聖書:出エジプト記21章16節・エフェソの信徒への手紙4章27~29節

説教:佐藤 誠司 牧師

「盗んではならない。」(出エジプト記20章15節)

「盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。」(エフェソの信徒への手紙4章28節)

 

今日は久しぶりに十戒の御言葉を学びます。今日は第八の戒めについて、お話をします。初めにその御言葉、出エジプト記20章の15節を読んでみたいと思います。

「盗んではならない。」

明快な戒めです。何も特別なことが言われているわけではなく、むしろ人間が社会生活を営む上で至極常識的なことが言われていると言っても良いと思います。分かり切ったことなのです。しかし、どうでしょうか。人間社会の現実に目を転じると、この戒めも、それほど簡単には守られていないことに、容易に気づきます。このように、十戒というのは、誰もが心得ていること、分かり切ったことを改めて戒めている。そこに十戒の本当の意味があると思うのです。

ところで、今日、多くの旧約学の学者が指摘するところによりますと、この第八の戒めがもともと意味していたのは、単に他人のモノを盗むことではなくて、人間を盗むことだったようです。これは意外なことですが、よくよく考えると、なるほどと合点がいくことでもあります。北朝鮮による拉致事件はいまだ解決の見込みがありませんし、戦争のたびに起こる特定民族の強制収容も、私は人間を盗むことにほかならないと思います。かどわかしや、人身売買も、これに当たります。昔は日本でも、かどわかした子どもを売り買いすることが、平然と行われていたのです。十戒は出エジプト記の20章に記されていますが、それに続く21章の16節に、こう記されています。

「人を誘拐する者は、その人を売っていても、自分のもとに置いていても、必ず死ななければならない。」

人をかどわかして奴隷に売り飛ばしたり、自分の家の奴隷にすることが禁じられています。これは十戒がイスラエルの人々に与えられた状況を知れば、理解することが出来ます。十戒の本文が始まる前に、こう語られていました。

「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの奴隷の家から導き出した者である。」

十戒は、この救いの宣言から始まったのです。あなたがたは奴隷の辛さを知っているはずだ。だったら、自由になった今は、お互いに盗み合ってはならない。自由を奪い合ってはならないと、主なる神は戒めておられるのです。どうしてそこまで戒めておられるかと言うと、イスラエルの人々がエジプトに渡った経緯を思えば、分かることです。創世記の最後に位置するヨセフ物語がそれを語っています。イスラエルの民の父祖であるヤコブが、偏愛と思えるほど溺愛したのが末息子のヨセフでした。兄たちはこれに嫉妬して、弟ヨセフを売り飛ばした。ヨセフはエジプトに奴隷として連れて行かれましたが、そこで大きな働きをして目をかけられ、ついに大臣になった。やがて大きな飢饉が襲って来て、ヨセフの兄たちは困窮しましたが、エジプトはヨセフの政によって豊かな食料を蓄えていた。そこでヨセフの兄たちは父を連れてエジプトに渡って、劇的な再会を果たすのです。

このような歴史を自らに刻んだイスラエルの人々は、この悲惨な歴史から何を学んだでしょうか。それは、人間とは誰の所有物にもならない存在であって、人間は自分のものでもない。人間は神のものなのだという一点の真理を、イスラエルの人々は学んだのです。ですから、十戒に先立つ神の解放宣言は「あなたがたは私のものだ」という神の所有宣言でもあるのです。人間は他のいかなる人間の所有物にもなり得ない。それを自分のものだと言い張るのは、それこそ盗みを働いたことになる。このように考えますと、人を盗むことを禁じた十戒は、奴隷制度そのものに対する本質的な批判を含んでいたと見るべきでしょう。そして、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」という主イエスのお言葉は、奴隷からの解放を告げる宣言であったことも分かります。

今の日本には奴隷制度はありません。しかし、以上のようなことを考えますと、確かに制度としての奴隷は存在しないかもしれない。しかし、私たちが一緒に生きているお互いを、自分の利益のために利用するとか、人を人としてその尊厳を重んじない気風は、いまだに根強く存在しているのではないかと思います。日本は人権という考え方が自生しなかった国ですから、奴隷制度が形を変え、装いを新たにしては現れる社会ではないかと思います。要するに、自由がないのです。

ここで、もう一つの問題があります。盗むなかれという第八の戒めは、本来は人を盗むことを禁じた戒めであったと言いました。これは私たちにとって、目から鱗の事実であり、私たちは「ああそうか」という思いで、この事実を受け止めました。しかし、だからと言って、この戒めはモノを盗むことは禁じていないかと言うと、私はそうではないと思うのです。この第八の戒めは、他人のモノを盗むことと、人を盗むことの両方を禁じ、戒めていると見ることが出来る。しかも、それは、モノを盗むことと、人を盗むことを別々に禁じているのではなくて、この二つの関係と言いますか、人のモノを盗むことによって、じつはその人を盗んでいる。傷つけている。そういうことをも戒めているのではないかと思います。

例えば、こういうことはあるでしょう。幼い子どもは、大好きなモノを友達が持っていると、すぐに手を伸ばして我が物にします。心がモノに向いていて、人には向いていないから、モノを奪うことで友達がいかに悲しい思いをするかというところにまで、思いが及ばないのです。

ところが、これが長じて中学生、高校生になりますと、気に食わない同級生の持ち物を隠したり、壊したりして、同級生が困ったり悲しんだりするのを見て悦にひたる。いじめです。これは、心が悪い意味で人に向いている。人を盗んでいるのです。そのためにモノを盗んだり、破壊したりする。また、大嫌いな人の写真を破いたり燃やしたりして、爽快な気分になる。これとは反対に、大好きな人の衣服や持ち物を愛していく。そういうこともあると思うのです。モノは単なるモノではないのです。モノは人と密接につながっている。しかも、愛や憎しみという、最も激しい心の発露としてのモノが存在するのです。

