聖書:詩編2編1~12節・使徒言行録2章29~36節

説教:佐藤 誠司 牧師

「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデが天に昇ったわけではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に告げられた。「私の右に座れ。私があなたの敵を、あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 (使徒言行録2章32~36節)

「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家にはすまいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(ヨハネによる福音書14章1~4節)

 

今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。この部分は、次のように語られます。

「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、」

イエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだられた。いわば人間が到達する底のまた底、どん底にまでくだって行かれた。そこから一転して、使徒信条はキリストの復活を語りました。そして、使徒信条は、キリストは天に昇られたと語ります。地上には弟子たちだけが残されて、彼らは復活の証人として、キリストの福音を語り始めました。十字架で死なれた主イエスが復活され、天に昇られたことを弟子たちは語りました。

この弟子たちの宣教の働きを批判し、論争を試みる人たちが現れました。主イエスが天に昇られたのが事実だとすれば、主イエスは今、どこにおられるのか。主イエスが今も生きて働いておられるなら、いったいどこで働いておられるのか。主イエスは今どこにおられて、どういう仕方で働いておられるのか。これは論争に打ち勝つために必要というよりも、キリストを信じる信仰をもって生きている一人一人が弁えておくべき事だと思います。

こういう場面を想像してください。生まれたばかりの初代のキリスト教会です。まだ神学的な教理も整ってはいません。周囲には論争を仕掛けてくる人たちがいます。そんな中、信仰を貫くのは、なかなか大変だったと思います。イエス様を救い主と信じている。イエス様が十字架で贖いの死を遂げられ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえられた。そして主イエスは天にあげられたと信じて生きる。そういう信仰を持って生きていますと、必ずと言ってよいほど、こう尋ねてくる人がいます。

「そうなんですか。それではイエス様は今も生きておられるのですね。ではお尋ねしますが、イエス様はどこで生きておられるのですか。どこにおられるのですか。」

さあ、これはなかなかの難問です。私たちなら、どう答えるでしょうか。生まれたばかりの初代教会に集う人たちは、それこそ日常的にこういう疑問・論争にさらされていたと思います。人から問われるだけではありません。これはキリスト者自身の問題でもあるからです。主イエスは今、どこにおられるか。この一点に確信を持つことが、信仰生活を送る上でとても大切な事だったのです。

そこで、信仰に入って間もないキリスト者にとっても、疑問や論争を仕向けてくる人々に対しても説得力のある言葉が求められた。それを語り得たのは、いったい、誰だったでしょうか。それは、主イエスが捕らえられた時、三度、主イエスを知らないと否認したペトロだったのです。その事実を伝えているのが、今日読んだ使徒言行録第2章の御言葉です。使徒言行録の第2章といえば、聖霊降臨の出来事が語られたところです。つまり、このペトロの説教は、ペトロ個人の説教というより、生まれたばかりのキリスト教会が初めて語った福音のメッセージなのです。そのことを心に留めていただいて、ペトロの説教を見て行きたいと思います。32節をご覧になってください。

「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。」

ここにハッキリと「神の右」という言葉が出て来るのです。繰り返しますが、これは聖霊降臨の直後、教会が誕生してすぐに語られた説教です。この時点で、イエス・キリストが天におられる、しかも神の右におられることを明確に語ったのは、生まれたばかりの教会だけだった。しかも、ここでペトロは、ただ「天にあげられた」と言うのではなく、「神の右にあげられた」と語っている。復活の主イエスののおられるところを明言しているのです。そして、ペトロは、その根拠として旧約の詩編の110編を挙げています。

この詩編110編は「王の詩編」に分類される詩編です。この詩編が生まれた頃には、神の御心を行う王は、やがて神の右に座ることを許されるという信仰が、人々の間に広く行き渡っておりました。そして、それが時代が進むと共に、メシア、救い主こそが神の右に座すにふさわしいと信じられるようになったのです。

ただ、私たちが「神の右に座したまへり」という使徒信条の言葉を口にする時に、気をつけなければならないことが、一つ、あります。「神の右に座しておられる」と聞きますと、私たちは、どうしても主イエスのおられる場所を連想します。その理解は必ずしも間違いではないのですが、「神の右」という言葉には、もう一つ、大切な意味がある。それは「父なる神との関係」であり、そこから生まれる「働き」という意味があるのです。

これをただ「場所」のことだと理解をしますと、じゃあイエス様は天に昇られてから、ずっと神様の右に座りっぱなしなのかという誤解が生じてしまいます。もちろん、そんなことではないわけで、この「神の右」というのは、場所という意味はもちろん、あるのですが、それよりも、むしろ神との関係であり、またその関係から生まれる働きのことなのです。日本語でも「彼は私の右腕だ」などと言いますね。神様の右の手となって働く。右腕となって働く。そういう隠された意味合いが、この「神の右」という言葉にはあるのです。

