聖書:申命記18章9~13節
使徒言行録19章11~20節

説教:佐藤 誠司 牧師

「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。」(申命記18章9~12節)

「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。こうして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」(使徒言行録19章17~20節)

 

今日も使徒言行録を読みました。使徒言行録という書物はキリストの福音がユダヤのエルサレムから始まって、国境を超え、民族の壁すら超えて広がって行く様を描いております。国境を越え、さらに民族の壁さえ超えるのですから、神様のことも知らなければ、聖書も知らない。そういう人々に福音が伝えられて行く有様を、この書物は描いております。当然、そこには大きなカルチャーショックが起こります。驚きがあり、衝撃があり、反発もあるでしょう。しかし、その中から、少しずつではありますが、心開かれて福音を信じる人たちが、起こされていくのです。使徒言行録はその有様を、じつに生き生きと描いています。

しかし、それと並行するように使徒言行録が描いておりますのが、魔術との戦いです。使徒言行録は、すでに第8章に於いて、伝道者フィリポがシモンという魔術師と対決する物語を語っておりましたし、パウロも第1回伝道旅行に於いて魔術師と対決したことが13章に記されていました。そしてさらに16章でも、パウロは占いの霊にとりつかれた女から、その霊を追い出してやるという出来事が書かれていました。そして今回の物語となるわけですが、都合4回も同じ趣旨の物語を繰り返し語っていることからも、著者のルカがいかに福音と魔術との戦いに強い関心を持っていたかが分かります。

魔術は英語でいえばマジックですが、このマジックの語源となったマギという言葉が、皆さんよくご存じの聖書の物語に出て来ます。それはマタイによる福音書の有名なクリスマスの物語。幼子イエスの前にひれ伏して、黄金、没薬、乳香をささげた3人の博士たち。あの博士というところに、使われているのがマギという言葉なのです。つまり、あの博士たち、新共同訳聖書では占星術の学者と訳されていますが、あの博士たちは星占いの魔術をやっていたのです。その魔術師たちが不思議な導きで救い主と出会った。幼子イエスと出合って、その前にひれ伏したのです。

すると、どうでしょう。彼らの心は喜びで満たされて、その喜びに突き動かされるようにして、彼らは宝の箱を開けて、黄金、没薬、乳香をささげたのです。さあ、黄金、没薬、乳香とは何だったのでしょうか? じつは、これらは皆、彼らが星占いに使っていたものだったのです。彼らは東の国で、黄金、没薬、乳香を使って星占いをしていた。魔術を行っていた。それが、まことの救い主と出会って、ひれ伏して礼拝をした。そのとき、心に沸き起こる喜びに突き動かされて、彼らは黄金、没薬、乳香をささげた。つまり、魔術を捨てたのです。あの物語はそういうメッセージを語るお話なのです。

ここから旧約聖書の世界に立ち帰ってみますと、イスラエルの人々がモーセに率いられてエジプトを脱出します。エジプトといえば魔術のデパートのような所です。そこを脱出した。もうそれだけで一つのメッセージが語られていますね。しかし、イスラエルの人々は、これできれいさっぱり魔術と縁を切ったわけではありませんでした。荒れ野を旅するうちに、彼らはその過酷さに耐えかねて、エジプトでの生活を懐かしむのです。不平をモーセにぶつけます。果てはエジプトから脱出させてくださった神様にまで不平をつぶやきます。これがイスラエルの人々を襲った試練です。彼らはエジプトから救い出してくださった神様を信頼して歩むのか、それとも魔術の世界に戻って行くのか。これだけは二つに一つ。まさに二者択一です。都合の良い真ん中の道はありません。

こうして、40年の年月、荒れ野を旅したイスラエルの人々は、やっとのことで、約束の地カナンに入るわけですが、そこで彼らが対決しなければならなかったのが、やはり魔術だったのです。旧約の申命記18章9節以下に、こう記されています。

「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。」

ここにズラリと並べられているのがカナンの土俗宗教に根ざす魔術です。これらのことを見習うなと申命記は言うわけです。ということは、逆に言うと、これらの習慣を見習う人々、魔術に心引かれる人々が、神の民と呼ばれるイスラエルの中にも、少なからずいたということです。だからこそ、申命記はこれを厳しく戒めているのです。

では、魔術の類に引かれる心とは、どういう心なのでしょうか? これについて、示唆に富む物語が旧約のサムエル記上28章に出て来ます。ご覧のように、小見出しがついています。

