聖書:イザヤ書56章7節・マルコによる福音書11章12~26節

説教:佐藤 誠司 牧師

「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」(マルコによる福音書11章17節)

「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコによる福音書11章22~24節)

 

今日の物語は、二つの出来事が組み合わされて出て来ます。一つはイチジクの木の事件。そしてもう一つが、いわゆる「宮清め」の事件です。今日の物語の理解は、ひとえに、この二つの事件の関係をどう読み解くかにかかっていると言っても過言ではありません。

主イエスがエルサレムにお入りになった翌日。主イエスの一行がべタニアを出たと書いてあります。主イエスはエルサレムにお入りになったものの、エルサレムで宿泊することはなさらずに、エルサレムの近くにあるべタニア村でお泊りになったようです。ヨハネ福音書が伝えるところによりますと、べタニアにはマルタとマリアの姉妹と、彼女たちの弟ラザロの家がありました。主イエスは彼らをこよなく愛して、滞在もされたようです。おそらく、このときも、主イエスは昼間はエルサレムで御言葉を語り、夜はべタニアで休まれた。そして翌朝、べタニアを出て、エルサレムに入られたのでしょう。

その道の途中で、主イエスは「空腹を覚えられた」と書いてあります。この空腹が第一の事件の引き金になります。私たちが持っている日本語の聖書では「空腹」と穏やかに翻訳していますが、マルコがここで使った言葉は、じつはもっと強い言葉です。「飢え」とか「飢餓」と訳すのがふさわしい。そういう強い言葉が使われていることを心に留めていただいて、今少し物語を読み進めたいと思います。

空腹を覚えられた主イエスが辺りを見渡すと、遠くに葉の茂ったイチジクの木を見つけられた。主イエスが近寄って実がなっていないかご覧になった。ところが、イチジクは葉が茂っているだけで、実はなっていなかった。なぜかというと、イチジクの実が実る秋ではなかったからだと、マルコは明記しています。実がなっていないのは、むしろ当たり前だったのです。

ところが、主イエスは意外な行動に出られます。実の無いイチジクに向かって「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言って、イチジクを呪われたのです。このイチジクの木が、翌朝、根元から枯れているのを発見されます。これが第一の事件です。

続いて、第二の事件が起こります。おそらく、主イエスは空腹のままと思われますが、エルサレムに入るや、すぐに神殿に入られた。すると、「そこで売り買いしていた人々を追い出し始め両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返された」と書いてあります。ずいぶんと激しい、これがイエス様かと思えるほど、厳しい行動に出られたのです。

この「売り買いしていた人々」というのは、ただの商売人ではありません。この神殿で礼拝をする人々のための特別な商売です。「両替人」という言葉が出て来ます。これは、ただの両替をする人ではありません。当時のユダヤは、もはや独立国ではなく、ローマ帝国の属州の一つになっていました。流通する貨幣もローマ皇帝の肖像が刻まれたデナリオン銀貨が一般に通用していました。ところが、エルサレム神殿は皇帝の像が刻まれたローマの貨幣を嫌いまして、神殿への献金にはユダヤの伝統的な貨幣を用いることを求めたのです。しかし、そんな古めかしい貨幣は、見たこともない人が多く、神殿への献金に使える貨幣が無いという人が続出していた。そこで神殿の境内に、マージンを取って、デナリオン銀貨をユダヤの貨幣に両替をする商売人が現れたのです。

鳩を売る人々も、同じような理由で、ここエルサレム神殿の境内に現れました。神殿礼拝に来る人たちは、エルサレム在住の人たちばかりではありません。遠くから、中には地中海世界に散らされた人々も巡礼のようにしてエルサレム神殿にやって来ます。その人々が犠牲にささげる鳩を遠路はるばる連れて来るというのは、誰が考えても大変です。そこで、神殿の境内に鳩を売って利益を得る商売人が現れたのです。

このような人々を、主イエスは追い出してしまわれたのです。ヨハネ福音書によれば、主イエスは、縄を鞭として振るい、商売人を追い払ったとまで書いてある。鞭を振るう主イエス像というのは、私たちが普段、あまり思いつかない姿であろうと思います。要するに、ここにあるのは、きつい、厳しいイエス像なのです。イチジクの木に対しても、主イエスは厳しいことをなさいました。実が実っていなかったからです。でも、それは、ある意味、当然でした。イチジクの実る季節ではなかったのです。それなのに、主イエスは空腹を満たす実が無いのをご覧になって、その木を枯れさせてしまわれた。イチジクの立場からしますと、これは厳しいというより、むしろ理不尽な仕打ちとも言えるかもしれません。

