聖書:詩編100編1~5節・使徒言行録20章25~38節
説教:佐藤 誠司 牧師
「どうか、あなたがた自身と羊の群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神がご自身の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです。私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです。」(使徒言行録20章28~32節)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。これが使徒信条の第一部です。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語りました。これが使徒信条の第二部で、ここが使徒信条の中心になります。そして、その次が第三部になります。ここは「我は聖霊を信ず」という言葉で始まることからも分かるように、聖霊を信じる信仰を語っています。先週はその1回目として「我は聖霊を信ず」という言葉を取り上げました。続いて使徒信条は聖霊を信じることの中身を語り始めます。その中身の最初に置かれているのが、「聖なる公同の教会を信ず」という言葉です。使徒信条は教会を信じることを、聖霊の働きのトップに据えているのです。
そうお聞きになって、違和感を抱かれる方も少なからず、おられると思います。第一部の父なる神を信ずというのも、第二部のイエス・キリストを信ずというのも、よく分かる。第三部の「我は聖霊を信ず」というのも納得が出来る。しかし、「教会を信じる」というのは、いかがなものかと、そうお感じになった方もおられると思います。
これは、ある面、もっともな感想だと思います。教会と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、おそらく、牧師がいて、婦人会があって、役員さんがいてという具合に、人間が作っている集まりではないかと思います。また、教会の歴史を振り返りましても、多くの汚点・欠点が目につきます。十字軍で多くの血を流し、異端審問や宗教裁判といった、暗い、負の歴史は学校の歴史の時間でも学ぶことです。また教会間の争いや競い合いも、人間の弱さ、愚かさを露呈しているように見える。もちろん、教会の歴史が人権とか平等の概念を生み出したという素晴らしい点もあるわけですが、だからと言って「教会を信じる」というのは、どうなのかなと疑問に思う。そういう中で「我は教会を信ず」と告白することに、どのような意味があるのかと、ふと思ってしまいます。教会の弱さや醜さから目を背けて、良いところだけをつまみ食いしていけば、「我は教会を信ず」と言えるようになる、とでも言うのでしょうか。
これについて、昔から言われていることで、今日でも正しい見方だと言われているものに「見える教会と見えない教会」という考え方があります。目に見える教会を信じるのは難しいけれど、目に見える教会の奥に目に見えない霊的な教会があって、それを我々は信じるのだという考え方です。これは昔からある伝統的な教会理解の一つで、教義的にも決して間違いではないのですが、私見を言いますと、なんだか言い訳めいていると私は思います。
では「我は教会を信ず」と使徒信条が言うのは、どういうことなのか。その真の意味はどこにあるのか。それを、私たちは、聖書のどの御言葉を通して知ることが出来るのか。そこが肝心要になってまいります。そういう私たちの願いに、一筋の光を投げかけてくれるのが、今日読みました使徒言行録20章、パウロが死を覚悟してエルサレムに上って行くその前に、エフェソ教会の長老たちをミレトスの港に呼んで、別れを告げる場面です。本来なら17節から読むべきなのですが、それでは長すぎるので、今日は25節から読みました。お帰りになったら、ぜひ17節からお読みになって頂きたいところです。28節から読んでみたいと思います。
「どうか、あなたがた自身と羊の群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神がご自身の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです。私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、私が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」
エフェソ教会は、パウロが三年の間踏みとどまって伝道した教会です。パウロは巡回して伝道した人ですから、三年というのは、じつは異例の長さです。エルサレム行きは命がけの旅です。おそらく、もう二度と訪ねることはないであろうと思うエフェソ教会のことを、パウロは案じている。パウロは、自分が去った後、偽教師たちが入って来て、群れを荒らすことを予見しています。このように、キリストの教会は、いつも危機にさらされています。それだけではなく、教会の内部からも、邪説を唱えて、教会員を自分の配下に収めようとする人が現れる。危険は外からだけでなく、内側からも迫って来るのです。パウロの視線はじつに冷静です。
これは長老たちを責めているのではないと思います。長老たちも、伝道者パウロも、同じ人間です。人間というのは、間違いを犯しやすい存在であることを、パウロは知り抜いているのでしょう。だから、「あなたがた、しっかりしなさい」と言って、はっぱをかけるのではなく、どなたかに委ねている。この別れの物語の本質は、そこにあると思います。
では、パウロは、残して行くエフェソ教会を、いったい、どなたに委ねようと言うのでしょうか。それは、先ほど読んだ箇所の次、32節に記されています。
「そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです。」
「造り上げる」という言葉が出て来ます。これはパウロが特に好んで使った言葉で、元々は建築の世界の用語でした。パウロは、それを信仰のこと、教会のことを言う時に使ったのです。どうしてなのでしょうか。建物と、信仰と、教会。この三つに共通しているのは、いずれも、しっかりとした土台が必要だという点です。そのことを、パウロはコリント教会に宛てた手紙の中で、次のように語っています。