以上のような事を踏まえますと、主イエスが天に昇って神の右におられることには、特別な意味のあることが分かります。神様が主イエスをご自分の右におらせて、支配をすべて御子イエス様に委ねておられるのです。御心を御子イエス様によって実現させようとしておられる。そういうことです。問題は、その事と私たちとの関係です。イエス様が神の右におられて、父なる神様の全権と権威を委ねられておられる。その事と私たちの関係は、どうなのか。関係があるのか、無いのか。あるとすれば、それはどういう関係なのか。そこが肝心要になってきます。

ちょっと話が飛ぶようですが、ヨハネ福音書の14章に、主イエスが十字架につけられる前の晩にお語りになった言葉があります。イエス様は弟子たちに、こう言っておられるのです。

「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家にはすまいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

これは、私が葬儀の冒頭で必ず読む御言葉です。主イエスの約束の言葉です。何を約束しておられるのでしょう。私は去って行く。あなたがたのために場所を用意するために去って行く。行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻って来る。そして、あなたがたを私のもとに迎える。私のいるところに、あなたがたもおらせる。これが主イエスの約束、究極の約束です。

主イエスが「あなたがたを私のもとに迎える」と言われた、「私のもと」とは、ここのことだったのです。まことに畏れ多いことではありますが、主イエスは私たちを神の右に迎えると言っておられる。私たち罪人が、こともあろうに神の右に、場所が定められている。私たちを待っているのは楽園ではありません。神の右に、迎えられる。創世記3章で、人間は楽園を追放されたのです。あの楽園には、人間は二度と帰ることは出来ません。しかし、罪赦されて、神の右の、すでに神が用意しておられる所に帰って行く。だから、主イエスは、先の御言葉に続けて、こうおっしゃった。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」

主イエスという、まことの命に至る道を通って、帰って行くのです。では、私たちが、主イエスと同じところに招かれていることには、どのような意味があるのでしょうか。私は、先週の礼拝の中で、次のようなお話を致しました。

主イエスは天に昇って何をなさっておられるのか。執り成しをしておられるのです。しかも、この執り成しは、十字架の上でなされた執り成しとは意味合いが全く違う。十字架上の執り成しは罪の赦しのためのものでした。しかし、天に昇られたキリストがなさる執り成しは、もはや罪の赦しのためではない。天におられる主イエスは、父なる神様と地上の私たちをつないでおられる。私たちが神様からそれて行く時も、心を遠ざける時も、たとい私たちが罪を犯して神様から離れるようなことになったとしても、主イエスがいつもつないでいてくださる。これがイエス・キリストが天に昇られて、成し遂げてくださる執り成しです。

主イエスが神の右の座におられて、執り成しをしておられる。父なる神様と私たちとをつないでおられる。そのことを非常に格調高く、心躍る高揚感を持って語った御言葉があります。使徒パウロがローマ教会の人々に宛てて書いた手紙の8章31節以下の御言葉です。少し長いのですが、ここはカットすべき言葉が一つも無い。読んで味わいたいと思います。

「では、これらのことについて何と言うべきでしょうか。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。『私たちはあなたのゆえに、日夜、死にさらされ、屠られる羊と見なされています』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」

いかがでしょうか。非常に強い調子で、私たちの救いの根拠が語られています。「引き離す」という言葉をパウロは使いました。キリストが神の右におられて、そこで神様と私たちとをつないでおられるからです。私たちは、神の右におられるキリストによって、神様とつながれている。もう誰も、何も、私たちを神様の愛から引き離すものはない。そして、私たちは、やがて、キリストがおられる神の右に迎えられる。これがまことの凱旋です。使徒パウロが言った「私たちの国籍は天にある」とは、そういうことだったのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月1日(日)のみことば

「少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。」(旧約聖書:サムエル記上2章26節)

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。」(新約聖書:ルカ福音書18章16~17節)

幼子を招く物語です。短い物語ですが、ここには二つの大切な主題があります。第一の主題は、主イエスご自身が幼子を喜んで招き、祝福なさったことです。これが初代のキリスト教会に大きな影響を与えました。そしてその影響は、今でも、教会の中に大切に残されています。こどもの人格にいち早く目を留めて、教会教育と幼児教育の大切さを世に広めた点です。

そして、第二の主題は、主イエスが弟子たちに幼子のようになることをお求めになったことです。幼子のように神の国を喜んで受け入れることを、大人の弟子たちにお求めになったのです。これが第二の主題です。この第二の主題を、私たちがどう聞くか。そこにこの物語の急所があると思います。