聖書:詩編16編7~11節・コロサイの信徒への手紙3章1~4節
説教:佐藤 誠司 牧師
「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイの信徒への手紙3章1~4節)
これまで、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を学んできましたが、その学びも最終回となりました。使徒信条は父なる神を信じる信仰と御子イエス・キリストを信じる信仰を語ったあと、聖霊を信じる信仰を語りました。そして、使徒信条は聖霊を信じる信仰の中身を、一つずつ丁寧に挙げて行きました。まず初めに「聖なる公同の教会」を信じる信仰を語り、次に「聖徒の交わり」を信じる信仰を語り、「罪の赦し」を信じる信仰を語りました。そして、あとは「身体のよみがえり」と「永遠の生命」。この二つが残りました。この内、「身体のよみがえり」は先週の礼拝でお話しました。そして最終回の今日は「永遠の生命」を信じる信仰について、ご一緒に学びたいと思います。
先週もお話ししたことですが、「聖なる公同の教会」や「聖徒の交わり」「罪の赦し」というのは、既に起こったこと、既に存在するものです。ところが、「身体のよみがえり」と「永遠の生命」は、どうでしょうか。これらはまだ起こっていないこと、未だ存在しないことです。こうして、使徒信条は最後の最後に、まだ起こっていないこと、未だ存在しないことを信じる信仰を求めてくる。そういう構造になっているのです。
しかしながら、この二つは、確かに「まだ起こっていないこと」「未だ存在しないこと」ではありますが、宙ぶらりんのまま放置されているのではありません。確かな約束に裏打ちされて、私たちに提示されている。さあ「永遠の命」を確かなものとしている約束とは、どのような約束なのでしょうか。
永遠の命を約束する御言葉として、昔から読まれてきたのが、今日読んだコロサイの信徒への手紙第3章の言葉です。その冒頭でパウロは、こう語っています。
「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」
私たち人間は、どんな人でも「神様の御心にかなう生活をしたい」と願っています。それが「上にあるものを求める」生活につながっていくわけですが、その際に、じゃあ、どういう生活が上にあるものを求める生活になるかということを判断するのに、多くの場合、自分の中にある宗教心に頼っているのではないかと思います。人間の心の中には宗教心というものがあります。その宗教心が原動力となって、人間を様々な難行苦行や禁欲に駆り立てる。あるいは、うやうやしい宗教儀式に憧れさせる。宗教心はそういう働きをするわけです。パウロはこれらの儀式や決りごとについて、2章の17節で次のように述べております。
「これらは、来るべきものの影であり、実体はキリストにあります。」
旧約聖書には様々な律法や預言が記されていますが、パウロはじつに大胆に、それらは皆「影」なのだと言い切っています。そういうものでは、本当に神様の祝福に至ることは出来ない。どうしてでしょうか。私たちは聖書や信仰告白によって、神様のことが分かっているように思っていますが、じつは何も知ってはいないからです。例えば私たちは使徒信条によって、神様は「天地の造り主」であり「全能の父なる神」であることは知っています。それは確かに大事なことですし、正しいことでもあります。しかし、「天地の造り主」とか「全能の父なる神」というのは、神についての私たちの「言い表し」であって、本当に神様そのもの、神ご自身ではないのです。私たちが神様と直接お会いしたわけではありません。言ってみれば、私たちは「神様とはこういうお方だ」ということを、いわば学んで知っているに過ぎないわけです。ヨハネ福音書の第1章に、こんな御言葉があります。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
大事なことが言われております。じつは、これがキリスト教の一番大事なところです。神様についての知識をたくさん持っていることで神様が分かったように思っているのは、じつは私たちの勘違いなのです。そうではなくて、私たちはイエス・キリストにおいて初めて神様がどなたであるかが分かる。これがキリスト教の一番中心のメッセージです。神様はイエス・キリストにおいてご自身を現されたのです。ですから「上にあるものを求める」というのは、言い換えるなら、キリストを通して神様を求めるということです。自分で勝手に心の中に理想像を思い描いて、自分のやり方でそれに到達しようと努力するなどということは、いくら世間の賞賛を得たとしても、本当に上にあるものを求めることにはならない。
