聖書:イザヤ書30章18~21節・マルコによる福音書14章27~31節

説教:佐藤 誠司 牧師

「あなたを導かれる方は、もはや隠れておられることなく、あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ。ここを歩け。右に行け、左に行け』と。」(イザヤ書30章20~21節)

「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(マルコによる福音書14章27~28節)

 

「従って、ふさわしくないままで主のパンを食し、主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。」

これは私たちの教会でも聖餐式で必ず読まれる御言葉です。ふさわしくないままでパンと杯に与ってはならないという厳しい警告の言葉です。おそらく、聖餐式でここが読まれるたびに、多くの人が、はたして自分はこの食卓に与るにふさわしい者なのだろうかと、自らを深く省みる。そういう御言葉であると思います。

しかし、主イエスがこの聖餐を制定なさった、その最初の食卓に、これに与るにふさわしい人物は、一人でもいたでしょうか? 今日の物語は、そこのところを赤裸々に語ります。

その食卓で、主イエスは裏切りを予告なさいます。あなたがたの中に、私を裏切る者がいるとハッキリ予告なさったのです。これが弟子たちの心に大きな波紋を呼び起こします。これが元になって、弟子たちの間に議論が起こりました。自分たちのうち、いったい誰が主を裏切ろうとしているのか。

ところが、間もなく、彼らは新たな議論に熱中し始めます。今度は自分たちのうちで、誰がいちばん偉いかという議論を、彼らはし始めるのです。ずいぶんと大人げないと思われるかも知れません。しかし、私は案外、こういうところが彼らの正直な姿ではなかったかと思います。これは一種の逃避なのです。

誰が主イエスを裏切るかという議論は、今の彼らにとって、もはや耐え難いものだったに違いありません。主イエスを取り巻く状況はすでに一変しておりました。特にエルサレムに入ってからというもの、人々の主イエスに対する風当たりは強まる一方。指導者たちの間では、早くも主イエスを捕らえようとする動きがあるようだと、弟子たちは肌で感じている。いずれこのお方は、捕らえられて、投獄されるか、殺されるかするのだろうと、弟子たちも内心、思い始めている。一触即発の状況があったわけです。

そこへ、主イエスが裏切りを予告なさったのですから、彼らはもう、心穏やかではない。互いに疑いの目で見てしまう。議論をすればするほど、不安が募る。やっていて辛いのです。ひょっとして裏切るのは自分ではないかという思いが、おそらく全員にあったと思います。

ですから、そういう議論よりも、もっと心から喜んで熱中できる議論があるではないかと。そう、以前から彼らが好んでいた論争、自分たちの中で誰がいちばん偉いかという議論の中に、彼らは逃避していったのです。主イエスはそんな彼らの心を見抜いて、こうおっしゃいます。

「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

いかがでしょうか。二つの大事なことが言われています。まず第一に、あなたがたは全員つまずく、ということです。弟子たちは、このとき、自分たちの中で誰が主イエスを裏切るのかという一点をめぐって心を騒がせていました。だからこそ、彼らは自分たちの中で誰が一番偉いかという議論に逃避したわけです。いずれも「自分たちの中で誰が」という発想です。

ところが、主イエスは「全員がつまずく」と言われます。誰が裏切るかではない。全員が裏切る。そして羊飼いを失った羊のように全員が離散する。これが第一の事柄です。

そして二つ目のメッセージが「あなたがたより先に」ということです。主イエスは「私はあなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われました。これは、主イエスがしばしばなさる言い方です。イエス様らしい、愛と配慮に満ちた言い方であると思います。どういうことかと言いますと、「あなたがたより先に」というのは、あなたがたと同じ道を、私は先回りをしている、ということ。さらに言うなら、「私は先回りをして、あなたがたを待っている」ということなのです。

しかし、イエス様のこの愛と配慮は、弟子たちの心に届いたでしょうか。私は届かなかったと思います。このときの弟子たちは、もうそれどころではない。自分のことで精一杯だったのです。それは、ペトロの次の言葉で分かります。

「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」

ペトロのこわばった表情が目に浮かびます。「たとえ、みんながつまずいても」という言い方に、ペトロの思いが正直に現れていると思います。自分は一番弟子だという誇りと矜持が、ペトロの中にはあるのです。ほかの連中とは違うのだという思いがあったのです。

しかし、主イエスは、そこに彼の弱さ、危うさを見ておられたと思う。ある意味で、12人の中でいちばん危うい状況に立たされていたのがペトロだったのです。だから、主イエスは、ペトロの方に向き直って、こうおっしゃった。

「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう。」

ペトロを狙い撃ちなさったのです。もちろん、これは愛による狙い撃ちです。ところが、ペトロは、この恵みに満ちた狙い撃ちに、気色ばんで、こう答えてしまいます。

「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」

いかがでしょうか? 一見、模範的な答えのように聞こえます。さすが一番弟子だと、ほかの弟子たちは思ったかも知れません。しかし、主イエスの眼差しはペトロの弱さを直視しておられる。冷たい、責めるような眼差しで直視しておられるのではありません。愛と憐れみの眼差しで見つめておられる。