神殿の境内で商売をしていた人々に対しては、どうでしょう。礼拝の場所で商売をするのは、いかがなものかとは思いますが、「門前市をなす」という言葉もあるように、寺社の門前には多くの人が集まり、露天商が生まれるのは、何も日本だけではない。世界の宗教施設に見られることです。

しかも、先ほど言いましたように、神殿礼拝に来た人の誰もが持っているわけではないユダヤの伝統的貨幣を、マージンを取るとはいえ、両替してやるという行為は、神殿礼拝を可能にしてあげることであり、そのマージンを生活の糧とすることが、それほど悪いことなのかということになるでしょう。

鳩を売る人たちにも、言い分はあると思います。神殿礼拝に来る人たちの多くが巡礼のようにして遠路はるばるやって来るのです。その道中を鳩を連れて来るというのは、なかなか面倒な話です。そのような人たちに、鳩を売るというのは、その人たちに礼拝の道を開くということでもあります。必ずしも非難されるべきことではない。売る方にも、買う方にも一定のメリットがあったのです。

イチジクの木に対して、両替人に対して、鳩を売る人たちに対して、どうして主イエスはこれほどまでに厳しい態度を取られるのか。ここにあるのは、主イエスの怒りです。激しい怒りが、ここにあります。この怒りは、いったい、どこから来ているのか。

私は、この主イエスの怒りは、空腹と関係があると思っています。空腹だから怒りっぽくなったというレベルの話ではありません。主イエスの空腹には、隠された意味があると思うのです。今日のお話しの初めのほうで、私は、この「空腹」というのは「飢え」のことなのだと申し上げました。主イエスは飢えを覚えられたのです。さあ、主イエスの飢えとは、何なのか、何に対して飢えておられるのか。そこが問題になってきます。

ヒントになる言葉が、ヨハネ福音書に出て来ます。ヨハネ福音書の第4章、主イエスがスカルの井戸でサマリアの女と対話をなさった。女が去ったあとで、弟子たちが主イエスに食事を勧めると、主イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われる。弟子たちが不思議に思っていますと、主イエスはさらにこう言われました。

「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」

主イエスが覚えられた飢えというのは、この御言葉と深い関連があると思います。両替人や鳩を売って商売している人たちだけではない。彼らからユダヤの伝統的な貨幣を受け取り、鳩を買って神殿の礼拝所に向かって行く人々の礼拝の姿、祈りの姿が、もはや礼拝とも祈りとも言えないものになっている。父なる神の御心にかなう祈りが無い。信仰が無い。あのイチジクの木のように、ぱっと見は枝を伸ばし、葉が茂っていても、肝心の実りが無いのです。そこに、主イエスは飢えにも似た深い悲しみを覚えられたのではないでしょうか。主イエスはさらに怒りをあらわにして言われます。

「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」

じつに厳しい言葉であると思います。そして、この言葉において、主イエスがいったい、何に飢えておられたのかが、明らかになります。さあ、主イエスはいったい何に飢えておられたのでしょうか。皆さんは何だと思われるでしょうか。

祈りなのです。主イエスは、まことの祈りに飢え渇いておられたのです。神殿の中だけではありません。エルサレム全体、いや、地上に祈りはあるのか。ルカ福音書の18章8節に、こんな主イエスのお言葉が記されています。

「しかし、人の子が来るとき、はたして地上に信仰を見いだすであろうか。」

主イエスは地上に祈りと信仰を求めておられる。飢え渇きを覚えるほどに渇望しておられるのです。ところが、祈りの家である神殿に、主イエスは祈りや信仰を見いだすことが出来なかった。礼拝をするために、遠路はるばるエルサレム神殿にやって来た人々がいます。犠牲のための鳩を買い、献金のためにデナリオン銀貨をユダヤの通貨に両替をして、礼拝をしている人々がいる。何をしているのでしょうか。もちろん、礼拝をしている。祈りをしている。ささげものをしているのでしょう。しかし、その礼拝を、祈りを、ささげものを、主イエスは「強盗だ」と言われる。強盗とは、他人の財産を無理やり奪い取る人間のことです。神の莫大な富を、寄ってたかって食いちぎり、奪い去って行く強盗です。神殿で礼拝をしている人々は、祈りにおいて、礼拝において、強盗になっている。

