聖書:出エジプト記20章16節・エフェソの信徒への手紙4章29~32節

説教:佐藤 誠司 牧師

「隣人について偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト記20章16節)

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。」(エフェソの信徒への手紙4章29節)

 

私たちは今、日曜日の礼拝で十戒を連続して学んでいます。今日は第九の戒めについて、お話をします。初めにその御言葉、出エジプト記20章の16節を読んでみたいと思います。

「隣人について偽りの証言をしてはならない。」

偽りの証言、すなわち偽証を禁じる戒めです。「偽証」とか「証言」というのは、法廷で語られる言葉のことです。裁判の席に出頭を命じられて、証言をした経験のある方は、おそらく少ないと思います。ですから、偽証を禁じた九番目の戒めは、自分には関係がない、縁遠い戒めのように思ってしまいます。しかし、今、私たちが当たり前のように使っているキリスト教用語の中には、元々、裁判や法廷に使われていた言葉がある。例えば「証し」という言葉。これも元をたどれば裁判の用語です。キリスト者は信仰に関わることで法廷に立たされることが多かったのです。イエス様の言葉が思い起こされます。

「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ち叩かれる。また、私のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」

世々のキリスト者が心して聞いてきた御言葉です。ですから、現代に生きる私たちが、時代が変わって、もう法廷に証人として出廷することがなくなったからと言って、偽証を禁じた戒めに無関心であってはならないと思うのです。なぜかと言いますと、この戒めが禁じているのは、必ずしも法廷や裁判の場面に限ることではないからです。

こう考えても良いと思います。偽りの証言をしてはならないというのは、嘘をついて罪なき人を罪に定めてはならない、ということです。もっと平たく言えば、人の足を引っ張って、罪なき人を引きずり下ろすようなことをするな、ということです。

治安維持法が制定されて、もう100年になります。当初は国家転覆をはかる思想や国際共産主義を取り締まる法であったのが、度重なる修正と改正によって、取り締まりは自由主義思想や芸術にも及んで、最後には国民がお互いを監視して密告する相互監視社会が出来上がったのです。私は、何が恐ろしいかと言って、人と人とが互いに疑いの目でもって監視をして、何かあればお上に密告をする。このことほど恐ろしいものはないと思います。なぜこういう社会が出来上がってしまったのでしょうか。人と人とがお互いに裁き合う言葉しか持たなかったからです。

証言とか裁きというのは、私たち人間の罪が起こりやすいところなのです。誘惑が起こりやすいところと言っても良いと思います。旧約の列王記上の21章に、こんな物語があります。サマリアの王アハブは、その妻イゼベルと共に悪名高い王の一人です。彼の宮殿の隣に見事な実を結ぶ葡萄園があった。持ち主はナボトという男で、彼は先祖からその葡萄園を受け継いだのです。アハブ王はナボトから葡萄園を買い取ろうとしますが、ナボトは首を縦に振りません。そこで王が食べ物も喉を通らないほど気に病んでいますと、王妃イゼベルが策略をめぐらせ、二人の偽証人を立ててナボトを訴え、神と王を呪ったという偽りの訴えによってナボトを死刑にしてしまったのです。そこに預言者エリヤが登場して、王と王妃が今度は神の裁きを受けることになる。そんなお話です。

このように、裁判における証言というのは、自分の利益となると見込んだら、罪を犯してでも他人を罪人に陥れて平然とする。証言というのは、そういう罪の心と結び付きやすいのです。こういう欺瞞に満ちた裁きや偽証は、神の民イスラエルの歴史の中で、繰り返し現れました。それだけ、偽証というのは、人間の罪の本質に深く根を降ろしている、ということでしょう。そして、その偽証の罪が頂点に達したところに、主イエスの裁判が起こったのです。マルコ福音書の14章55節以下に、こう記されています。

「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかった。」

今挙げた二つの裁判は、いずれも時の権力者による裁判です。自分の権威が脅かされ、利益を得ようという欲望に駆られて、権力に任せて偽証人を雇ったのです。こういう話を聞きますと、私たちは悪い奴だなあとは思いますが、心のどこかで自分には関係のないことだと思っています。しかし、私たちは、彼らのような権力者ではないからと言って、知らん顔をして良いのだろうかとも思います。私たちも、自分の小さな世界では、けっこう権力者の顔をしています。職場で、家庭で、仲間内で、自分の対面を保つために、小さな偽証をすることが、無いとはいえないのではないかと思います。一家の主の権威を守るため、男のメンツを保つため、上司としての顔を誇示するために、言ってしまったこと、やってしまったことが、正直言って、私自身にも、あるわけです。

そのように考えますと、偽りの証言を禁じた九番目の戒めは、私たちに関係のないことではなく、むしろ、私たちが隣人と健やかに暮らしていくうえで、欠くことの出来ないメッセージではないかと思います。早い話、私たちは日常生活の中で、非常にしばしば裁判官の立場に立って、他人を裁いています。裁判は何も裁判所の専売特許ではないのです。私たちが語る言葉の一つ一つが、日常茶飯事のように裁きの言葉となっている。そんな私たちの心を、主イエスはよくご存じで、次のように語ってくださいました。

「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される(中略)あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」

裁きについて語っておられます。聖書の原文では「裁き」は「クリネイン」というギリシア語です。これが元になって生まれたのが「批評」を意味する「クリティシズム」という言葉と、「危機」を意味する「クライシス」という言葉です。「批評」と「危機」が共に「裁き」から生まれたというのが意味深長です。批評というのは危機になりやすいのです。例えばこういうことがあります。新進の芸術家の作品を高名な批評家がこき下ろした。ところが、後年になって、あの作品が世評に受け入れられ、高い評価を得るに至った。すると、この作品をかつてこき下ろした批評家は、自分が下した評価が誤りであることが明らかになった。つまり「自分の裁きで裁き返された」わけです。このように、人間の裁きというのは、裁いている本人にとって「危機」なのです。しかし、裁きに熱中している人は、それになかなか気づかない。