そして、もう一つ、十戒が禁じる盗みには、神がお造りになった世界や自然界から様々な恵みや命を人間が奪い尽くそうとしている事実。そして私たちが日常生活の中で無意識のうちに行っている不必要な浪費。それは、今や現代人の習慣になっている使い捨ての行為かもしれないし、食品ロスかもしれません。このように、現代人は神がお造りになった自然世界から多くのものを搾取しており、しかもそれを当然の権利のように思っています。この人間の罪と自然界の関係について、パウロはローマの信徒への手紙8章の20節で、次のように述べています。

「被造物が虚無に服したのは、自分の意思によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望もあります。それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。」

被造物というのは自然界のことですが、その自然界が神によって虚無に服している。それは自然界に責任があるのではなくて、人間の罪によって、自然界までもが虚無に服している。つまり、自然界は人間の罪のとばっちりを受けて虚無に服したのだとパウロは言うのです。これは現代の世界の有様を見事に言い当てている言葉だと思います。人間が戦争や核実験を行うことによって、自然界がそのとばっちりを受けて虚無に服している。だから、人間が罪を悔い改めて、神の子としての栄光に入ることによって、自然界も同じ栄光に入る希望が残されているのだとパウロは言うのです。自然界が虚無に服したのは人間の罪のお相伴に与っただけなので、その人間が罪赦されて神の子の栄光に入るなら、自然界はこっちのお相伴にも与ることが出来るだろうと。だから世界に希望が残されているとパウロは言うのです。これを2千年前に書いたというのが驚きです。以上に述べたことを踏まえて、今日読んだエフェソの信徒への手紙4章28節の言葉を読むと、どうでしょうか。

「盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。」

いかがでしょうか。今までお話ししたことを思い合わせると、このエフェソ書の御言葉がいくつもの響きを立てて聞こえてくるのではないかと思います。まず、オーソドックスな読み方をしてみましょう。「もう盗んではいけません」という言い方をしています。ここから、ひょっとして、エフェソの教会には元泥棒の人がいて、その人が導かれて教会員となり、真っ当な生き方へと立ち直ろうとしている。そういう場面が想像できるかと思います。もし、そうであるなら、これは常識を超えるメッセージではないかと思います。私たちの常識からすれば、「もう盗んではいけません」のあとは「せめて自分と家族の食い扶持ぐらいは真面目に働いて稼ぎなさい」と言うのが関の山だと思うのです。

ところが、聖書は、そこでは終わらない。罪人が悔い改めて真面目に働くことは、自分の食い扶持を稼ぐだけではない。汗水流して働くあなたの姿が多くの人を励まし、恵みを分け与えることになるではないかと、聖書はそこを語るのです。これはイエス様がペトロにお語りになった言葉、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というお言葉を思い起こさせます。

そして、もう一つ、エフェソ書の御言葉から聞こえてくる響きがあると思います。それは、先ほど述べた人間の罪と自然界の関係です。人類が、その欲望の赴くままに、自然界から搾取し、自然界を変形させ、破壊しています。地球の温暖化に対する二酸化炭素の排出量をめぐる議論においても、先進国と途上国の間に、とても理性的とは思えない醜い対立があります。地球的規模の危機感から目を背けて、自国ファーストに走る超大国があります。政治家や科学者だけに責任があるのではありません。私たち普通の市民が問われています。その責任を問う声が、あのエフェソ書の御言葉です。

「盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。」

自然界から、地球から搾取するのは、もう止めなさい。むしろ、神から託された自然界を守り育て、その恩恵を自然界全体に分け与えることが出来るようになりなさい。これは人類全体に語られたメッセージであると思います。十戒の第八の戒めは、ここまでの広がりを持って、私たちに悔い改めを迫っていると思うのです。

今日は2025年最後の礼拝です。以上の御言葉を通して与えられた悔い改めを土台にして、恵みを自然界全体の分け与える、まこのエコロジーへと向かって新年を迎えたいと思います。

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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

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以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

12月28日(日)のみことば

「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光。」(旧約聖書:詩編119編105節)

「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(新約聖書:ルカ福音書24章32節)

心が燃えるとは、どういうことでしょうか? 燃え尽き症候群という言葉があるそうですが、ここで言われているのは、そういう燃え方ではない。一時的に盛んに燃え盛って、あとは燃えカスだけが残る。そういう燃え方ではないのです。深く、静かに、しかし確実に燃え続けている。あの燃えた炎が、今もずっと、自分自身を暖かく照らし、周りをも照らしている。平安の光となっている。イザヤ書42章に、こんな御言葉があります。

「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことがない。」

これはイエス様のことを預言した言葉です。傷ついた葦というのは、役立たないものの代表です。折れかかって、もうグニャグニャになっている。そういう葦を手にしたら、人はどうするだろうか? 「もうこんな役に立たないもの、要らん」と言って、ぺシャンと折ってしまうでしょう? まだ折れていない葦を、折って捨ててしまうでしょう? 暗くなっていく灯心だって同じです。もう先が細くなって、燃え尽きてしまう。そんな灯心を見たら、人はどうするだろうか? まだ消えていないにもかかわらず、フッと息を吹きかけて消してしまうでしょう。ところが、イエス様は、そうはなさらない。傷ついた葦を折ることなく、傷を癒して、もう一度、立ち直らせる。消えかかった灯心を消すことなく、もう一度、明るく燃やしてくださる。信仰の炎を燃やしてくださるのです。