聖書:詩編51編12~14節・ヨハネによる福音書14章15~21節
説教:佐藤 誠司 牧師
「私は父にお願いしよう。父はもう一人の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネによる福音書14章16~17節)
「私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことを、ことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネによる福音書14章25~26節)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。これが使徒信条の第一部です。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語りました。これが使徒信条の第二部で、ここが使徒信条の中心になります。そして、今日から使徒信条の第三部に入ります。ここは「我は聖霊を信ず」という言葉で始まります。そのことからも分かるように、この第三部は聖霊を信じる信仰を語っています。
ところで、使徒信条の言葉遣いですが、こういう疑問を抱かれる方もおられると思います。この第三部だけ、それまでの第一部、第二部と言葉遣いが違っているのです。たとえば、第一部では神を信じると告白しますが、その神とはどういうお方であるかが続いて語られます。「天地の造り主」とか「全能の父」であられることが丁寧に語られていきます。
イエス・キリストを信じる信仰を告白する第二部も、同じです。イエス・キリストを信ずと言ったあと、すぐに「主は聖霊によりで宿り」「処女マリアより生まれ」と続いて、イエス・キリストとはどのようなお方なのかが丁寧に語られました。
ところが、第三部は、どうでしょうか。ここは「我は聖霊を信ず」と言うと、そこで文章が終わってしまって、別の事柄が並べられているような印象を受けます。聖霊を信じる信仰と言うけれど、聖霊についての詳細は何も語られていない。すぐに別の事柄に移って、「聖なる公同の教会」以下の事柄が単発で述べられていく。これはいったい、どういうことなのかと、訝しく思われるかもしれません。
しかし、ここで大事なことは、聖霊を信じることと、以下に続く「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず」ということを切り離してはならないということです。使徒信条は、聖霊を信じるとは、これこれこういうことを信じることなのだと明言しているのです。聖霊なる神が、私たちの中に生きて働いて、こういう事を信じるように導いてくださる。使徒信条はそう告白しており、そこに聖霊を信じる信仰のいちばんの特徴があります。
どういうことかと言いますと、父なる神も、御子なるキリストも、私たちにとってみれば、絶対他者です。ところが、聖霊は、そこのところが、ちょっと違う。聖霊も神ですから、私たちにとって絶対他者であることに変わりはない。それは確かな事です。ところが、神である聖霊が私たちの中に生きて働き、私たちと一つになってくださる。神である聖霊の御業が、人間である私たちと切り離すことが出来なくなる。ですから、聖霊を信じるというのは、この私において聖霊が生きて働いておられることを信じる。そういうことを、使徒信条は告白しているのです。
このことを明らかに示してくれる聖書の箇所として、ヨハネ福音書の第14章の御言葉が挙げられます。ここは主イエスが十字架につけられる前の晩に、弟子たちに語られた決別のメッセージです。今日は15節から読みましたが、本当は1節から読みたいところです。この時、弟子たちは、不安でした。別れが迫っていることを主イエスが繰り返し語られたからです。その弟子たちに、主イエスはこうおっしゃいました。
「私は父にお願いしよう。父はもう一人の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」
これは約束の言葉です。「もう一人の弁護者」と言っておられます。これはどういうことかと言いますと、主イエスご自身が第一の弁護者であり、今、主イエスが地上の歩みを終えようとされるに際して、もう一人の弁護者が父のもとから遣わされて来る。そして、主イエスが弟子たちと共に歩まれたように、第二の弁護者も弟子たちと共にいてくださる。そう約束しておられるのです。
それにしても、「弁護者」というのは、どういう意味なのでしょうか。じつは、この「弁護者」と訳された言葉は、日本語に移すのが難しい言葉です。翻訳するのが難しいということは、裏を返せば、それだけ含蓄のある言葉だということです。直訳をすると「傍らに呼ばれて来る人」となります。「傍らに呼ばれて来る」というのは、言い換えますと「寄り添う」ということです。そういう言葉ですから、これを一言に翻訳するのが難しいのです。ちなみに、多くの英語の聖書は、ここを「カウンセラー」と訳しました。これは真正面から切り込んだ名訳だと思います。
翻訳が難しい理由が、もう一つ、あります。この言葉は「傍らに呼ばれて来る」だけではなくて、傍らに立って、何かを語りかけるのです。ですから、相手の状況と、何を語りかけるかによって、訳語が違ってくるのです。例えば、悲しんでいる人の傍らに立って、その人に寄り添う言葉を語るならば、「慰め主」と訳すのがふさわしいでしょう。また、弱い人や落胆している人に寄り添って言葉をかけるならば、それは「助け主」と呼ぶのがふさわしいでしょう。そういう相手の置かれた状況によって、変幻自在に変わってくる意味を持つ言葉なのです。これはまさに聖霊の働きそのものだと思います。
それでは、この「弁護者」は、私たちに何をしてくださるのでしょうか。これは今日読んだ箇所の少し先になるのですが、14章の25節と26節に、こう記されています。
「私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことを、ことごとく思い起こさせてくださる。」
聖霊の第一の働き。それは主イエスが語ってくださった言葉をことごとく思い起こさせる、つまり思い出させることだと主イエスは言われるのです。聖書の言葉を叩き込むように憶えていて、ここぞという時に的確に御言葉が出て来る。昔の教会にはよく、そういう人がいたものです。それに対して、私などは、御言葉を憶えることが、からっきしダメで、相手を励ましたり、慰めたりしたい時に、ふさわしい御言葉が、なかなか出て来ない。何とも言えないもどかしさを覚えたものです。そして、御言葉を憶えるのに長けた人を、心からうらやましく思ったものです。
