聖書:使徒言行録18章1~18節

説教:佐藤 誠司 牧師

「ある夜のこと。主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。」 (使徒言行録18章9~11節)

 

使徒言行録の17章から18章にかけて記されている、アテネ伝道とコリント伝道の物語。おそらく、ここらあたりが使徒言行録の中心になるのではないかと思います。なぜかと言いますと、ここで福音宣教は、これまでと全く異なる新しい局面に入って行くからです。

これまで、パウロは、行く先々で、まず会堂に入って、御言葉を語りました。シナゴーグと呼ばれた会堂は、ユダヤ教の教会のようなものです。そこにはユダヤ人だけでなく、聖書の神様を信じる異邦人も集うことが許されておりましたから、会堂で御言葉を語ることは、とりもなおさず、ユダヤ人と異邦人の双方に福音を伝えることになります。一つの町に限られた日数しか滞在できないパウロにとって、会堂での伝道は効率的でした。なにせ、そこには聖書を知っている人々が自分の意思で集まって来るのですから、人々には御言葉を聞くための心の備えがあります。聖書の予備知識もある。整えられた講壇があり、聖書が全巻備え付けられている。まさに良いこと尽くめ。なにより、素晴らしいことは、会堂に集う人々には、ユダヤ人と異邦人の壁を越えた連帯感と言いますか、「私たちは神の民だ」という絆がありました。民族の壁を超えた一つの民が、そこには存在したのです。

しかし、この会堂での福音伝道には限界がありました。パウロがキリストの福音を旗色を鮮明にして語れば語るほど、ユダヤ教との食い違いがハッキリと浮かび上がってきたからです。キリストを信じる信仰は、当初、ユダヤ教の一派のように思われておりました。だからこそ、会堂で福音を語ることも許されたわけですが、聞いているうちに、「おや、これは我々が聞いてきた聖書のメッセージとは違うぞ」と、一般の人たちまでがそう思うようになっていったのです。ですから、使徒言行録は、パウロが会堂で語るときの描き方を少しずつ変えてきています。初めの頃は、ただ「御言葉を語った」となっていたのが、「論じた」とか「論じ合った」「説得した」というふうに、熱い議論を思わせる描写に変わってきています。実際、会堂内で論争が起こっていたのです。それがちょうど、パウロがヨーロッパ世界に渡る頃と一致します。

歴史的なことを言い添えますと、キリストを信じる人々は、ユダヤ教との食い違いが明らかになると共に、会堂から追放されて行きます。ヨハネ福音書が、まさに会堂追放のモチーフを全編に渡って描いておりました。あの福音書には、あちこちに「会堂を追放されるのを恐れて」という表現が出て来ておりました。ルカが書いた使徒言行録も、この歴史的な事実を踏まえているのですが、ヨハネ福音書が会堂追放を描いたのに対して、使徒言行録は追放されたのではなく、キリスト教が自ら会堂を飛び出したのだという描き方をしています。

さて、パウロたちが会堂を出る契機となったのが、先週読みましたアテネでの伝道です。一般に、パウロのアテネ伝道というと、パウロがアテネの人々の知的好奇心におもねって説教を語ったことで、結局、アテネ伝道は失敗に終わったのだとする理解が多いようです。しかし、それは物語の表面しか見ていない理解であって、じつはアテネでの伝道は福音宣教の歴史の上で、新しい時代の到来を告げる、画期的な出来事だったのです。パウロは当初、アテネでも会堂で語りました。

しかし、先週読みました16節から34節までの物語を見ますと、その大部分がアレオパゴスで語られたパウロの説教に費やされています。キリストの福音は、ついに会堂を飛び出したのです。これがアテネ伝道の物語が語る画期的な出来事です。その説教が丁寧に取り上げられています。これまでパウロは、会堂で語るときは「兄弟たち」という呼びかけで説教を語り始めるのが常でした。「兄弟たち」という呼びかけは、神の民に対する呼びかけです。ここからも、会堂では「民」の存在が前提になっていることが分かります。

