聖書:創世記45章1~15節・ローマの信徒への手紙8章28節

説教:佐藤 誠司 牧師

「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45章7~8節)

 

今日は創世記の45章のヨセフ物語のクライマックスの場面を読みました。創世記の最後にあるヨセフ物語は、旧約と新約から成る聖書全巻の中で最も長大な物語です。今日読んだのは、ヨセフが様々な出来事を振り返って、今それがどういう意味を持っていたかということを確認している場面です。その中で、ヨセフは次のように語っています。7節です。

「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」

これは注目すべき言葉です。私たちがこの物語を読む時、兄さんたちの妬みを買って殺されそうになったヨセフが、神の御手によって守られ導かれて、エジプトで一国の指導者となった。そればかりか、お父さんと再会を果たし、兄さんたちと和解の再会を果たす。そういう波乱万丈の物語として読むことが多いのではないかと思います。もちろん、それは間違った読み方ではないのですが、先ほどのヨセフの言葉を読みますと、神様がヨセフを守ってくださったというだけでは十分ではない。もっと奥深いものがあると思います。

兄さんたちは確かにヨセフを殺そうとしたし、奴隷に売り飛ばした。この兄たちの罪の行為の中に、神様が介入しておられるのです。これは言い換えますと、人間の罪が神の計画の中にある、ということです。どうして神様はこのようなことをなさったのか。

ヨセフが奴隷としてエジプトに売られる時のことを振り返ってみますと、嫉妬に狂った兄さんたちがヨセフを殺そうとしたのですが、ルベンという兄さんが殺すのはやめようと、この井戸に放り込んでおこうと言った。ルベンは後で助けに来るつもりだったのです。ところが、手間取っている内に、その井戸の所にミディアン人の商人たちが来てヨセフを穴から引き上げて、イシュマエル人に売り飛ばしたので、彼らがヨセフをエジプトに連れて行ったという込み入った展開を見せます。こうしてヨセフは偶然の上に偶然が重なってエジプトに売られるわけです。

今、私は「偶然の上に偶然が重なって」と言いましたが、じつは聖書は「偶然」ということを語らない書物です。聖書が語るのは偶然ではなく、導きであり、神の計画です。私たちは、訳の分からないこと、説明がつかないことに遭遇しますと、それを「偶然」と呼んでしまいます。しかし、ヨセフは違いました。これは神様が自分をエジプトに追いやった。そのことによって、神様は兄たちと父ヤコブの命を救おうとしておられる。これは神様の計画なのだと、今、ヨセフはハッキリと悟ったのです。

でも、どうしてこの妬みと怒りに駆られて自分たちの弟を殺そうとしたような者たちを神様は顧みてくださるのか。これは聖書における一つの謎と言えるでしょう。しかし、一つだけ言えるのは、これはあのアブラハムに対する神様の契約が根底にあるということです。創世記の12章にありますが、神様が突然、アブラハムに呼びかけられた。「私はあなたを祝福し、あなたを祝福の源とする」と言われました。ここには何の条件もありません。一方的な恵みだったのです。アブラハムはこれを信じて受けただけです。

私たちは普通「契約」といいますと、両方に責任があって、双方に負い目がある。そういうのが契約だと考えます。一方がこういうことをすると、もう一方がこうする、という具合に約束をして契約を結ぶわけです。

こういう相互的な契約が出て来るのは、じつは、あのモーセによるシナイ契約からです。律法を守るなら私はあなたを祝福する。守らないならあなたを呪う。そういう相互的な契約がモーセから始まるわけです。

ところが、アブラハムへの契約・祝福には、そういう条件が全く無い。そして、この約束はアブラハム一代で終わるのではなく、彼の子孫がずっと引き継いで来ました。だから神様は「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だ」と言われる。ヨセフと兄たちの問題、特に兄たちの罪の問題は、この契約の中で受け取られなければならないと思います。

どういうことかと言いますと、ヨセフの兄たちが悪い事をした。弟ヨセフを売り飛ばした。だから兄たちは罰を受けるのだというようなことは、ここには出て来ない。言うならば、あの創世記28章でヤコブが石を枕に野宿をしていた時に聞いた神様の約束、「どんなことがあっても、あなたを見捨てない」という約束が、今、このヨセフと兄たちの罪の出来事の中に実を結んでいるのです。罪を犯した者も、罪の犠牲になった者も、共に神の恵みの中に捕らえられている。だから、私たちがどんなに罪を犯しても、大失敗をやらかしても、そのことによって神様に見捨てられることはない。これは、じつに凄いことだと思います。これが、神様が人間に寄せる慈しみだったのです。この慈しみがアブラハム、イサク、ヤコブの族長たちの歩みの中で明確に示された。だから、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉が、新約聖書に至るまで、重要な意味を持って来るのです。

ところが、モーセから後になると、この約束が見失われていきます。条件付きの祝福というものがモーセ以降に現れて来るのです。条件付きというのは、これこれを守ったら祝福される、守らなければ呪われるというふうに、祝福や救いに条件を付けるやり方のことです。しかし、これは神様の祝福の本来の形ではない。本来の形はアブラハムへの約束の中にあります。一切の条件を付けない祝福の約束です。

人間の側の状態がどうあろうと、決して見捨てない。見捨てないで贖い取る。これが聖書が本来語っている神様の祝福です。このアブラハムへの祝福が、本当の意味で明らかになったのが、じつは、イエス・キリストの御業だったのです。「わたしはあなたを贖った」と神様は言われました。この約束が成就したのが、キリストの十字架です。十字架の上で、神様ご自身が一切の責任を負うてくださいました。御子を十字架につけた罪も、兄たちが弟ヨセフを殺そうとした罪も、全部キリストが担ってくださった。