「サウル、口寄せの女を訪れる」

まさに、この物語はイスラエルの王であるサウルが、窮地に陥って錯乱し、禁を犯して口寄せの女を訪ね、預言者サムエルの死霊を呼び出して、自分の前途を探る。そういう場面を描いています。サウルは女に見破られないように変装して出かけます。そのときの彼の心は、どういう心であったことでしょうか? 平安と喜びに満たされた心だったでしょうか? いいえ、その反対です。恐れと不安に捕らわれた心です。サウルは、恐れと不安に追い立てられるようにして、魔術に走ったのです。

このようなことを踏まえて、今日の使徒言行録の物語を読みますと、大変興味深いことが分かってきます。今日の物語はエフェソの町で起こったパウロと魔術との対決が語られているわけですが、その前後を見ると、何が書いてあるでしょうか。10節の後半に、こう書いてあります。

「ユダヤ人であれギリシア人であれ、誰もが主の言葉を聞くことになった。」

そして20節には、こう記されています。

「こうして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

いずれも主の御言葉が力強く語られ聞かれて、ますます前進していったことが記されています。魔術との戦いの物語は、主の御言葉の前進を告げる言葉に、ちょうどサンドイッチのように挟み込まれていることが分かります。主の御言葉か魔術か。この二者択一こそが今日の物語の眼目であることが、これで分かります。御言葉か魔術か。これは先ほどお話した、荒れ野を旅するイスラエルの人々と同じです。神様の御言葉に従って歩むのか。それとも魔術のデパートのようなエジプトでの生き方に戻るのか。二つに一つです。

今日の物語ですが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師というのが出て来ます。ユダヤ人で祈祷師というのは、本来ならば有りえないことです。この祈祷師というのは呪文を唱えるまじない師のことです。これは初めに紹介した申命記の18章の言葉が語るように、ユダヤでは固く禁じられていた行為です。しかも、14節によると、ユダヤ人の祭司長の息子たちまでがこういう魔術に捕らわれていたのですから、ユダヤ教の中枢部まで腐敗が進んでいたことが伺えます。ユダヤでは魔術が律法によって禁じられていたにも関わらず、律法違反が公然と行われていたわけです。この祭司長の息子たちが試みに、主イエスの名を唱えて悪霊を追い出そうとした。つまり、彼らは主イエスの名を、まじないとして唱えたわけです。ところが、悪霊はこう言い返したのです。

「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったい、お前たちは何者だ。」

そう言うや、悪霊につかれた人は、祭司長の息子達に飛び掛って、彼らを押さえつけたので、彼らは丸裸にされて、ほうほうの態で家から逃げ出したというのです。こういう目に浮かぶようなコミカルな描写は、ルカが得意とするところです。

ところが、この事件が新たな波紋を広げます。この出来事がエフェソ中に知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いに崇められるようになった。そして注目すべきは次の18節です。

「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。」

さあ、キリストを信じる信仰に入った大勢の人たちが告白した悪行とは、どういう悪行だったのでしょうか? それは続く19節に書かれています。

「また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。」

彼らが告白した悪行。それは、なんと魔術だったのです。先ほど、ユダヤ教の中枢部までが魔術に捕らわれていたと言いましたが、同様のことはキリストを信じる人々にも言えたのです。ここらあたりは、現実をみるルカの厳しい目があると思います。異教文化の中で、キリストを信じる信仰を貫くことの、何と難しいことか。彼らは心からキリストを救い主と信じ、信仰に入ったのです。その心に偽りは無かったと思います。しかし、魔術と手を切ることが出来なかったのです。魔術の本を密かに隠し持っていた。捨て切れないのです。なぜなのでしょうか? キリスト者になりきれていないからです。しかし、彼らは、ついに魔術との関係を絶ち切りました。魔術の本を焼き捨てることが出来たのです。これは魔術との関係を断ち切ったというに留まりません。主の御言葉に本当の意味で生き始めたということです。だからこそ、彼らは自らの悪行をはっきり告白し、魔術の本を焼き捨てることも出来たのです。主の御言葉が、彼らの心の奥底を支配してきた恐れと不安を追い出したからです。

さあ、ひるがえって、日本の国に住む私たちは、どうでしょうか? 魔術の本を隠し持ってはいないでしょうか? 魔術に走る心。それは先ほどお話しをしたサウル王の末路のように、恐れと不安に捕らわれた心です。確かにイエス様を信じてはいるのです。しかし、キリスト者になりきれていない、心の奥底に恐れと不安がある。