しかし、アテネではどうだったでしょう。17章の22節を見ますと、パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、「アテネの皆さん」と呼びかけています。「兄弟たち」と呼びかけることが出来ないから、仕方なく「アテネの皆さん」と言ったのでしょうか? 違います。パウロが「アテネの皆さん」と呼びかけたのは、そういう消極的な理由によるのではない。もっと前進的と言いますか、前に打って出る姿勢があったと思う。福音は会堂を飛び出しただけではなくて、町に打って出たのです。アレオパゴスとは思想に関する裁判も行った所です。パウロの語る福音が危険思想ではないかと、鵜の目鷹の目で人々は聞き耳を立てています。多くの人はパウロの説教を理解せず、むしろあざ笑って、去って行きました。ところが、ごく少数ながら、信じる人々が起こされた。しかも、それはパウロの説教を詮議するために鵜の目鷹の目で聞いていたアレオパゴスの議員だったのです。

さて、今日のコリントの物語は、こういう流れをしっかりと踏まえて聞くべき物語です。会堂を飛び出し、町へ打って出た福音は、どのように前進していくのか? 先ほど私は、パウロのアテネ伝道は失敗ではなかったと言いましたが、それでも多くの人々に嘲笑を浴びせられ、去って行かれたのですから、パウロの落胆は想像に難くありません。それはパウロ自身がコリント教会の人々に宛てて書いた手紙の中で、こう述べていることからも分かります。

「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取り付かれ、ひどく不安でした。」

第一コリント2章3節の言葉です。やはり、アテネでの苦い経験が尾を引いていたのです。しかし、そんな苦しい状況の中で、パウロは主の導きによって、ここコリントで、またとない同志・友人が与えられます。アキラとその妻プリスキラです。この夫婦は教師でもなければ伝道者でもないのですが、福音を深く理解し、またパウロの働きを身をもって支え続けた人たちです。職業がパウロと同じテント造りだったこともあって、パウロは夫妻の家に住み込んで一緒に働きながら、祈りの生活を共にし、パウロはそこから送り出されて御言葉を語りました。これは生涯独身を貫いたパウロにとって得がたい経験となったことでしょう。

彼らとパウロの出会いは、まさに導きでした。パウロは彼らから、まだ見ぬローマ教会の現状を聞くことが出来たからです。アキラとプリスキラはもともと、ローマにいて、ローマ教会の有力な信徒だったのです。ローマでは早くから教会の基礎が固まっておりました。しかも、ローマ教会は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に交わりを保っている、極めて貴重な存在だったのです。

ところが、クラウディウス皇帝が全ユダヤ人をローマから退去させる勅令を出したものですから、ローマ教会のユダヤ人信徒たちはローマを出て行かなければならなくなりました。アキラとプリスキラ夫妻は、こうしてローマを出て来たわけです。それまで、ローマ教会はユダヤ人信徒と異邦人信徒が共に教会を形成していたとは言え、中心になっていたのはユダヤ人信徒でしたし、教師もユダヤ人だったでしょうから、残された異邦人信徒たちだけで教会を維持していかなければなりません。これは大変なことです。おそらく、パウロは、そういうローマ教会の切迫した現状をアキラとプリスキラ夫妻から聞いたのでしょう。そしてこれが、後にローマの信徒への手紙の執筆へと繋がっていくわけです。

さて、弟子のシラスとテモテがマケドニアからコリントに到着すると、パウロは御言葉を語ることに専念します。おそらく、シラスたちはマケドニアの諸教会からパウロの生活を支える援助を携えて来たのでしょう。それまで、パウロは安息日ごとに会堂で御言葉を語り、それ以外の日にはアキラ夫妻と一緒になってテント造りの仕事をしたと思われる。それが、今や、日々、御言葉に専念できるようになったのです。嬉しいことです。ところが、パウロが御言葉に専念すればするほど、ユダヤ人との対立が深くなる。ではパウロとユダヤ人たちは、いったい、どこで対立したのか? 5節に、こう書いてあります。

「ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。」

ユダヤ人との対立点は、やはり、ここだったのです。ナザレの人イエスは何者か。ただの奇跡を行う人か? 神からの救い主メシアであるか。マタイ福音書16章に記されたフィリポ・カイサリアのお話を思い起こします。主イエスが弟子たちに「人々は私のことを何者と言っているか」とお尋ねになった。すると、弟子たちは口々に答えます。

「預言者だと言っています。」「エリヤだとも言っています。」

ここから分かるのは、ユダヤの人々は主イエスを預言者の一人としては認めるのです。偉大な教師としても認めるのです。しかし、メシア、キリストとは認めない。これがユダヤ人の理解です。弟子たちの中でさえ、そうです。あのフィリポ・カイサリアで「あなたこそメシア、生ける神の子です」と答えることが出来たのはペトロだけでした。イエスというお方を誰と言うか? これは、まさしく現代に至るまで信仰の要なのです。