パウロはここでハッキリと、そういう独り善がりの努力や修行、難行苦行の類はダメなのだと言っています。私たちに与えられている道は、ただ一つ、イエス・キリストにおいて現された神の御心に従うことです。ですから、私たちがキリストを知れば知るほど、それが私たちの宗教的な常識と非常に違うということが明らかになります。
例えばイエス様の十字架。その十字架を、弟子たちはどんなふうに捉えていたでしょうか。「あなたこそ生ける神の子キリストです」と見事な信仰を告白したペトロが、その直後に、イエス様から十字架のことを予告されたとき、何と言いましたか。気色ばんで「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったですね。これが宗教心という名の常識なのです。主イエスはこの常識の本質を突いて、こう言われます。
「サタンよ、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
人間の宗教心から言えば、神様の祝福を受けているはずの神の独り子が十字架につけられて殺されるなんてことは、あるはずがない。いざという時には、神様が救いの手を差し伸べてくださるに違いない。それが神の祝福というものだと、人々はそう思っています。ですから、いよいよ主イエスが十字架につけられて、死が迫ってきたとき、見物していた人々は何と言いましたか。あの人たちは、期待を持って見ていたのです。神がエリヤを遣わしてイエスを助けるだろうか。神がイエスを十字架から降ろすだろうか。もし降ろしたなら、これはもう神の子だと。だから彼らは、こう言いました。
「もしお前が神の子なら、今すぐ十字架から降りて来い。そうしたら信じてやろう。」
このように、福音書に登場する人間の姿を見ますと、いかに人間の宗教心というものが的外れであるかが明らかになると共に、私たちが持っている、そういう思いが、イエス・キリストと出会うことによって、一つ一つ変えられていくのを覚えます。さあ、以上のようなことを踏まえて語られていくのが、あの御言葉です。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」
第3章に入って、何が言われているでしょうか。それは、私たちはキリストと共に死んで、キリストと共に甦らせられたのだ、と、そういうことが言われております。これはキリストにおいて私たちに教えられている一番大事なことです。しかし、皆さん、どうでしょう。私たちは本当にキリストと共に死に、キリストと共に復活させられたという実感があるでしょうか。実感出来ないですね。実感出来ないと、どうなりますか。心に疑いの念が生じてきます。私には信仰というものが無いのではないかという疑いがふつふつと湧き起こって来る。しかし、これこそが宗教心のなせる業なのです。宗教心は実感を求めるからです。あの十字架を見ていた人たちも、実感を求めていたのです。
しかし、信仰は実感に基づくものではありません。事実に基づくものです。キリストが私たちのために死んで、甦ってくださった。そして私たちがキリストと共に死に、古い自分が一度死んだ。そしてキリストと共に新しい命に甦らされた。この事実を福音は私たちに告げています。この福音を信じる。それが信仰です。これは人間の宗教心が実感出来ることではないのです。ですから、もう皆さん、「私には救いの実感が無い」などと言うのは、止めにしましょう。
私たち人間が一人の例外も無くキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に甦らされて、罪赦され、神の子とされている。これは事実です。しかし、それを信じるということになると、どうでしょう。一人の例外も無くというわけにはいきませんね。
この福井にも多くの人がいますが、福音を聞いて礼拝に来ている人は、それほど多くはいない。福音を信じるということが、いかに難しいことであるかが、これを見ても分かります。福音というのは、聖霊の働きによって私たちの心が変えられないと、信じることは出来ないのです。なぜなら、福音の中心部分はすべて、私たち人間の目に隠されているからです。目に見えないのです。私たちは自分がキリストと共に十字架につけられて死んだということを見ることが出来るでしょうか。出来ないですね。キリストと共に新しい命に甦らされたことを、皆さん、見たでしょうか。見ていないですね。ということは、どうですか。福音というのは、こうして、私たちに「見ないで信じる信仰」を求めているということです。ヘブライ人への手紙の11章に「信仰とは見えない事実を確認することだ」という御言葉があります。大事なのは目に見えない事実を、見ないで信じることです。どうしてか。
神様が独り子を世に下して成し遂げてくださった救いは、私たちが見ようが見まいが、信じようが信じまいが、揺らぐことの無い事実だからです。神様は既に完全な救いを備えてくださっているのです。この恵みを、どうすれば私たちが本当に受け取ることが出来るか。それだけが、私たちに課せられている大きな課題です。
