聖書:イザヤ書43章1節・ヨハネによる福音書3章16節

説教:佐藤  誠司 牧師

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」 (イザヤ書43章1節)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネによる福音書3章16節)

 

今日は先に天に召された方々を覚えて、永眠者記念礼拝として礼拝を守ります。皆さんの前に天に移された方々の写真が掲げられています。この方々の名前が天にある命の書に刻まれているのです。この日に、私たちは、ヨハネ福音書が語る神の愛ということを主題にして、御言葉を聞こうとしています。

しかし、どうでしょうか、皆さん。新聞を広げてもテレビを見ても、本当に暗い、悲しい出来事、不安を募らせる出来事が続いていますね。その中で「神の愛」と聞いても、どうもピンと来ない。世の中を見渡せば見渡すほど、少しも神の愛が実感できないですね。暗い話題が尽きない世の中です。

個人のことを考えましても、不安が募ります。長い間コロナ禍が続いて、親しい人とも会うことが出来ません。そんな中で、会いたい会いたいと思っていた人たちが、突然、病気になったり、亡くなったりします。そういうのを見るにつけ、自分もやがては同じようになっていくんだなと思います。そういう不安の中にいる私たちが、どんな時にも絶対に崩れない希望を持つことが出来るのか。これは現代社会に生きる私たちにとって、非常に切実な問題です。その問題に対して、聖書は、こういう仕方で、じつに明確に答えております。それが今日読みましたヨハネ福音書3章16節の言葉です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この御言葉は、それこそ、聖書全巻のメッセージをギュッと凝縮したような御言葉です。ここでまず言われているのは、「神は、この世を愛してくださった」ということです。この神様って、どんな方ですか、と問われたら、皆さんなら、どうお答えになるでしょうか? これにも聖書は明確に答えています。この神様とは、私たちを造られた神様です。天地の一切を造られた神様です。その神様がこの世を愛してくださったのだと聖書は言うのです。初めにも言いましたように、本当に暗い、絶望的な世の中です。

しかし、その暗い絶望的なこの世を神様は愛しておられる。そう聞いて、どうも納得がいかないと思われるかも知れません。神様が愛しておられるなら、どうしてこんなことが起こるのか。特に大変に辛い思いをなさった方なら、神様がこの世を愛しておられるなんて、信じられない。そうお考えになるかも知れません。しかし、聖書が言う「愛する」ということは、ただ漠然と好きだということではない。具体的な痛みを伴う行為のことを「愛」と呼んだのです。その痛みとは何かというと、独り子を与えるということだったのです。どうしてこれが痛みを伴うかと言いますと、神様は独り子を十字架につけるために、この世に送ってくださったからです。そういう仕方で神様はこの世を愛してくださったからです。

もう戦争中のことですから、ずいぶんと昔になりますが、東京に中村という人がおりました。この人には奥さんと二人のお子さんがあった。で、東京が空襲で危ないというので、疎開をしようということになりました。そこで信州の松本に人を頼って仕事を見つけ、家族を東京に残して、自分一人、先に松本に行って準備をしていた。すると、そこへ電報が届きます。家族全員の死を告げる電報だった。取る物もとりあえず、急いで東京に帰りますと、避難した防空壕を焼夷弾が直撃をして、三人とも焼け死んだことが分かった。彼はもう魂を掻き毟られる思いで、家族を葬りました。もう生きる希望がない。何をする気も起こらない。悶々と日々を送るうちに、終戦になりました。しかし、それで生活が変わるわけではない。眠ることも出来ない。生きる望みが断ち切られたのです。

で、その時に、彼はふっと聖書を読んでみようと思ったのです。この人はクリスチャンではありません。しかし、青山学院を卒業しておりましたので、聖書の存在は知っていた。しかし、聖書のことなんか、全然気にもかけていなかった。けれども、この耐えられないような苦しみが、少しは慰められるかも知れないと思って、聖書を読んでみた。ところが、さっぱり分からない。それでも辛抱をして読んで行きますと、当時の聖書は文語約聖書です。こういう言葉と出会った。

「二羽の雀は一銭にて売るにあらずや、然るに、汝らの父の許しなくば、その一羽も地に落つること無からん。」

一銭で売られている雀であっても、神様の許しが無ければ、決して死ぬことはない、という意味ですね。この言葉が彼の胸に突き刺さった。そうだとすれば、妻や子が死んだのも、神様の御心だとでも言うのだろうか。そんな馬鹿なことがあるか。神様はなぜ罪もない家族を殺してしまわれたのか。なぜ、神様はこんな酷いことをなさったのか。もう読むのを止めてしまおうかと思いましたが、それでも不思議に止めることなく、聖書を読み進んで行きました。そして、とうとうヨハネ福音書の3章16節というところに来たのです。さあ、なんと書いてあったでしょうか。