イエス様のことを「インマヌエル」と言います。「神は我らと共におられる」という意味であることは、私たちのよく知るところです。けれども、私たちはこの言葉の重み、重さを受け止めているでしょうか。私たちは、ある程度までは「神が我らと共におられる」と信じています。しかし、もっとひどいことが起こった時に、神様がここに、この私の苦境の中に、なお、いてくださる。こんなひどい罪を犯した自分を、神様はなおも「私の子」と呼んでくださるということを、本当に信じられるだろうか。

毎日報道される悲惨な出来事があります。あるいは、憎んでも憎み切れないような、ひどい罪を犯した人たちがいます。そういう罪を犯した人を見聞きする時、私たちは、この人が救われるということを信じることが出来るでしょうか。心の中で「こんな奴は死刑だ」と叫んでいる。正義の名のもとに叫んでいるのではないかと思います。

しかし、イエス様は、そんな死刑になる人たちと共に、同じ刑を受けてくださった。同じ苦しみを味わってくださったのです。これが「インマヌエル」という言葉の本当の意味です。

そして、イエス様は「陰府にまで下って行かれた」と聖書に書いてあります。病気で死んでいく人、事故で死んでいく人がいます。「死んでいく時は独りだ」とよく言われます。しかし、私たちは独りで陰府に下るのではない。イエス・キリストが共に下ってくださる。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共におられる」と詩編23編に歌われているとおりです。どこへ行っても、イエス様がおられない所は無い。誰が何と言おうと、お前はもうダメだと言われようと、イエス様は「そうではない。わたしはあなたを見捨てない。わたしはあなたと共にいる」と言ってくださる。嵐に遭う時も、嵐の中におられる。死の恐怖の中にあるときも、その中におられる。私の救い主としておられる。これが、神様がアブラハムに与えてくださった祝福の中身です。新約聖書のいちばん初めに、マタイ福音書がありますが、あの福音書の冒頭に系図が書いてあります。イエス・キリストに至る系図ですが、その系図のいちばん初めに、何と書いてあるでしょうか。

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」

これはどういうことかと言いますと、イエス・キリストというお方は、アブラハムに与えられた神の祝福を完成なさったお方なのだと語っているのです。そして、アブラハムが受けた祝福の約束はイエス・キリストをとおして、すべての人に及びました。創世記12章のアブラハムの物語に、次のように書かれています。

「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

あの時、アブラハムが受けた無条件の祝福を、今、私たちがイエス・キリストによって受け取っています。私たちに求められているのは、神様に何かお返しをすることではなく、差し出された祝福を「ありがとうございます」と言って受け取る。ただそれだけが求められています。

アブラハムは、跡継ぎの男の子を与えるという約束を受けた時、100歳でした。もう自分たち夫婦には子供は与えられないだろうと、諦め切ったその時に、あの約束を受けたのです。信じられないという思いは、アブラハムの中にもあったと思います。しかし、彼は、そういう自分の思いを先に立てることをせずに、神様の約束を感謝をもって受け取った。大切なのは、ここなのです。

旧約聖書と新約聖書を貫くメッセージは何かというと、これはもう「わたしはあなたを祝福する」という一方的な恵みの約束ということに尽きると思います。

この一方的な恵みに対して、人間の罪ということが起こってくるわけです。さあ、人間の罪とは、どういうことなのでしょうか。人間の罪の本質。それは一方的に差し出された神の恵みを受け取らなかったことに尽きます。アダムとエバの罪から、主イエスを十字架につけて、あざ笑って見ていた人々の罪まで、共通するのは、今目の前に差し出されている赦しと祝福を受け取らなかったことです。信じられなかったのです。ヨセフの兄たちは、この赦しと祝福を受け取りました。自分たちはこんなにひどい罪を犯したのだから、赦されるわけがないなどとは、一言も言わなかった。

これと同じことが十字架の贖いの場でも起こりました。主イエスと共に十字架につけられた犯罪人が、その人です。初めのうち、彼は、もう一人の犯罪人に向かって、こう言っておりました。

「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」

自分たちは重い罪を犯したのだから、赦されなくても当然なのだという思いが、この人にはあったのです。ところが、となりにいて同じ刑を受けている主イエスの姿を見て、この人は変わった。彼は主イエスに向かって、こう言ったのです。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

彼は自分に差し出された赦しを受け入れたのです。だから、主イエスは彼に言われた。

「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

罪が重いから死刑だというのは、人間の物差しに過ぎません。神様の赦しと祝福は人の思いを超えて深い。そしてこれと同じ祝福がイエス・キリストにおいて私たちにも差し出されています。この驚くべき恵みを、感謝をもって受け取りたいと思います。

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

2月25日(日)のみことば

「彼らは皆知っている。主の御手がすべてを造られたことを。すべての命あるものは、肉なる人の霊も、御手の内にあることを。」(旧約聖書:ヨブ記12章9~10節)

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(第二コリント書4章18節)

使徒パウロがコリント教会の人々に書き送った手紙の一文です。ここには「見える」という言葉と「見えない」という言葉が際立った対照を見せて使われています。一読して、すぐに分かることは、パウロが「見えるもの」よりも「見えないもの」のほうに大きな価値を見いだしていることです。

見えるものが私たちの心を捕らえてしまうことがあります。特に昨今の日本の社会は見えるものが重んじられます。学校に行けば見える形で成績を上げないといけない。会社に行けば、見える形で業績を上げないと評価されません。目に見える成果を上げよ、というのが社会全体の合言葉にすらなっている。それが今の日本の社会ではないかと思います。しかし、それで良いのか、というのが聖書の問いかけです。見えるものは一見、説得力があるのです。しかし、見えるものは奪われると無くなります。本当に大切なものは、目に見えないものではないでしょうか。