さあ、どうしたら、それを信じることが出来るか。難行苦行や修行によって信じることが出来るだろうか。絶対に出来ないです。道はただ一つ、教会が大切に伝えてきた福音を聞くことです。私たちは、福音を聞くことなしに、この救いの事実を知ることは出来ません。神の独り子が肉体をとってこの世に来てくださった。私たちの罪を赦し、贖うために十字架にかかって死に、甦ってくださった。この事実を私たちに告げているのが福音です。人が、どれほど大きな罪を負うていても、たとい死に値する罪を犯していたとしても、その人の罪の赦しを宣言することが出来るのは、福音だけです。皆さんが、どんなに自分に絶望し、自分を憎んでいても、神様は決して皆さんを見捨てはしない。私たちがどんなに迷っていても、イエス・キリストは羊飼いとして必ず、その迷っているところまで私たちを探しに来てくださる。これらのことを、私たちは福音によって告げ知らされております。既に聞いて知っているわけです。
ところが、どうでしょう。福音というのは、一度聞いたら、もうそれで十分、一度聞いたら、そのまま私たちの心の中で力を持って私たちの生活を終始一貫、支配しているかというと、なかなか、そうはいかない。私たちは福音をよく知っているはずなのです。しかし、私たちはいつも、その福音の力によって生きているかと言うと、必ずしも、そうではない。私たちは弱いですから、絶えず、信仰を持っていない人と同じところに舞い戻って行きます。ものの考え方や人との接し方において、信仰を持つ前の「ただの人」だった時と同じ状態に舞い戻って来る。そういうところが、私たちにはあると思うのです。やっぱり、自分の思いを優先し、救いの「事実」よりも救いの「実感」を大事にしたがります。
しかし、神様は、そんな私たちを見捨てず、繰り返し福音を聞かせるということによって、私たちを呼び戻しておられる。私たちは日曜ごとに礼拝に集まっていますが、いったい、何のために集まっているでしょうか。お勤め・勤行をするためでしょうか。違いますね。お勤め・勤行というのは、詰まるところ、宗教心を満たすためのものです。私たちは、そうではない。神様が私たちを主の復活日に招いて、さあ、もう一度新しく福音を聞かせようと言っておられる。その招きに応えて、私たちは集まって福音を聞き、祈りをし、賛美し、献金をささげて感謝の応答をしている。そういう場に、神様は私たちを呼び出しておられるのです。この招きに応えて、皆で一緒に福音を聞き、心を一つにして神を賛美するとき、私たちはキリストの父である神様にお会いしております。この目でそのお姿を見ることは出来ません。しかし、神様は福音を通して私たちに語りかけ、「あなたは私の愛する子どもだ。私はあなたの名を呼び、あなたを贖った。もう心配は要らない」と、主の日ごとに新しく私たちに告げておられる。
「上にあるものを求める」というのは、じつは、そういうことです。福音を新しく聞くことによって、神様が私たちのために備えてくださった救いの恵みを本当に受け取って行く。そういう生活が「上にあるものを求める」生活です。そして私たちは今日、ここでもう一度、主の呼びかけに応えて、福音のメッセージを聞きました。これは、あだやおろそかには出来ない恵みです。この恵みに絶えずお応えする者でありたいと思います。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
8月10日(日)のみことば
「遠くにいる者よ、わたしの成し遂げたことを聞け。近くにいる者よ、わたしの力強い業を知れ。」(旧約聖書:イザヤ書33章13節)
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(新約聖書:マルコ福音書1章14節)
三つのことが言われています。第一に「時が満ちた」ということ。そして二番目に「神の国が近づいた」ということ。そして三番目に「悔い改めて福音を信ぜよ」ということ。この三つです。しかし、三つと言いましたが、この三つは、じつは一つのことを言い表しています。イエス・キリストにおいて新しい時が到来した。その一点を、この三つの事柄は言い表しているように思うのです。
イエス様が最初に告げておられるのは、「時は満ちた」ということです。じつはこの言い方は日本語には無かったものです。聖書独特の言い方であり、考え方なのです。日本で馴染みのある言い方は「時が流れる」という言い方です。この言い方の背後にあるのは「過ぎ去っていく」という考え方です。確かに時は過ぎ去ります。聖書もそれを否定はしていない。しかし、流れる時、過ぎ去る時の背後で、もう一つの時が刻まれている。時が満ち行くという仕方で刻まれていることを聖書は証しするのです。