聖書:詩編51編12~14節・ヨハネによる福音書16章1~15節

説教:佐藤 誠司 牧師

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」 詩編51編12~14節)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて、真理をことごとく悟らせる。」 (ヨハネによる福音書16章13節)

 

私たちが聖書を読んでいると、時に、思わずハッとさせられる言葉と出会うことがあります。今日読みましたヨハネ福音書16章にも、そんな言葉があります。2節の後半をご覧になってください。

「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」

迫害の予告です。神を信じる信仰の名によって、キリストの弟子たちが迫害される。しかも、迫害している当の本人は、それによって自分は神に奉仕しているのだと思い込んでいる。そういうことが、やがて起こる。イエス様は、そう予告しておられるのです。しかも、イエス様は予告だけではなくて、そういうことが起こる原因をも、次のように指摘しておられる。

「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」

神様をもキリストをも知らない。だから、キリストの弟子を迫害する。信仰の名によって迫害する。そういうことが起こるのです。使徒パウロは偉大な伝道者ですが、彼はキリスト者になる前は、ユダヤ教のエリート、ファリサイ派の律法学者としてキリスト者を迫害していました。ただの迫害ではありません。神への奉仕として、信仰の証しとして、彼は熱心にキリスト者を迫害していたのです。その意味で、彼は神様を信じていた。心から信じていたのです。

ところが、彼は、じつはキリストをも神様をも知らなかった。知らなかったからこそ、迫害していた。そこのところを、パウロ自身はフィリピの信徒への手紙の中で、次のように述べています。フィリピの3章5節以下です。

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所のない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることの、あまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」

いかがでしょうか? これがつい最近までキリスト者を迫害していた人とは、信じ難いほどの様変わりです。まさに180度の転換を、この人は遂げたのです。「私の主キリスト・イエスを知ることの、あまりの素晴らしさに」という表現がありました。パウロはキリストを知ったのです。しかも、キリストを知ることによって、彼は、神をも正しく知ることが出来たのです。でも、いったい誰がそれを教えたのでしょうか?

さて、この疑問をしばらく皆さんの心に留めて頂いて、ヨハネ福音書16章に戻りたいと思います。イエス様と弟子たちの別れが近づいています。イエス様の死が近づいているのです。当然、弟子たちの心は、悲しみで満たされておりました。ところが、イエス様は、彼らにこう言われるのです。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」

弟子たちは驚いたに違いありません。イエス様が去って行くことが自分たちのためになるなんて、そんなこと、信じられない。そんな思いが弟子たちの心を支配していたことでしょう。ところが、イエス様は弟子たちの当惑を省みることなく、語り続けられる。

「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたの所に来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたの所に送る。」

不思議な言葉であると思います。イエス様が去って行かなければ、弁護者は来ないというのです。聞いていた弟子たちは、どう思ったことでしょうか? 私は思うのですが、弟子たちはこれを聞いた時、心の中で「弁護者なんて、どうでも良いから、イエス様に、いつまでも一緒にいてほしい」と思ったのではないでしょうか。見たこともない弁護者よりも、慣れ親しんだイエス様のほうが良いに決まっています。ところが、イエス様は、「それでは、あなたがたのためにならない」とおっしゃる。なぜなのでしょうか? 先ほど読んだ7節を、もう一度、ご覧になってください。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」

イエス様はここで「実を言うと」と言っておられます。皆さんは「実を言うと」という言い回しを、どのような時にお使いになるでしょうか? そう、相手が全く知らないことを告げる時に使われることが多いと思います。ここも、じつはそうなのですが、イエス様はもっと強い意味の言葉を使っておられる。実を言いますと、この「実を言うと」と訳された言葉は、直訳すると、次のようになるのです。

「わたしは真理をあなたがたに告げる。」

イエス様がおっしゃった「実を言う」というのは、「真理を告げる」ということだったのです。では、その「真理」とは、どういうことなのか? それは、イエス様が去って行くことが、弟子たちのためになる、ということです。なぜか? 弁護者がやって来られるからです。イエス様が去って行くことによって、弁護者が遣わされて来る。それが「真理」なのだと、イエス様はおっしゃるのです。

どうしてこれが「真理」なのか? どうして、イエス様が去って行くことが、自分たちのためになるのか? どうして、弁護者はイエス様が去らなければ遣わされて来ないのか? イエス様と弁護者は同居できないのか? イエス様とも弁護者とも共にいることは出来ないのか? 弟子たちの困惑は、ますます深まって行ったに違いありません。しかし、イエス様は弟子たちの困惑を省みることなく、さらに不思議なことをおっしゃいます。

