聖書:ゼカリヤ書9章9節・マルコによる福音書11章1~11節

説教:佐藤 誠司 牧師

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ書9章9節)

「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」(マルコによる福音書11章7~10節)

 

今日はマルコ福音書が伝える主イエスのエルサレム入城の物語を読みました。「お城に入る」と書いて「入城」です。どうしてそう呼ぶのかと言いますと、下っ端の兵隊や足軽が城に入っても、「入城」とは言わないのです。入城というのは、あくまで、戦いに勝利した領主や王様が自分の城に入ることを言います。主イエスのエルサレム入りを「入城」と呼ぶのも、同じ理由からです。主イエスは王としてエルサレムの都にお入りになった。だから、主イエスのエルサレム入りを「エルサレム入城」と昔から言い習わしてきたのです。

しかしながら、我々の常識的なイメージからしますと、「入城」という言葉が、どこか華やいだ、勇猛果敢なイメージを持つのも事実でしょう。華やかな飾りを付けた馬に乗って威風堂々と町に入る王を、多くの人々が歓声をあげて迎えている。そんな勇壮なイメージを思い描きます。

ところが、実際はどうであったかと言いますと、主イエスはロバに乗って、しかも小さな子供のロバに乗って、穏やかに町にお入りになった。しかも、偶然、たまたまそこにロバの子がいたから、それに乗られたのではなく、わざわざ弟子たちを遣わして、ロバの子を連れて来させておられるのです。どうして、そんな手の込んだことをなさったのでしょうか。じつは、これは旧約のゼカリヤ書に記された預言と深い関わりがある。ゼカリヤ書9章の9節に、こんな言葉があるのです。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」

不思議な言葉でしょう。ゼカリヤの預言は何を語っているのでしょうか。ロバに乗ってやって来る王とは、どういう王なのでしょうか。ゼカリヤがこの預言を語ったころのイスラエルは、外国に虐げられて、滅んだようになっている。そこに神の子が王として来られる。ロバの子に乗って来られる。それは未だかつて見たことのない王であって、権力によらず、軍事力によらず、ただご自身の柔和な人格によって人々を従わせ、統治される。そういう柔和な王の到来をゼカリヤは告げたのです。

主イエスがロバの子をわざわざ引いて来させて、それにお乗りになったのは、ゼカリヤのこの預言がご自身によって成就したことを人々に告げる意味があったものと思われます。ここには、私こそまことの王なのだという主イエスの強いご意思がうかがえます。どうして主イエスは、そこまで王ということにこだわられるのでしょうか。王というのは、「支配者」のことです。人々を支配するから、王なのです。けれども、先ほども言いましたが、主イエスがロバに乗って来られたのは、権力や軍事力によって人々を支配するためではなかった。そういう、人々を無理やり従わせ、支配する王ではない、柔和な人格をもって人々を心から従わせる王として、やって来られた。そこに主イエスがロバの子に乗って来られた理由があったのです。

王には必ずやらねばならない仕事があります。王には義務があるのです。それは何だと思われますか? 戦いなのです。戦いと言いましても、相手をやっつける戦いではありません。そういう戦いは王の戦いではなくて、兵隊の戦いです。王には王にしか出来ない戦いがあるのです。それはどういう戦いかと言いますと、それまで人々をがんじがらめにしてきた古い支配を終わらせる。間違った支配をしてきた古い力を滅ぼして、新しい支配を確立していく。そういう戦いは、兵隊にも将軍にも出来ません。これはもう、王でなければ出来ない戦いです。

主イエスはそういう戦いを戦い抜く王として来られました。今や乗るか反るかの戦いが始まろうとしています。主イエスのエルサレム入城は、その戦いの幕開けを告げる出来事でした。だから、主イエスは、ご自分が王であることに徹底的にこだわられる。それは主イエスの誕生のとき、すでに天使によって告げられていたことです。天使ガブリエルはマリアにこう告げました。

「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

この支配を成し遂げるために、主イエスはお生まれになったし、やはりこの支配を確立するために、王としてエルサレムにお入りになったのです。その支配とは「神の支配」にほかなりません。主イエスがしばしばおっしゃった「神の国」というのは、この「神の支配」のことです。武力ではない、愛による支配です。主イエスは、しばしば神の国の到来を告げられました。マルコ福音書の1章に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた主の言葉が伝えられています。これが「神の国の福音」と呼ばれるものです。

そしてもう一つ、ここで確認しておかねばならないことがあります。それは「柔和な王」ということです。主イエスがロバに乗って来られた。これはゼカリヤが預言したように、まことの王、柔和な王の到来を告げる出来事でした。ところが、肝心要の「柔和」という言葉の意味が、どうもよく分からないのです。「柔和」という言葉そのものは、意味が分かるのです。あの人は温厚な、柔和な人だなあなどと、私たちも言います。

ところが、ゼカリヤの言う「柔和」というのが、それと同じなのかどうか、そこがどうしても分からなかった。ちなみに、新共同訳聖書はこの「柔和」という翻訳を使いませんでした。その代わりに「高ぶることなく」という言葉を当てました。しかし、本当を言えば、口語訳のように「柔和」とすべきであったと私は思います。なぜなら、この「柔和」という言葉には、特別の意味が込められていたからです。それを発見したのはパウロです。

パウロが書いた手紙にフィリピの信徒への手紙がありますが、あの手紙の第2章に有名なキリスト賛歌と呼ばれる一節があります。これは「賛歌」と呼ばれていることからも分かるとおり、初代教会で歌われていた最古の讃美歌ではなかったかといわれるものです。そう思って聞きますと、どこかしら讃美歌のような響きが聞こえてきます。フィリピ書の2章6節以下です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