祈りについて、主イエスは、さらに続けて語っておられます。主イエスはエルサレムを出て、またべタニアに戻って来られた。そして翌朝、弟子たちと共にエルサレムに向かわれる、その途中で、あのイチジクの木が根元から枯れているのをご覧になった。驚いたのは弟子たちだったでしょう。ペトロと主イエスの間で問答がなされます。そこで主イエスがまず言われたのは「神を信じなさい」ということでした。信じるとは、どういうことか。この一点を教えるために、主イエスはさらに言葉を続けられます。

「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」

いかがでしょうか。これは厳しいというより、私たちの祈りのアキレス腱を突く言葉ではないかと思います。「少しも疑わず」とありますが、ここは聖書の原文では「心で疑わず」となっています。どうして「心で」と言われているかと言いますと、私たちは口で祈るわけですが、口で祈っていることと、心で思っていることが食い違っているということが起こってくる。口では「これこれ、このようにしてください」と祈りながら、心では「そうはならねえだろうな」と思っている。そういう半信半疑の祈りをするなということです。主の言葉は、さらに続きます。

「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」

この最後の「そのとおりになる」というのは、「願ったことが、そのまま実現する」ということではなくて、「祈りが満たされる」ということです。祈りが満たされるとは、どういうことなのでしょうか。

これについて、私は一人のご婦人を思い起こします。今年の2月に天に召された城之橋教会会員、Iさんです。この人は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という御言葉を愛誦聖句に掲げて歩まれました。しかし、その聖句とは裏腹に、愛する夫を突然亡くし、二人のお子さんを相次いで病気で亡くされました。打ち続く不幸を、この人は耐えました。そして、教会の聞き取りインタビューに答えて、こう語られました。

「それで、夫の信念というのも私の信念も同じですけど、絶対神様はいらっしゃる。そして私たちを見ていてくださるというのが信念。今でも、昔も変わらず。絶対どんな時でも神様が守っていてくださる。だから、今も私は落胆していないんです。」

これ以上は無いとさえ思える悲しみと嘆きの中を、この人はそれでも落胆することなく、歩まれた。愛する人たちを失って、なお落胆せずに歩む。その力の源泉となったものは何だったのか。それは、この人が「祈りは満たされる」ということを知っていたからだと思います。祈りは叶えられるのではなく、満たされる。願ったことと全く逆の恵みで満たされる。ああ、これが祈りが聞かれるということかと、気が付いた。

祈りは満たされると分かったとき、祈りが私たちの生き方を根底から変えていきます。キリスト者の祈りは、キリストが共に祈ってくださる祈りです。だから主イエスは言われます。

「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」

この約束を信じることが大切です。私たちの祈りは満たされる。だから、私たちは落胆しない。このことを心に刻んで、祈りの道をご一緒に歩みましょう。

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

6月4日(日)のみことば(ローズンゲン)

「主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞いて救ってくださいます。」(旧約聖書:詩編145編19節)

「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。」(新約聖書:ローマ書14章14節)

パウロが基礎を据えた教会は、そのほとんどが異邦人世界に建てられた教会でしたから、そこに独特の問題が生じました。偶像に供えられた肉を食べるか食べないかを巡って、信徒たちの間に混乱と対立が生じたのです。潔癖症の人は食べたら汚れると考え、合理的な考えの人は、偶像は単なる物体なので、そこに供えられた肉を食べても何ら問題は生じないと考えました。今日の新約の御言葉をみれば分かるように、パウロ自身は後者の合理的な考えを持っていました。

しかし、パウロはこの問題で一方を持ち上げ、もう一方を貶めるようなことはしませんでした。パウロが大事にするのは教会の主にある交わりです。その交わりを守るために、パウロは「知識と愛」の問題と「キリスト者の自由」の問題を提示します。偶像の神々は存在しないという知識は大事です。しかし、もっと大事なのは信仰の弱い人の弱さを愛をもって受け入れることではないかとパウロは言うのです。そこで求められるのが、自分の自由をセーブすることです。