聖書:イザヤ書9章1~6節・ルカによる福音書2章8~20節

説教:佐藤 誠司 牧師

「さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな、私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。『いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。』天使たちが去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」 (ルカによる福音書2章8~15節)

 

アドヴェント・クランツに四本目の明かりが灯って、この朝、私たちはクリスマスの礼拝を迎えました。先週の礼拝で、私たちはルカ福音書が伝えるクリスマスの物語を読みました。そして今日は、先週の続きの箇所を読みます。

この二つの箇所を見ますと、ルカによる福音書の降誕物語は明らかに二部構成になっていることが分かります。第一部を成すのは、第2章の1節から7節です。ここはクリスマスの出来事が歴史の事実として淡々と語られています。これは大事なことです。どうして大事かと言いますと、イエス・キリストの誕生は歴史的な事実だということを、ルカはこの淡々とした描き方で語っているからです。ここに二人の人物の名前が出ております。一人はローマの最初の皇帝であるアウグストス。そして二人目はシリア州の総督であったキリニウスです。

どうして、ルカは、イエス様の誕生を記すに際して、この二人の人物の名前を明記したのでしょうか。じつは、この二人の名前は、キリスト教以外の世界の歴史の書物に、ちゃんと記されている。歴史の書に記録が残っているのです。そういう人物の名前を敢えて記したということが、じつはルカの狙い目でありまして、ルカはこうすることによって、イエス・キリストの誕生が歴史の事実であることを語っているのです。

私たちは、昔の事柄を聴く時に、よく「昔々あるところに」というような話を聞くわけですが、イエス様の誕生は「昔々あるところに」ではない。ローマ皇帝アウグストスの時代に、ユダヤのベツレヘムで起こったことなのだと、時と場所とが明記されている。イエス様の誕生が、何か宗教的な真理を伝えるための寓話や譬え話ではなく、まさに歴史の事実として起こった出来事なのだ、とルカは主張しているのです。

それに対して、2章の8節以降は、また別の語り口を持っております。1節から7節が、どちらかと言えば淡々とした表現で、歴史の事実を語っていたのに対して、絵画的と言いますか、まるで絵を見るようなイメージで、キリスト降誕の福音的な意味を描いている。つまり、ルカは、主イエスの誕生という一つの出来事を伝えるために、歴史的な側面と福音的な側面の二つの方向から語っていることになります。

これはじつは大変に重要な意味を持つことです。どういうことかと言いますと、キリスト教の救いというのは、降誕も復活も聖霊降臨も皆、歴史の事実として起こったことでありまして、事実を土台としているのです。他の宗教のように教祖の教えとか悟りとかを土台にしているのではない。歴史の事実が土台です。事実というのは強いです。誰にとっても同じ意味を持つからです。その意味でキリスト教の救いは万民共通の世界宗教としての意味を持っております。

ところが、人間というのは事実で救われるのではない。クリスマスで言いますと、「イエスは生まれた」という歴史の事実を知ることは、確かに大事なことです。しかし、それだけでは、じつは不十分でありまして、事実の背後に隠されている福音のメッセージを聞き取ることが、どうしても必要になってきます。ですから、キリスト教のメッセージというのは、大抵二本立てで、やって来ます。事実を告げるメッセージと福音を告げるメッセージです。ルカの降誕物語が、まさに、そういう構成になっておりまして、「イエスは生まれた」という事実を告げる第一幕が2章の1節から7節であり、その事実の背後にある福音のメッセージを語っているのが、8節から20節の物語なのです。その福音のメッセージが凝縮されているのが10節です。

「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

この福音のメッセージを最初に託されたのは、誰であったでしょうか。聖書と信仰に通じた学者だったでしょうか。それとも人々に出来事を伝えることに秀でた教師たちだったでしょうか。違います。人々から「嘘つき」と呼ばれて蔑まれ、信用さえしてもらえなかった貧しい人たち、羊飼いたちがこの救い主誕生の知らせを受け、それを人々に伝える勤めを託されたのです。ここにクリスマスの出来事の秘密があると思うのです。8節を見ますと、さりげなく、彼らの状況が記されています。

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」

「地方」って書いてありますでしょう。これは町ではなかった、町の外だったということです。当時の町は、まるで城郭のように周りを塀で囲まれておりまして、街中と町の外は厳しく隔てられていました。彼らが飼っている羊も、自分たちのものではありません。彼らは裕福な町の人たちから、羊を預かって飼っていた。ですから、羊が狼に襲われると、弁償しなければならなかった。だから、彼らは町の人々を恐れて、町の中に入ることは決してなかったのです。町の人々は羊飼いたちを蔑みました。羊飼いたち自身も、自分たちは神の民からはみ出した蚊帳の外に捨て置かれているのではないか、神様の救いから漏れているのではないかという、いわば自分たちに対する疑いの思いが強かったのです。