「わたしが行けば、弁護者をあなたがたの所に送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」

イエス様は、ここで何を言っておられるのか? 罪と義と裁きについて、この世の誤りが、やがて明らかになるのだと言っておられる。これは預言です。それにしても解りづらい預言であると思います。ヨハネ福音書という書物は、このように哲学的とも言える、一見、解りにくい言葉が出て来ます。しかし、解りにくいからと言って、そこで諦めてはダメなのです。ここも、そうです。罪と義と裁きと言いましたが、それらはいったい、誰の罪であり、誰の義であり、誰の裁きなのか? そこから考えていきましょう。まず罪ですが、この罪とは、誰の罪ですか? もちろん、これは人間の罪でしょう? じゃあ、義とは誰の義でしょうか? 神の義なんです。それでは裁きとは、いったい誰の裁きか? キリストの裁きなのです。三つを並べてみると、どうなりますか? 人の罪と神の義、そしてキリストの裁きです。いかがですか? 皆、イエス様の十字架で明らかにされることばかりではないですか?

人の罪とは、キリストを信じないこと。神の義とは、キリストが十字架で殺され、三日目に復活されて、父のもとにいてくださること。そして、キリストの裁きとは、この世の支配者がキリストを裁いて十字架につけてしまったことによって、逆に支配者たちが断罪されることです。ヨハネ福音書の3章16節の言葉を思い出してください。ヨハネ福音書を読んでいて、難しい言葉に出くわしたら、たえずここに戻って来れば良い。そんなヨハネ福音書の主題のような御言葉です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

このあと、ヨハネ福音書は続けて、こう語りました。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。」

いかがでしょうか? 16章で言われていることは、3章に於いて、すでに語られていたのです。さて、16章に戻りますと、最後にこう言われています。

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて、真理をことごとく悟らせる。」

弁護者とは、この「真理の霊」のことです。そして真理の霊とは、聖霊のことなのです。聖霊とは、キリストを信じる者に必ず与えられる神からの弁護者です。その聖霊が、真理を悟らせてくださる。さあ、その「真理」とは、どういうことなのでしょうか? ここで、もう一度、7節に戻って、あの「実を言うと」という言葉の意味を確認しておきたいと思います。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」

この「実を言う」というのは「真理を告げる」という意味なのだと申し上げました。ということは、どうでしょう。キリストが去って行かれて、聖霊が来られる。そのことの中に「真理」はある、ということです。さあ、キリストが去り、聖霊が来ることによって明らかになる「真理」とは何なのか?

それは、まことに不思議な聖霊の働きのことです。皆さんは、教会生活をしていて、こんな実感に捕らわれることはないでしょうか? イエス・キリストは2千年前のお方なのに、そのお方が今、ここに生きておられて、今、目の前で私に向かって語っておられる。2千年の時を越えて、今ここにおられる。私と共にいてくださる。これは錯覚でもなければ、幻覚でもない。紛れも無い信仰の確信です。この確信がじつは「真理」です。そして、この真理を悟らせて与えてくださるのが、聖霊なのです。

「しかし、あなたがたに真理を告げると、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」

今日は詩編の51編の言葉を読みました。この詩編は旧約には珍しく聖霊について語っている詩編です。

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」

この「清い心」を創造するのが聖霊です。清い心とは、私たち人間の持ち前のものではありません。神が聖霊によって新しく創造してくださるものです。だから、清い心は聖霊の働きに対して、常に開かれている。聖霊が悟らせてくださる真理に対して、素直なのです。

さあ、皆さんの心は、どうでしょうか? 皆さんにとって、イエス・キリストとは2千年前のただの人でしょうか? それとも、今ここにおられて、私たちを教え、導き、諭しておられるお方か? 聖書の中にしかおられない方か、それとも、今、私たちと共にいてくださるお方か? 2千年前の人々のために十字架につけられた方か、それとも、私たちの罪をも赦すために十字架についてくださったお方か? 皆さんは、どちらだと思われますか? イエス・キリストは今も私と共にいてくださる。この真理が見えるか見えないか、そこにすべてはかかっています。なぜなら、その一点こそが私たちの信仰の原点だからです。聖霊降臨祭の今日、私たちはこの原点を新たに心に刻みたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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