いかがでしょうか? 初代のキリスト教会はこんなにも堂々たるキリスト賛歌を歌っていたんですね。で、この中に「へりくだって」という言葉があります。「へりくだる」という言葉は、へりくだった態度というように、ただ態度や姿勢を言い表す言葉のようですが、ここで使われているのはそういう比喩的な意味ではない。態度や姿勢ではなくて、実際に「低い所へ下って行く」という意味を持っている。ですから、キリスト賛歌は、十字架によって低い所へ下って行かれたキリストを、神は復活によって高く引き上げられたのだという内容を持つわけです。で、この「へりくだる」というのが、じつはゼカリヤが言うところの「柔和」ということだったのです。

つまり、柔和な王というのは、ただ単に態度が柔和だとかへりくだった謙虚な王様だという意味ではない。低い所へ、一番低い所へ下って、そこからすべての人を支える王という意味があったのです。その低い所とは、いったい、どこのことですか。そう、十字架なのです。十字架において、主イエスは罪の赦しを成し遂げられた。これがパウロが宣べ伝えた「十字架の福音」と呼ばれるものです。

そこで、いきおい、福音には二つの種類あったのではないか、主イエスが宣べ伝えられた「神の国の福音」と、パウロが伝えた「十字架の福音」があるのではないかということになりまして、これが大論争を引き起こします。パウロは主イエスが宣べ伝えた福音とは違うことを宣べ伝えているのではないかという批判がパウロに寄せられたのです。ところが、神の国の福音と十字架の福音は対立するものではない。対立どころか、主イエスの告げられた神の国は、主イエスの十字架においてこそ成就したではないかと、その一点が明らかになったのです。

ですから、十字架の福音と神の国の福音は一つのことだと。だからこそ主イエスは、神の国、すなわち神のご支配を成就させるために十字架についてくださった。王として十字架につけられたのです。皆さんは、主イエスの十字架の上に「ユダヤ人の王」と書かれた捨て札が掲げられたことをご存じのことと思います。主イエスは王としてエルサレムに入城し、王として十字架につけられ、殺されたのです。

さて、主イエスの一行がオリーブ山から都を見下ろす坂に差し掛かったとき、早くもエルサレムの町中から歓声が聞こえてきます。その声は主イエスがエルサレムにお入りになって、頂点に達します。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」

この「ホサナ」というのは「救ってください」という意味の言葉です。王を迎える人々が歌った歓迎の言葉です。人々の主イエスに寄せる期待をうかがわせる歌声です。主イエスも、人々の歓迎を喜んで受け入れておられます。確かに美しい場面であると思います。

しかし、この美しい場面に感動しながら、私たちの心には、もう一つ、どうしても釈然としない思いがあると思います。それは、これほどの大歓迎をした人たちが、ほんの数日後に、どうなったか。それを知っているからです。「ホサナ、救ってください」と歓声を上げた、その同じ人々が、同じ口で、数日後、主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ。そのことを思うにつけ、私たちは人の心の醜さと罪深さを思わざるを得ない。しかも、それは他人事ではない。私たちの心にも同じ罪深さが潜んでいるのではないかという思いがあります。

しかし、ひょっとして、主イエスは、あの大歓迎を喜んで受け入れられたとき、この人々すら気がついていない罪の思いを、主イエスは既に見抜いておられたのではないでしょうか。人々の罪の思いを見抜いた上で、主イエスは王として歩まれた。柔和な王として歩まれたのです。この人々を贖うためにです。

贖いという言葉には「身代金」という意味があります。私たちが価なしに救われるためには、どこかで私たちの身代金が支払われているのです。私たちは自分では知らないけれど、皆、罪の奴隷です。罪の奴隷というのは、罪の言いなりになって、逆らえない状態のことです。その奴隷の状態から解放されるために、どうしても身代金が要る。それをイエス・キリストがご自分の命を十字架の上で捨てることによって、支払ってくださった。これが主イエスの名による救いです。

主イエスの十字架の贖いによって身代金が支払われて、あなたも罪が赦されている。そういう知らせ、これを福音というのですが、その福音を聞いたときに、「ありがとうございます」と言って、罪赦された新しい人生を受け取る。受け取って生きる。これがキリスト教の信仰の本質です。

主イエスの名による救いとは、罪の赦しであり、それを感謝して受け取るときに、信仰という出来事が起こってくる。信仰とは神の御業による出来事です。主イエスは、まさにそのために王としてエルサレムに入城されたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。 今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。

5月21日(日)のみことば(ローズンゲン)

「主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。」(旧約聖書:イザヤ書56章3節)

「ペトロは口を開き、こう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』」(新約聖書:使徒言行録10章34~35節)

今日の新約の御言葉は使徒ペトロがローマ人コルネリウスに福音を語る場面を伝えています。本格的な異邦人伝道が、ここに始まったのです。ペトロはこのあと、イエス・キリストのことを「この方こそ、すべての人の主です」と言っております。つまり、ペトロはここで、こう言ったことになります。神は決して人を分け隔てなさらないこと。そして、神は、どの国の人をも受け入れてくださること。そして、イエス・キリストはすべての人の主であること。

さあ、この三つを一つにまとめると、どうなりますか? 神は、イエス・キリストを主と信じる人なら、どこの国の人であろうと分け隔てすることなく、受け入れてくださる。いかがでしょうか。これは2千年来、今も変わることのないキリスト教会の福音のメッセージでしょう? さあ、ルカは、ここで何を語っているのでしょうか。これはじつに大胆なことだと思うのですが、キリスト教会が語る福音のメッセージは、ローマ人に向き合ったときに初めて完成したのだと、ルカはそう語っているのではないでしょうか。