聖書:創世記26章12~33節・マタイによる福音書5章5節

説教:佐藤 誠司 牧師

「その夜、主が現れて言われた。『わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに。』イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。」(創世記26章24~25節)

「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイによる福音書5章5節)

 

今日は創世記の26章、アブラハムの息子イサクの物語を読みました。アブラハムやイサクは遊牧民の族長と呼ばれます。この人々はたくさんの家畜を持っていますから、一定の所に定住するのではなくて、飲み水や牧草を追って移動して行きます。イサクは、アブラハムの死後、アビメレクという人が支配していた土地におりました。そこでたくさんの収穫があり、家畜の群れも増えていきました。そうしますと、土地の人たちがそれを妬みまして、かつてアブラハムが掘り当てた井戸をつぶしたり、仲間外れにしたりと、意地悪をした。そしてお終いには、親分のアビメレクが出て来て「もうこの土地から出て行ってくれ」と言って、イサクを追い出しました。

イサクは仕方なくそこを出て、ゲラルの谷というところに移って、そこに天幕を張って暮らすことになりました。そこにも、アブラハムが掘った井戸がありましたが、土地の人たちがそれをつぶしてしまっていた。砂漠地帯ですから、井戸の在る無しは、まさに死活問題です。イサクはお父さんの掘った井戸を掘り直します。そうしますと、またもや土地の人たちが出て来て、その井戸は我々のものだと言い張って、イサクに意地悪をします。

イサクはまた別の所へ行って井戸を掘ります。すると、また土地の人たちがやって来て、この井戸はわしらの物だと言ってイサクを迫害する。すると、普通なら、いい加減腹を立てそうなものなのに、イサクはちっとも争わない。それじゃあと言って、また別の所へ行って、井戸を掘る。とまあ、こういう生き方というのは、どうでしょう。果てしなく続く負け戦ですから、はたから見て、ずいぶんと歯がゆいものがあったでしょう。

イサクも、アブラハムと同じく遊牧民の族長ですから、自分の家族だけでなく、多くの僕や羊飼い、牛飼いたちを抱えている。彼らも家族を養わないといけないわけですから、彼らにしてみれば、自分たちの頭であるイサクに、もっと頑張ってほしい。相手をやっつけるくらいの気概と度胸を持ってほしいと願ったことでしょう。

しかし、イサクは少しも争わない。イサクが意気地なしで気が弱かったから、そういうことになったのでしょうか。確かに聖書を読みますと、イサクという人は穏やかな人であったようです。けれども、意気地なしだったから、気が弱かったから人と争わなかったというわけではない。もっとその根底に、何か別の深い理由があるのではないかと思います。

今、私たちは旧約の創世記を読んでいますが、ここにはイサクのお父さんのアブラハムとイサクの息子のヤコブのことはたくさん出て来ますが、この二人に挟まれたイサクはどうでしょう。あんまり出て来ないのです。イサクが出て来るのは、まずその誕生です。イサクは神様の約束の子だった。老齢で、もう子供は与えられないと思っていたアブラハムとサラに、男の子を与えると神様が約束をしてくださって、お言葉通り与えられたのがイサクでした。

それからイサクが少年であった時、神様がアブラハムに「イサクをモリヤの山に連れて行って、彼を焼き尽くす供え物として捧げなさい」と言われて、アブラハムはそれに従ったという有名なお話があります。

それから、もう一つはイサクの結婚です。リベカという女性を妻に迎えたお話しです。これは先週の礼拝で読みました。そして最後は、年をとって目が見えなくなったイサクが、長男のエサウを祝福しようとしたのですが、間違って次男のヤコブを祝福したという話があります。このように、イサクの話は決して多くはないのです。