繰り返し言います。魔術に走る心は、恐れと不安の虜になった心です。魔術と聞いて、そんな古臭いもの、現代社会には有りえないと思われる方もあるかも知れません。しかし、私は思うのですが、魔術的な力というのは、意外にも、この現代社会で形を変えて生き続けているのではないかと思います。どうしてでしょうか? 魔術は、人の心の奥底に潜む「恐れ」と「不安」を餌にして増え続けるからです。それは、あのオウム真理教が引き起こした事件を思い起こせば分かることです。現代のエリートとも言える医者や弁護士、科学者たちが、いとも容易にあの魔術的な教えに参ってしまった。それは、彼らの心に恐れと不安があったからです。恐れと不安ほど、人の心を捕らえて離さないものはないでしょう。明るく元気に生きている。しかし、心のどこかに恐れと不安がある。だから、魔術的な力と縁を断ち切れない。いったい、どうすれば良いのでしょうか? 新約聖書のヨハネの第一の手紙の4章18節に、こんな御言葉があります。

「完全な愛は恐れを締め出します。」

完全な愛とは、どういう愛なのでしょうか? これは、じつは私たち人間同士が愛し合う愛ではない。私たち人間の愛は、いかに深く愛し合っていても、完全ではない。完全な愛とは、自らを投げ打つ愛のことです。さらに言えば、自らの命を相手のために捨てる愛のこと。十字架の愛のことです。主イエスの愛のことです。この愛が恐れを締め出す。追い出すのです。愛が届くから、恐れを追い出すのです。では、この愛は、どういうふうにして、私たちの心に届くのか? イエス・キリストは二千年前のお方なのに、そのお方の愛が、今の私たちの心に。どう届けられるというのでしょうか。

申命記の第8章に、次の御言葉があります。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった。」

有名な言葉です。パンというのは「食べ物」の象徴です。パンを食べなければ、誰も生きていけません。近頃、断食道場というのがありますが、断食をしても、いつかは食べなければ、死んでしまう。心臓が動いて、呼吸が出来て、ああ、やっぱり自分は生きているなあと思いますけれども、それは私たちの体のことですね。そういうふうに、私たちの体がピンピンしておれば、私たちは生きていることになるのかといえば、どうもそうとは思えない。パンを食べたら生きて行けるけれど、それは生物的に生きているということです。聖書が「生きる」と言う場合、そういう生物学的なことは考えていないのです。聖書は生物の教科書ではない。では、聖書が言う「生きる」とは、どういうことなのか? それは神様に向かって歩むということ。神様に返事をして生きる。生かされて生きるということなのです。

じゃあ、そのように、私たちが神様に向かって、神様に返事をして生きるためには、何が必要かというと、申命記は「主の口から出るすべての言葉」がどうしても必要なのだと教えるのです。さあ、神様の口から出る言葉って、何なのでしょうか? 口から出ると言っても、神様には口があるわけではないでしょうから、これは何か譬えで言われているのでしょう。ここが聖書独特の言い回しでありまして、この「口から出る言葉」というのは「語りかけの言葉」のことなのです。言葉と一口に言っても、様々な言葉があります。例えば、法律の言葉や規則の言葉。あれは口から出る言葉ではない。書いてある言葉です。特定の人を考えないで、誰にもあてはまるようにしてある。それが法律や規則の言葉です。それは口から出る言葉ではない。

それに対して、お父さんやお母さんが我が子を呼んで、座らせて諄々と言い聞かせる言葉がありますね。我が子の性格や境遇、さらに体の状態や将来のことまで、いろんなことを考えながら我が子と自分との関係の中で、心を込めて語りかける言葉。こういう言葉は誰にもあてはまるわけではありません。しかし、今のこの子のためには、言わなければならない。そういう思いをもって語られる言葉は生きた言葉です。これが口から出る言葉、語りかけの言葉ということなのです。

この語りかけの言葉は、必ず礼拝という営みの中で与えられます。そのために、信じて祈り求めるのです。牧師が語る説教を通して、あるいは、その日歌った賛美歌を通して、読まれた聖書の言葉を通して、語りかけられるメッセージがあるはずです。欠けのある言葉かもしれません。しかし、その欠けのある説教を通して語りかけられる、主の御言葉を心にいただく。そのときに、二千年前のイエスというお方が、今の私の心の中で生きて働いて、語りかけてくださる。そのとき、あの御言葉が成就するのではありませんか。

「完全な愛は恐れを締め出します。」

主の御言葉か魔術か。これだけは二つに一つです。御言葉をBGMのように聞きながら。魔術の本を眺めているなんてことは有りえない。御言葉に信頼して、そこから生きて行く。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きるとは、そういうことだと思うのです。

 

 

 

 

 

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