ところが、この人たちのところに、天からの御使いは現れたのです。

「すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな、私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。』」

皆さん、気が付かれたでしょうか。最初のクリスマスの夜に、救い主の誕生を告げられたのは、この羊飼いたちだけなのです。ここにクリスマスの秘密があります。同じ福音書でも、マルコによる福音書は、主イエスの誕生には触れておりません。イエス・キリストの公の生涯の始まりから語り始めているのです。しかし、ルカは、羊飼いたちに天使が主イエスの誕生を告げたことを、じつに丁寧に書いている。これは、いったい、どういう意味を持っているのでしょうか。

後期ユダヤ教のメシア待望の高まりの中で、多くの人が救い主の誕生を待っておりました。しかし、誰も救い主の誕生の事実を知らない。ところが、人々から蔑まれ、軽蔑されている羊飼いたちに、神様はわざわざキリスト誕生の知らせを持ってきてくださったのです。その御使いの言った言葉の中に、こういう言葉がありました。

「今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」

あなたがたのために、と天使は告げたのです。「あなたがた」とは、まさにこの羊飼いたちのことです。あなたがたのためなのですよと、御使いは言ったのです。ここが肝心要です。この「あなたがたのために」というのは、言ってみれば「狙い撃ち」の言葉です。ワンオブゼムではない、あなたがたなのだという、狙い撃ちです。

私たちは、普段、聖書を読むとき、ああ、羊飼いはこうだったとか、ザアカイはこうだったとか、そういうふうに、何か客観的と言いますか、いわば、はすに構えて、横から話を聞いていることが多いのではないかと思います。しかし、御使いは「あなたがたのために救い主が生まれたのだ」と言いました。光は、まっすぐに羊飼いを照らしている。御言葉の光です。人の事ではなくて、この私が御言葉の光に照らし出されている。この私が、人生に行き詰って、もう私は駄目だと思っている、そのときに、神様は「あなたのために救い主が生まれたのだ」と言ってくださる。

この「あなたがたのために」という福音のメッセージを真正面から受け取ることが大事です。クリスマスのメッセージ、福音のメッセージというのは、神様が、人生に行き詰って望みを失っている人に、わざわざこのメッセージを伝えに来られた。そしてその人がこのメッセージを自分のためのメッセージとして受け取って、絶望の淵から立ち直った。それがクリスマスのメッセージの秘密です。

皆さん、ご存知のことと思いますが、水野源三という人がおります。まばたきの詩人と呼ばれた人です。どうして「まばたきの詩人」と呼ばれたかと言いますと、この人は小学生の時に赤痢にかかりまして、その後遺症のために、体が動かなくなってしまった。ものも言うことが出来なくなった。寝たきりの人です。このような人が、自分の人生を幸せな人生だと全部肯定して、自分の人生を幸いな人生だと信じて生きているなんて、私たちには信じ難いことかも知れません。しかし、水野さんと言う人は、自分の人生をそういうものとして受け取ったのです。どうしてそのようなことが可能になったのでしょうか。それは、クリスマスのメッセージ、「あなたがたのために救い主が生まれた」というメッセージを自分に向けられた福音のメッセージとして受け取ったからなのです。

そして、寝たきりの生活の中で、生きているというだけの生活の中で、生かされている感謝と喜びを、何とかして表そうと、彼は詩を書き始めるのです。もちろん、自分で詩を書くことは出来ません。そこで、お母さんが、あいうえおの五十音表をかざしまして、それを水野さんが目で追う。そして、ここというところで、まばたきをするのです。こうして、つむぎ出された言葉の一つ一つが珠玉のような詩となりました。すべて自分の人生を喜ぶ詩です。神をほめたたえる詩です。

私たちは、ついすると、イエス・キリストが生まれたということを、何か距離を置いて考えているのではないでしょうか? すべての人に与えられる大きな喜びと言われております。それは確かにそうかも知れないけれど、それは、あくまで聖書の中のお話。早い話、今の私の苦しみや悩み、不幸をどうしてくれるのだ。礼拝で喜びのメッセージが語られるほど、自分だけが取り残されたような気がして、辛くなる。そう心の中で思っておられる方もあるかも知れません。