さて、使徒言行録に戻りますと、パウロとユダヤ人との対立は主イエスを誰と言うかという一点で、今や抜き差しならぬほど、深刻なものになっていました。会堂では、靜かだった礼拝が一変して議論の場に変わり、会堂での伝道を続行することに、そろそろ限界が見え始めている。対立が飽和状態に達したとき、ユダヤ人たちがパウロを口ぎたなく罵るという出来事が起こった。するとパウロは服の塵を払って、こう言ったのです。

「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」

これは完全な決裂状態を意味しています。しかし、パウロの手紙、特にローマの信徒への手紙などを読みますと、パウロにとって同胞であるユダヤ人の救いが彼の終生の願いであったことが分かります。パウロはここで「私は異邦人の方へ行く」と言っておりますが、パウロの福音理解から言って、異邦人だけの救いというのは、有り得ないことです。パウロにとって、救いとは、ユダヤ人と異邦人が共に一つの福音を信じ、共に一つの食卓に与ることだからです。だからこそ、パウロはユダヤ人信徒と異邦人信徒が共に教会形成をしているローマ教会の歩みに強い関心を抱いていたのです。

さて、7節を見ますと、「パウロはそこを去り」と書いてあります。これは会堂を自らの意思で出て行ったということです。追放されたのではなく、出て行ったのです。会堂を活動の拠点とはしなくなったということです。さあ、では会堂に代わる拠点は、いったい、何処であったか? 7節の続きに、こう書いてあります。

「神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。」

ティティオ・ユストという名前はローマ風であり、明らかに彼は異邦人です。彼はこれまで、神をあがめる異邦人として、安息日の会堂礼拝に集うてきた。ユダヤ教の信仰を養ってきたのです。それがパウロの語る福音を受け入れて、キリストを信じる信仰に入ったのです。これはどういう意味を持つかと言うと、キリスト教がもはや誰の目にも、ユダヤ教の一派などではなくなったということです。そして会堂の隣りに家を持つユストが、会堂を出て行ったパウロのために、自分の家を活動の場として提供したのです。

ユダヤ教と決裂して会堂を出て行ったパウロが、会堂の隣りで福音を語るという、象徴的な描き方がなされています。キリスト教とユダヤ教は確かに隣り同士なのです。距離的には近いのです。しかし、それは出て行った結果、隣同士になったわけでありまして、両者の間には微妙な空気が流れている。

そんな最中、その微妙な空気をさらに刺激する出来事が起こります。ユストの家の隣の会堂で会堂長を勤めて来たクリスポという人物が一家を挙げてキリストを信じる信仰に入るという事態が起こったのです。会堂長といえば、安息日の会堂で語られる御言葉が果たして聖書に叶っているかを吟味する役目を担っている人物です。その会堂長がユダヤ教からキリスト教に改宗したのです。しかも、一家を挙げてです。これはアテネでアレオパゴスの議員がキリストを信じる信仰に入ったことに匹敵する画期的な出来事です。もはや、会堂との決裂は誰の目にも明らかです。

しかし、これは喜んでばかりもいられない事態の到来を告げています。もう二度と会堂には戻れないのです。これまで、パウロは会堂を拠点にして御言葉を語ってきました。それは会堂に集う人々には「神の民」としての連帯があったからです。この民は、出エジプト以来の長い年月をかけて練り上げられ、形成されてきたものです。会堂から出て行ったパウロが、いかに熱心に伝道しても、新しい民が一朝一夕に誕生するとは、考えられません。まさに一から出発して、新しい民を形成しなければなりません。パウロは途方に暮れたに違いありません。主がパウロに語りかけられたのは、そんなときでした。主が幻の中で、こう語られたのです。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

私の民がいると主は言われたのです。会堂に集う民ではない。新しい民です。「民」というのは契約によって結び合わされた人々のことです。新しい民には新しい契約が存在しなければなりません。人々を新しい民とする新しい契約とは何か? パウロの脳裏に、かつて彼がペトロたちから受けた言葉が響いたに違いありません。

「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。」

聖餐の制定の言葉です。パウロはこれを、コリント教会の人々に宛てた手紙の中に記しました。語られる御言葉と、聖餐。この二つの事が福音に基づいて行われる限り、そこに新しい神の民は生み出されていく。「この町には私の民が大勢いる。」

これは今の私たちにも向けられている最大の励ましではないでしょうか。

 

 

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