「それ神はその独り子を賜うほどに世を愛し給えり、すべて彼を信ずる者の滅びずして、とこしえの命を得んためなり。」

この御言葉に彼は衝撃を受けるのです。自分の苦しみは誰にも分からないと思っていたのに、天地の造り主である神様も、ご自分の独り子の死を経験なさったのか。我が子が死ぬということは、どれほど辛く悲しいことか。その悲しみを神様ご自身が経験しておられる。誰も知らないとばかり思っていた自分の悲しみを、神様は知っておられたのだと、そういうことに気が付いた。そして彼は、そこからもう一歩、思索を進めていくのです。

しかし、なぜなのだろう。自分の場合は、もうこれはどうしようもない、私がどんなに止めようとしても止められたことではない、いわば不可抗力の出来事であった。しかし、神様は違う。ご自分の独り子が十字架につけられて殺されるのを、止めようとすれば、止められたはずだ。なぜ、そうなさらなかったのか? 実はここがキリストを信じる信仰の急所です。彼は我知らずのうちに、そういう信仰の急所にたどり着いたのです。そして、ひょっとして、これは神様ご自身のご計画ではなかったかと、そこまで思いが至った時に、彼は「もう一遍、聖書を読んでみよう」と、初めて求める心をもって聖書を読み始めたのです。すると、今まで心に響くことのなかった言葉が、まるで光を放つように響き渡りました。それは、この言葉だったのです。

「すべて彼を信ずる者の滅びずして、とこしえの命を得んためなり。」

私たちが一人も滅びないで永遠の命を得るために、得させるために、神様は自分の愛する独り子を十字架につけて殺すという、とてつもなく辛い悲しいことを忍ばれたのだと、そこまで彼は思い至るのです。そうしますと、また新たな疑問が生じてきます。どうして、神の独り子が十字架にかかったら、私たちは永遠の命を得ることが出来るのか? これはなぜなのだろうか、と、こうして彼は聖書を創世記の初めから読み始めました。そして、とうとう彼は、神様の深い愛、私たちを救うために独り子を与えてくださった神様の愛に触れることが出来ました。そして彼は、ついに導かれて信仰を告白し、キリスト者になりました。この中村さんもそうですが、私たちはこの世を生きていく上で、大変辛い、悲しい思いを重ねます。しかし、その辛い経験の積み重ねを通して、じつは、神様の恵み、力というものを、理屈でなく、人生の体験として知っていくわけです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

これは、原文の言葉の並び方を見ますと「神はその独り子を与えるという仕方でこの世を愛してくださった」というふうにも読める言葉です。私たちは「愛する」というと、何かいいものをどんどん上げる、その人が悲しまないように、辛い思いをしないようにすることが愛することだと考え勝ちです。しかし、それは世間の言葉で言えば、無病息災、家内安全ということです。この世の価値観と少しも変わらない。しかし、神様が愛してくださるといのは、そういう単純なことではなくて、ご自分の独り子を与えるという、そういう仕方で愛しておられるのです。ここは絶対に揺るがしてはならない点です。

ではなぜ、そのような仕方で愛してくださったのか。それは、人間の罪ということがあるからです。旧約聖書の創世記、その初めのほうに、人間の罪の始まりを書いた物語があります。神様がアダムとエバに「この善悪を知る木の実を食べてはならない。食べたら、あなたがたは必ず死ぬ」とおっしゃった。ところが、彼らの前にヘビが出て来て、「いや、そんなことはない。これを食べると、あなたがたの目が開けて、神様のように善悪を知るようになる」と、そう言って彼らを誘惑した。それで彼らはころりと参りまして「神様のようになれる」と、そう思って禁断の木の実を食べてしまった。これが罪の始まりだと書かれております。なんだか御伽噺のような他愛もない話のように思われるかも知れませんが、私は、これは本当に鋭く人間の罪ということを抉り取った物語だと思います。

罪とは何か? それは自分で善悪を判断できると思うことです。「神様なんか無くても良い。私が良いと思うことが良い。私がやりたいと思うことをやる。神様なんかに聞かなくても良い」と。じつはこれが今の人の世の姿ではないでしょうか。