これらの中で、イサクの生涯に大きな影響を与えたのは、やはりあの出来事、少年時代に父アブラハムがイサクをいけにえに捧げようとした出来事であると私は思います。あの時、イサクは道の途中で、犠牲に捧げられるのは自分であることを知ったのですが、泣き叫ぶこともなく、お父さんに従った。どうしてそういうことが出来たのか不思議に思いますが、お父さんが神様の言葉に従う人だということ、そしてお父さんは神様に従って自分を犠牲にしようとしていることを、イサクは知ったと思うのです。そして、いよいよイサクが殺されようとしたその時に、神様がそれを止めて、身代わりの雄羊を下さった。そこで、この山が「主の山に備えあり」と呼ばれるようになったという出来事は、おそらくイサクの一生とその生き方に大きな影響を与えたと思います。

私たち人間は、物事を考える時、これはつじつまが合わないとか、これなら筋が通るとか通らんとか、そういうことを考えますが、しかし、何よりも大事なのは、そういう人間の側の理屈ではなくて、神様の御心に従うことなのだ。神様のお言葉に従って、自分の理屈を先に立てない。神の御心に従うということを、イサクはこのモリヤの山での経験を通して、魂の奥底に焼き付けたのだと思います。主の山に備えあり。神様は必ず道を開いてくださる。

イサクが行く先々で人々の妨害や迫害に遭いながらも、決して諦めることなく、次の土地、次の土地へと希望を失うことなく移って行けたことの背後には、神様は必ず道を開いてくださるという、あの経験があったと思います。イサクという人は、自分が神の祝福の内にあることを信じることが出来た人なのです。だから彼は、土地の人たちに意地悪をされても、無理難題を吹っ掛けられても、文句の一つも言わないで、それに従った。理不尽なことを言う人たちに譲って譲って、次に移って行った。これはこの世の目からみれば、際限のない負け戦です。

しかし、本当はそうではなかったのです。最後に、イサクはそこから移って行って、また井戸を掘ったのですが、土地の人々との間に、もはや争いは起こらなかった。それからイサクはそこからベエル・シェバに上って行きますと、そこで彼は神様の語られる言葉を聞きます。

「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに。」

自分は神の祝福の内にあるのだと信じて歩んできたイサクに、神様は「そうだ。私はあなたを祝福する」と答えてくださったのです。そこでイサクは主の名を呼んで礼拝をし、イサクの僕たちは井戸を掘りました。こう考えますと、井戸というのは、イサクの場合、神様の祝福の象徴のような感じがします。はじめはお父さんが掘った井戸を掘り直しました。こうして彼は父の足跡をたどったのです。そして、やがてイサクは自分の井戸を掘って行きました。いずれも滾々とわき出る神の祝福を象徴しています。

そういう時に、イサクのもとに、意外な訪問者が現れます。かつてイサクに意地悪をして追い出した土地の親分アビメレクが部下を引き連れて仰々しい有様でやって来たのです。イサクは、またもやアビメレクが自分を迫害しにやって来たのかと思って尋ねますと、意外な答えが返って来ます。アビメレクは、こう言ったのです。

「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」

いかがでしょうか。「我々は以前、あなたに何ら害を加えず、無事に送り出しました」だなんて、よくまあ、ぬけぬけと言うもんだと思いますが、最後のこの一言は、どうでしょうか。アビメレクはこう言ったのです。

「あなたは確かに、主に祝福された方です。」

私は、これは嘘でもお追従でもない。彼の心底からの言葉だと思います。「あなたは主に祝福された方です」などという言葉は、信仰のある人が口にする言葉です。それがどうでしょう。失礼ながら、信仰があるなどとは到底思えないアビメレクが言った。しかも確信を持って言い切った。これはどういうことなのでしょうか。

アビメレクは繰り返しイサクに意地悪をして、ついには土地から追い出した張本人ですが、追い出されたイサクの生き方を陰からじいっと見ていたのです。そうしますと、向こうの土地に行ったイサクが井戸を掘ると、豊かな水があふれ出た。そこを追われて別の所へ行って井戸を掘ると、また水が出た。なんとも不思議だとアビメレクは思ったのでしょう。こうしてアビメレクは、一つのことに気が付いた。「これはただ事ではない。イサクには神様がついているに違いない」と、そこに気が付いたのです。それでアビメレクは、イサクと契約を結ぶことに方向転換をしたわけです。相互不可侵条約のような契約です。

