを軽蔑する人々が出て来た。キリスト者になった後も、日にこだわるなんで、馬鹿じゃないかというわけです。これが教会の主にある交わりを阻害したのです。こういう問題は、要するに全員が正しい知識を持ちさえすれば、解決するものです。しかし、その問題が解決した後も、解決されずに残るのは、交わりの回復という課題です。この課題についてパウロが語ったのが、今日の新約の御言葉です。

軽蔑と裁き合い。じつに深刻なしこりが残ったのです。日を守る守らないといった主義主張の問題よりも、はるかに根深く難しい問題です。これが、じつは教会にとっての危機なのです。パウロは、この危機を乗り越えるために、双方の人々にこう言います。

「神はこのような人をも受け入れられたからです。」

これはパウロの一つの特徴なのですが、あなたがたは今既にこのような者とされている、という事実をパウロは語っている。決してああしなさい、こうしなさいとかいう命令、戒めの類ではなくて、今、あなたがたはこういう生き方にされているという現実、事実を述べている。これは大事なことだと思います。