ところが、ここでイエス様が言っておられる「思い起こさせる」というのは、そういう記憶に関することではないのです。これと同じ言葉が、ルカによる福音書の22章61節に出て来ます。主イエスが捕らえられて、大祭司の屋敷に連行された時、その跡を追って大祭司の中庭に入ったペトロが、人々に「お前もあのイエスの仲間だろう」と咎められて、主イエスを三度に渡って否認した。その時のことが、次のように記されています。
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして、外に出て、激しく泣いた。」
この「主の言葉を思い出した」というのが、あの「私が話したことを、ことごとく思い起こさせてくださる」という所と同じ言葉が使われている。この時、ペトロに起こったことを「記憶」のことだと理解をしますと、どうなるでしょうか。ああ、イエス様はああ言っておられたなあ、こうも言っておられたなあと、そこで終わってしまいます。しかし、あの時、ペトロに起こったのは、そういうことではない。ペトロは、あの時、初めて主イエスの言葉を、真の意味で聞いたのです。今の自分の生き方、今の自分の弱さ、惨めさの只中に、主イエスが今、語っておられる。今、語られる言葉として聞く。それが、この「思い起こす」「思い出す」という言葉が秘めている、本当の意味です。
このことが起こったのは、何もペトロだけのことではありません。私たちの中でも起こっている。私たちの中で生きて働いておられる聖霊によって、礼拝の中で引き起こされていくことです。さらに言うなら、今、この礼拝の中で起こっている、起りつつあることです。
皆さんは、礼拝を守っていて、不思議に思うことは、おありでしょうか。2千年前に主イエスが語られた言葉です。ハッキリと、ありていに言うと、過去の言葉なのです。それがどうして、今の私を生かす言葉になり得るのか。はじめのうちは、過去の出来事を語る物語として聞いているのです。ああ、イエス様はペトロにこう言われたのだなあと、どこか他人事で、冷静に聞いている。ところが、ある時に、どんでん返しが起こる。過去のことではなかった。今、主イエスが私に語りかけておられる。
「しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
この言葉を、今の私の生き方に向けて語られた言葉として聞く。そういうことが、起って来る。それが聖霊の働きです。今日はヨハネ福音書の14章の15節以下を読みましたが、この14章にはどうしても避けて通ることの出来ない大きな御言葉があります。
主イエスが「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われた時、弟子のトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう」と問い返した。すると、主イエスはこう言われたのです。
「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」
多くの人の心を動かしてきた御言葉です。主イエスそのものが、私が歩むべき道、私を支える真理、私を生かす命となってくださる。そう信じるために大切なことは、その道や真理が決して遠くないことを知ることです。2千年前の遠い昔の存在ではなく、すぐ近くにある。パウロはローマ書の中で「言葉はあなたの近くにある。あなたの口、あなたの心にある」と言いました。はるか2千年前になされた主イエスの御業や、2千年前に語られた主イエスの言葉が、なぜ、今ここに生きている私を生かす道になるのか。真理になるのか。命になるのか。聖霊がこれを思い起こさせ、助けてくださるからです。聖霊が思い起こさせてくださる時に、主の御言葉は、今、私を生かす神の言葉になります。このように、聖霊の働きを信じるというのは、私たち自身における神の救いの御業の実りを信じるということです。聖霊は私たちの傍らに寄り添い、私たちの中に生きて働く神様です。聖霊が私たちの中に生きて働いてくださることによって、父なる神様も、御子なるキリストも、共に私たちの中に働いてくださる。三位一体とは、じつに、そういうことだったのです。
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以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
6月22日(日)のみことば
「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(旧約聖書:詩編103編2節)
「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されていた。」(新約聖書:ガラテヤ書3章23節)
今日のガラテヤ書の御言葉で、パウロは「信仰が現れる」という言い方をしています。しかも、この「現れる」という言葉には、もう一つ「やって来る」という意味がある。つまり、パウロはここで、信仰とは現れるもの、やって来るものというふうに位置付けていることになります。これは、私たち日本人には想定外のことではないでしょうか。私たち日本人は、信仰は心の内面に芽生えてくるものだというふうに考えます。日本人は昔から、救いを求める時に、よく一人になって、山へ籠ったり、滝に打たれたりして、瞑想に耽ります。それは、世間との交わりや雑念を一度断ち切り、世の心遣いを離れて、本当に一人きりになる。一人になって深く瞑想し、悟りを得たい。悟りの境地に達したいと考えるわけです。その「悟り」を、多くの日本人は「救い」と考え、悟りの「境地」のことを「信仰」だと考えています。しかし、聖書が私たちに指し示している救いは、悟りのことではありません。同様に、信仰も悟りの境地のことではない。悟りというのは、突き詰めて言いますと、自分の中にあるものを見つけることです。自分の中にあるものを発見するために、目をつぶり、瞑想に耽るわけです。しかし、救いは私たちの中にはない。救いは外から来る。これが聖書の語る信仰です。