今の世の中を見ていると、つくづくそう思いますね。悪いと思っているけど、止められないというのは、まだ罪も序の口なんです。ところが、もう自分のしていることが絶対に正しい、誰がどうなろうと、そんなことは問題ではないと。私がやりたいことをするのだと。これは本当に恐ろしいことですね。これが罪の奴隷となった人間の姿です。この罪の奴隷になっている人間を救い出すためには、人間の知恵や力ではどうすることも出来ない。人間の一切の問題を、神様がご自分で背負って解決をしなければ、どうにもならない。どうすれば解決が出来るか。

今日はヨハネ福音書3章16節に併せて、旧約のイザヤ書43章1節の御言葉を読みました。これも聖書全巻のメッセージを凝縮したような御言葉です。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

これを見ますと「贖う」という言葉と「名を呼ぶ」という言葉が並列になっていることが分かります。しかし、「贖う」という言葉は、私たち日本人が聞いてもピンと来ないかも知れません。「贖い」の風習が日本には無かったからです。ところが、これをユダヤの人たちが聞くと、すぐにその意味が分かる。ユダヤには古くから「贖い人」という救済制度があったからです。旧約のルツ記などに出て来ますが、これは失敗をして財産も無くなって、借金のためには、もう自分の身を奴隷として売らないといけない。そういうどうにもならない状態に陥った人を救うために、その人の一番近い親戚が公の場に出て来まして、「私がこの人の贖い人になります」と宣言をして、その人の名を呼んだのです。その時に、贖いが成立をした。だから、先ほどのイザヤ書は「贖う」という言葉と「名を呼ぶ」という言葉を並列で、同義語として使ったのです。

で、贖いが成立しますと、その人の持っていた借金も何もかも、贖い人が身代わりになって背負ってくれる。奴隷に売られていたなら、代価を払って買い取ってくれる。とにかく、その人の一切を私が負いますという「贖い人」の制度があったのです。先ほどのイザヤ書は、なんと神様ご自身が私たちの贖い人になってくださる。そういうことがやがて起こるのだと語っております。このイザヤの預言の成就を語っているのが、ヨハネ福音書の3章16節の御言葉です。ですから、この二つの御言葉は、それぞれ、旧約と新約を代表する御言葉なのです。両者が響き合って、そこに聖書全巻のメッセージが姿を現します。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

いかがでしょうか。二つの御言葉が響き合い、そこにキリストの言葉を聞き、キリストの姿を見るならば、これはもう聖書が読めたということです。

しかし、皆さんの中には、聖書には確かにありがたい言葉がたくさんあるが、何かそれは、自分にではなく、誰かほかの人に言われている、私はどうもそうはいかないだろうと、そういう思いを拭い切れないでいる方もおられるのではないでしょうか。

ところが、イザヤの言葉遣いを見てください。「私はあなたを贖う」「私はあなたの名を呼ぶ」と言われておりますね。「あなた」なのです。名指しで呼んでおられる。聖書というのは、確かに2千年前、3千年前に書かれたものですが、3千年前のイザヤの言葉を通して、今、神様が私に語りかけておられる。その語りかけを聞く営みが、聖書を読むということなのです。先ほど紹介した中村という人は、そういう仕方で聖書を読んだ。読んだというより、神様の語りかける御声を聞いたのです。

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ。」

こうして神様が私たちの贖い人になってくださった。その結果、どうなったかと言うと、人間がどうすることも出来ない罪を、神様がご自分で背負われたのです。それが御子イエス・キリストの十字架です。神様は独り子の十字架という大きな代価を払って、私たちを罪の奴隷から贖い取ってくださった。ですから、イエス様の十字架というのは、身代わりの十字架です。ですが、イエス様だけが十字架で死んだのではない。じつは、主イエスが十字架の上で息を引き取られる時に、古い私たちも一緒に死んだのです。しかし、神様はそのままにはしておかれなかった。イエス様を死者の中から復活させてくださった。初穂としての復活です。ですから、主の復活の時に、私たちにも永遠の命が約束されたのです。永遠の命とは、不老不死ということではありません。神様の前で生きる命のことです。命の書に記された命のことです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

今日は永眠者記念礼拝です。これは、亡き人を偲ぶだけの礼拝ではありません。天に移された方々と私たちをつなぐ希望を確認するのが、私たちの永眠者記念礼拝です。私たちを永遠の命へと導くこの御言葉をもう一度心に刻んで、新たに歩み出したいと願うものです。