なぜ、裁きが問題になるのか。それは、裁きにおいて、人間は神のようになろうとするからです。先ほど申し上げたように、小さな世界の小さな権力者になってしまうのです。アハブ王も、祭司長たち、主イエスを亡き者にしようとした人々も、そうですし、ひょっとして私たちも、そうであるかもしれないと思います。イザヤ書の29章21節に、次の言葉があります。

「彼らは言葉を弄して人を罪に陥れ、町の門で弁護する者を罠にかけ、空しい議論で正しき者を退ける。」

ここに「町の門」とあります。これは当時のユダヤでは町の門の前が法廷だったことに由来します。死刑が問われるような裁判も門の前で行われましたが、民事の話し合いも、ここで行われました。ルツ記の最後でボアズがルツを妻にする美しいやり取りも、ここで行われました。門の前は法廷であると同時に、まことの裁き主である神の御前でもあったのです。その聖なる場所を偽証人たちは空しい言葉で汚したのだとイザヤは言うのです。言葉が問われているのです。

ここで新約聖書に目を転じると、どうでしょうか。普段、読むことの少ない書物ですが、ヤコブの手紙というのがあります。この手紙の3章8節以下に、このような言葉があります。

「しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。下は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父なる神をほめたたえ、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪っています。同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。」

強烈なメッセージです。特に最後の「同じ口から賛美と呪いが出て来る」というところ、ひやっとするほど、身につまされます。しかし、ヤコブは私たちを辱めるために、このメッセージを語っているのではない。真実の言葉を、教会に生きる私たちに求めているのです。真実の言葉といえば、パウロがエフェソの人々に宛てて書いた手紙の4章29節に、こう記されています。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。」

この「悪い言葉」というのは「腐った言葉」ということです。腐った食べ物があると、自分が腐り果てていくだけでなく、周りの食べ物も腐らせていきます。それと同じことが言葉に於いても、心に於いても起こるのだとパウロは言うのです。この「悪い言葉」の対極に置かれているのが「善い言葉」です。「善い言葉」は「人を造り上げる」と書かれています。この「造り上げる」というのはパウロが特に好んだ言い方で、元々は建築用語だった言葉です。どうして建築用語が信仰の言葉になったかと言うと、建築も信仰も土台の上に建て上げられていくからです。もちろん、信仰の土台はキリストです。キリストを土台として、その上に「善い言葉」が与えられ、積み重ねられるのだとパウロは言うのです。

では、その「善い言葉」とは、どういう言葉なのか。そこが肝心要になってきます。示唆に富む言葉が、ルカによる福音書の最後に出て来ます。ルカ福音書の24章50節以下を読んでみます。

「それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」

ここはルカ福音書の最後の最後、結びの言葉です。それだけに、語り部のルカは、福音書の結びに相応しい言葉、使徒言行録に橋渡しをするにふさわしい言葉を選んでいます。天に上げられて行くイエス様が弟子たちを「祝福された」というのと、弟子たちが神殿の境内で「神をほめたたえていた」というのが、じつは対句になっていると言いますか、呼応する関係になっているのです。どういうことかと言いますと、イエス様が「祝福された」というのと、弟子たちが「神をほめたたえた」というのが、聖書の原文では全く同じ言葉が使われているのです。それはどういう言葉かと言いますと「善い言葉を語る」という言葉なのです。

イエス・キリストが私たちに「善い言葉」を語ってくださる。それは何よりも祝福の言葉です。その祝福に呼応するようにして、私たちの口から「善い言葉」が出て来る。それは何よりも神をほめたたえる言葉、賛美の言葉です。この「善い言葉」が自分自身を造り上げ、他者をも造り上げる言葉になります。キリストの愛が土台になって、私たちを造り変えて行きます。十戒の第九の戒めは「キリストの愛を受けて、真実の言葉を語りなさい」という招きの言葉であると思います。主の年2026年が今日の御言葉によって始まりました。主にある交わりの中で、互いに善い言葉をかけあって歩みたいと願うものです。

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

1月4日(日)のみことば

「その時、あなたが呼べば主は応え、あなたが助けを求めて叫べば、『私はここにいる』と言われる。」(旧約聖書:イザヤ書58章9節)

「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。」(新約聖書:ローマ書3章24~25節)

今日の御言葉に「贖い」という言葉が出て来ます。贖うという日本語は、昔は「ものを買い求める」ことを意味しました。しかし、聖書が語る「贖い」には、さらに深い意味があります。「身代金」という意味です。誘拐犯が要求する身代金ではありません。当時の奴隷制度が背景になっている身代金です。ただしパウロが言うのは、普通の奴隷ではなくて、罪の奴隷ということです。私たち人間は、すべからく、罪の奴隷になっている。その奴隷の状態から解放されるためには、身代金が要る。しかし、そんな身代金を用意できる人など、一人もいない。それを、キリストがご自分の血によって支払ってくださった。肩代わりをしてくださった。これが、ここで言われていることの一つです。

もう一つ、ここに「贖いの座」という注目すべき言葉が出て来ます。これは、じつは身代金ではない。この「贖いの座」と訳されている言葉の元々の意味は、エルサレム神殿の奥にある聖所の、さらに奥の至聖所に贖罪のための場所がある。ここに大祭司が一年に一度、大贖罪日という日に入って、ここで犠牲動物の血を注ぐ。その血が注がれる台のことを「贖罪の台」と呼んだ。この台が「贖いの座」と訳されている言葉の本来の意味なのです。