「私は、神からいただいた恵みによって、賢い建築家のように、土台を据えました。そして、他の人がその上に建物を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです。」
建物も、私たちの信仰も、教会も、ダメになってしまうことが、やはり、あります。建物は焼け落ちますし、信仰は無くなってしまうこともある、教会もそうです。しかし、土台は残る。ダメになったら、諦めずに、土台の上に建てなおすのです。
パウロは「あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねる」と言いました。これはエフェソ教会の長老たちに「自信を持って頑張れ」と言っているのではありません。神の言葉に信頼しなさい。そして神の恵みの言葉であるキリストを土台として、あなたがたの信仰も、教会も建て直したら良いのです。少し戻りますが、28節に、次のように記されています。
「どうか、あなたがた自身と羊の群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです。」
「神の教会」という言葉が出ています。パウロは教会のことを言う際、非常にしばしば「神の教会」という言葉で教会を呼びました。問題ばかり起こしてパウロを悩ませたコリントの教会をパウロは「コリントにある神の教会」と呼びました。どうして「神の教会」なのでしょうか。教会は徹頭徹尾、神のものであって、人のものではないからです。ところが、教会を維持・形成していくという業には、人間が深く関わってくるという側面がありますから、熱心な人ほど、その熱心な関わりの中で誤解が生じてくる。自分たちの熱心さが教会を教会たらしめているのだという根本的な誤解が生じてくるおそれがあるのです。しかし、それは、ハッキリ言って間違いです。教会は、パウロがここで言っているように、「神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会」です。
その神の教会の世話をさせるために、御子の血によって贖い取ってくださった人々を監督者にお立てになった。有能だから監督者になったのではない。長老たちが「我こそは」と言って、立候補してなったのではない。欠けのある人間が、愛と憐れみによって、監督者に立てられたのです。
私は、ここを読むたびに思い起こす聖書の物語があります。それはヨハネ福音書21章の復活の主イエスとペトロの間で交わされた言葉です。ご存知のように、ペトロはイエス様が逮捕された時、人々から「お前もあのイエスの弟子だったのだろう」と問い詰められて、「いや、私はあの人を知らない」と、三度に渡って主イエスを否認しました。そんなペトロに、復活の主は、三度、「あなたは私を愛するか」とお尋ねになります。すると、ペトロは大変に悲しんで、「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えた。辛かっただろうと思います。しかし、ペトロが本当の意味で立ち直るためには、ここをうやむやにしたままでは、ダメなのです。この辛いやり取りを通して、ペトロは主イエスを心から愛している自分と、自分を心から憐れんでくださる主イエスの愛に目覚めるのです。主イエスを愛する自分と、自分を愛してくださる主イエス。この両方に目が開かれて初めて、私たちに神の教会の監督者という務めが与えられる。だから、その一点に目覚めたペトロに向かって、イエス様はこう言われたのです。
「私の羊を養いなさい。」
パウロがミレトスの港で長老たちに最後に語った言葉は、こうです。
「そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。」
あなたがたを神に委ねますとパウロは言ったのです。この言葉が、のちになって、キリスト者の別れの挨拶になりました。別れに際して、どういう言葉を相手に投げかけるか。その一点に、その団体の性格や価値が現れると言っても過言ではないと思います。愛する人と別れる時、おそらく、どの団体でも、どの社会でも、分かれ行く相手を、最も確かなものに委ねるのではないでしょうか。パウロは「あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます」と言いました。あれこれある中で、これを選んだのではありません。これしか無いのです。そして、この別れは、正確に言えば、最後の別れではない。キリスト者は、もう一度、相まみえる。神の国、神の御前で、もう一度会う。だから、キリスト者の別れは「また逢う日まで」なのです。金沢におりました時、ある老牧師が最後の最後に息子に語った言葉について、証しを聞きました。彼は愛する息子に、こう語ったのです。「じゃあ、また。」
「じゃあ、また」「また会おう」
私は、この短いの言葉の中に、教会を信じる信仰が豊かに語られていると思うのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
6月29日(日)のみことば
「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」(旧約聖書:アモス書5章4節)
「蝮の子らよ、迫り来る神の怒りから逃れられると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる。」(新約聖書:マタイ福音書3章7~10節)
今日の新約の御言葉は、バプテスマのヨハネの言葉です。じつに激しい言葉であると思います。斧が、木の根元に置かれている。悔い改めにふさわしい実を結ばない木は、たちどころに切り倒される。神の裁きとは、そういうものだとヨハネは言うのです。聞いていた人々は、震え上がったに違いありません。ヨハネは、こうして激しい口調で神の裁きを語りながら、人々に悔い改めを迫ったのです。ですから、ヨハネの結論は、悔い改めにふさわしい実を結べということです。
これは、行いを正しなさいということです。ヨハネのメッセージは、詰まるところ、その一点に尽きる。それが出来ないならば、神の怒りと裁きによって、滅びていくしか道は無いと、そこだけを、ヨハネは語った。ですから、ヨハネが授けたバプテスマも、その延長線上にあるものです。ヨハネのバプテスマは罪を清めるためのものであったと考えられます。ですから、これは、後になって主イエスが宣べ伝える罪の赦しとは質的に異なるものです。ここは、やはり押さえておかなければならない点だと思います。ヨハネからは罪の赦しというメッセージは出て来ないのです。