まあ、これは、言ってみれば作戦変更ですから、アビメレクは神様を信じたわけでもないし、悔い改めたわけでもないのです。不可侵条約を結んだとはいえ、隙あらばやってやろうという人間です。そういう人間が「あなたは確かに主に祝福された方です」と言ったのです。

イサクという人は自分が神に祝福されていることを信じた人です。信じただけではありません。神の祝福の上に自分の全生活を建て上げようとした。このことがイサクに、あのような生活をさせたのです。一見、弱々しく見えますし、意気地が無いようにも見える。しかし、本当の強さというものが、この人にはあると思うのです。

そしてイサクという人は優しい、おとなしいというだけでなく、神の祝福というものに対して非常に厳しい側面も持っていた人です。イサクが年をとって目が見えにくくなった時、イサクには長男のエサウと次男のヤコブという二人の息子があったのですが、イサクは長男のエサウを愛して、エサウを祝福しようとしました。ところが、ヤコブがお母さんのリベカと相計って、目が薄いお父さんを騙して兄エサウになりすまし、兄が受けるべき祝福を受けてしまうという事件が起こります。イサクは誤ってヤコブを祝福したわけです。ですから、エサウは祝福をやり直してほしいと泣いて訴えるのですが、イサクは頑としてこれを断ります。いかに間違ったとはいえ、また本意ではないにせよ、ここに神の御心はあるのではないかと、イサクは自分の思いを前に出すのではなく、御心を重んじたのです。私は、こういうところに神の祝福に対するイサクの誠実さと厳しさを見るように思います。

私はイサクの生き方を見て、思い起こす新約聖書の御言葉があります。主イエスが山の上でお語りになった言葉です。

「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」

地を受け継ぐというのは、世界を受け継ぐということです。イサクの生き方が、この御言葉の中にあるように思います。柔和で、人と争わないのです。果てしない負け戦の連続です。多くの人が、あいつは意気地無しだ、腰抜けだと思っていたでしょう。しかし、やがて、その人々の中から「あなたは確かに主に祝福された方です」と言う人が出て来る。悪い思いの中から、良い言葉が生まれて来る。これが地を受け継ぐということではないでしょうか。

主イエスが教えてくださった生き方というのは、確かに素晴らしいけれど、それでは世の中生きてはいけないとお感じになるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。私たちの人生が人間と人間の交渉だけで成り立っているなら、そういうことも言えるでしょう。しかし、私たちの人生には、神様が割って入って来ておられる。神様の祝福が備えられています。そのことを信じて歩みましょう。その祝福の上に生活を建て上げていきましょう。それこそが証しの生活であると思うのです。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

2月11日(日)のみことば

「どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。」(エレミヤ31章18節)

「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」(ローマ書16章13節)

今日の新約の御言葉はローマ書の最後、パウロがローマ教会の一人一人の名を挙げて祝福の挨拶を送っているところです。じつに多くの名前が出て来ますが、その中に注目すべき名前があります。ルフォスです。この人の名前が、マルコ福音書の15章21節に出て来ます。「そこへ、アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理にかつがせた。」

ルフォスの父は、あの時、偶然通りかかった道で、十字架を背負う主イエスと出会ったキレネ人シモンだったのです。このあと、ルフォスの父シモンも、その妻もキリスト者になりました。そして、やがて彼らの息子ルフォスも洗礼へと導かれるのです。パウロはルフォスのことを「主に結ばれている、選ばれたルフォス」と述べていますが、ルフォスの父シモンは、まさに主の十字架に結ばれて、主に選ばれて、その十字架の重さを身をもって味わった人だったのです。シモン夫妻は、やがてローマへと導かれ、ローマ教会の一員となります。そして、そこでペトロとの出会いが備えられて、二人が語り伝えるキリスト像が、やがてマルコ福音書として実を結んでいくのです。まことに不思議な導きであると思います。