しかし、もし、そうであるならば、どうして私たちは悲しんでいる人に向かって「クリスマス、おめでとう」と言えるでしょうか? 聖書の中には「私はあなたの名を呼ぶ」という言葉が、形を替えて繰り返し出て来ます。ザアカイの物語だって、そうですね。なぜ名を呼ぶお話が多いのか。贖いが成立するときに、相手の名を呼んだのです。神様は皆さんお一人お一人の名を呼んで「あなたのために救い主が生まれた」と言っておられる。イエスというお方は、私たちのために生まれてくださいました。

神様はこの救い主誕生の知らせを、裕福な、恵まれた人たちではなく、自分でももう自分は駄目だと思っている人のところに、わざわざ来て、知らせてくださいました。この一年を振り返って、大変な一年だったなあと思います。景気の回復とは裏腹に、どこかに平和に反対する勢力がある。個人的に言いましても、ほかの人は幸せでも、もう自分の人生は先が見えておるなあと、どこか心の隅で不安がある。幸せには程遠い人生だなあと思う。しかし、神様は、そんな私たちに目を留めて「あなたのために救い主がお生まれになった」と継げてくださる。

さて、天使の言葉を聞いた羊飼いたちは、立ち上がって、互いにこう言い合います。

「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」

これは「主が知らせてくださったことが本当かどうか確かめに行こう」ということではない。そうではなくて、主が知らせてくださったその出来事を見る。信じて見るということです。そして、彼らは、ついに探し当てる。ベツレヘムの町外れの馬小屋の中、飼い葉桶の中に寝かされた幼子を見るのです。何も珍しい風景ではない。輝かしい風景でもない。しかし、このありふれた風景の中に、彼らは、神様の約束が成就しているのを見ることが出来た。それが羊飼いたちの喜びです。

どうして、この貧しい風景を見て喜んだのか。赤ちゃんが寝かされているだけの風景を見て、喜んだのは、なぜか? それは、まず、神様の約束があって、その約束どおりのことがあったから喜んだのです。ここが大事なところだと私は思います。決して壮大な、輝かしい風景を見たから喜んだのではない。約束どおりのことを見たから、喜んだのです。

私たちも、教会に来たからといって、何も珍しいものを見つけるわけではありません。けれども、私たちが見聞きする一つ一つの事が、神様の約束とのつながりの中で見直された時に、ああ、何もかもが神様がおっしゃったとおりだったなあと、改めて自分の人生が神様の御手の中にあったことを思わされていく。そのときに、あの羊飼いたちがそうであったように、感謝をささげ、神を賛美しながら自分の生活へと帰って行くことが出来るのではないかと思います。自分の人生が神様の御手の中にあることを発見する。神様は約束を守るお方だと知る。それこそが神様を信じる者の幸いであると思うのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

12月21日(日)のみことば

「暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも、そこでも、あなたの手は私を導き、右の手は私を離さない。」(旧約聖書:詩編139編9~10節)

「それで、きょうだいたち、私たちは、肉に従って生きるという義務を、肉に対して負ってはいません。」(新約聖書:ローマ書第8章12節)

私たちには「義務」があるのだとパウロは言います。どういうことかと言いますと、私たちは信仰によって義とされた、罪を赦された、もう罪に定められることがない、と、これはキリスト教信仰の大事な部分ですが、そういうことを聞きますと、「じゃあ生活はどうでも良いのか」という疑問が起こってきます。この問題は、コリント教会の人々から突きつけられたものらしく、パウロはコリント滞在中に書いたローマ書の6章以下のところで、この問題を繰り返し取り上げています。6章の始めでは「恵みが増し加わるために、罪に留まるべきだろうか」という問題を提起していますし、6章15節では「私たちは律法の下ではなく、恵みの下にいるからと言って、罪を犯しても良いのだろうか」と問いかけています。じつは、これは、私たちが信仰生活を送る中で絶えず起こってくる問題です。

キリスト者は、いったい、どういう生活をしたら良いのか、という問題です。それに対して、パウロは今日の箇所で「私たちには一つの義務がある」と、そういう言い方で答えているわけです。決してぐうたらな、でたらめな生活をしても良いというわけではない。しかし、「義務」という言葉は、響きがきついですね。ここは以前の口語訳聖書ですと「果たすべき責任がある」というふうに訳されていたところです。やっぱり「責任」のほうがいいです。なぜかと言いますと、「義務」というのは自己完結的なのです。それに対して「責任」というのは自己だけでは成り立たない。誰かに対する「責任」なのです。パウロが言いたかったのは、やはり「責任」ということだと私は思います。