「あなたは、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう。」

これは、ただの予告ではありません。ただ単に「あなたは私を裏切るよ」と言っておられるのではないのです。そうではなくて、あなたはそこから帰って来なさい。そこから立ち直って帰って来なさいと、主イエスはあらん限りの愛を込めて語りかけておられる。招いておられるのです。

今日の物語は、ここまでですので、もうこれ以上先のことはお話ししないのが筋なのかもしれませんが、ここで終わるのは、説教として、いかにも座りが良くない。そこで、もう少し先までお話しをして、そこから福音のメッセージを聞き取りたいと思います。

今日の説教題を、あれこれ悩んだ末に「彼は立ち直れるか」としました。今日読んだ31節までですと、そこまでしか語れないのです。ところが、ペトロは立ち直るのです。自力で、堂々と立ち直ったのではありません。主イエスの手にすがって、引き上げてもらって、立ち直った。無様な姿を人目にさらしながら、立ち直ったのです。どのようにして、ペトロは立ち直ることが出来たのか。この問いに対するヒントが、今日の物語の中に出ております。それはどこかと言いますと、28節の「あなたがたより先にガリラヤへ行く」という言葉なのです。これは、言葉を補いますと、「あなたがたがたどる道を私もたどる」ということです。イエス様を見捨てて逃げた弟子たちがたどる道とは、敗北者の道にほかなりません。その敗北者の道を、主イエスは歩まれる。しかも、弟子たちに先んじて歩まれる。そして、ペトロたちの行く手に主イエスは立って、ペトロたちを待っておられるのです。

ペトロがたどった道にも、主イエスはおられました。ペトロは胸を張って故郷のガリラヤに帰ったのではありません。イエス様が言われたとおり、大祭司の中庭で、ペトロは主イエスを三度に渡って否認しました。そんな自分が、どうしても赦せない。もう自分はあの方の弟子として生きる資格はない。失意の人は、しばしば故郷を目指します。ペトロも、そうだったのです。

しかし、その道の行く手に、復活の主イエスは待っておられた。そして、ペトロに、こう問いかけられたのです。

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」

この言葉は、じつは、イエス様が逮捕された夜の出来事に関係があります。あの夜、イエス様は弟子たちに、やがてやって来る受難を予告されました。そうしますと、ペトロが気色ばんで「たとい他の人が躓いても、私は決して躓きません」と皆の前で公言したのです。「この人たち以上に」というのは、あの時、ペトロが言ったことなのです。で、その言葉を、ペトロにもう一度思い起こさせるために、イエス様は同じ言い方でペトロに問いかけておられるのです。

あの夜、ペトロは「他の人と違って、自分はどんなことがあってもイエス様を見捨てるようなことはしない」と言いましたが、私は、あれは偽りの無い言葉だったと思います。真剣に、真面目に、彼は深い情熱を持ってイエス様を愛し、心から従っていたと思います。ところが、その時に、イエス様は、こうおっしゃった。

「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度、わたしを知らないと言うであろう。」

これはペトロにとって、本当に心外な言葉であったと思います。しかし、実際はどうであったかと言うと、怖くてイエス様を見捨てて逃げたペトロは、逃げ切れないで、イエス様が連行された大祭司の屋敷の中庭に入る。そこで大勢の人たちに混じって焚き火にあたっていると、灯りを受けて浮かび上がったペトロの顔を見た人が「あなたもあの男の仲間ではなかったか」と咎める。すると、ペトロは「いや、私はあの人とは関係が無い」と否認した。しかも、立て続けに三度、拒み通したのです。三度目に主イエスを否認した時、鶏が時を告げる。それで、ペトロは、はっと気が付いて、外に出て激しく泣いたと書かれています。なぜ泣いたのか。自分は何と不甲斐ない人間なのだろう。あの時は確かに、自分はイエス様に従って行こう、イエス様を見捨てるなんて、絶対にしないと本気でそう思っていた。しかし、いざという時に、自分はイエス様を見捨てて逃げた。あの人のことは知らないと、三度も否認した。自分は何と情けない人間なのだろうと、そう思って彼は激しく泣いたのです。

私たち人間は、多少の失敗なら克服することも出来ますし、心の余裕さえあれば、人前で失敗談を披露することも出来ると思います。周りの人たちも、失敗談を聞くことで心和み、場の雰囲気も和らぎます。

しかし、決定的な失敗だったら、どうでしょうか。これはもう、触れたくないし、触れられたくもない。ペトロも、あの一件だけは、触れてほしくないと思っていたと思います。

ところが、そのペトロに、イエス様は「この人たち以上に、あなたは私を愛するか」と問うておられる。しかも、イエス様は、これを三度、繰り返して問うておられる。これは、ペトロにとって大変に辛いことだったと思います。ですから、ペトロの返答の仕方は、本当に心を痛めて、辛そうなんです。心を搾り出すようにして彼は「主よ、そうです。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えている。彼は、イエス様から愛を問われて、素直に「はい、愛しています」とは、どうしても言えなかった。しかし、それなら愛していないかと言うと、そうではない。本当に心から主を愛しているのです。その気持ちだけは、どうしてもイエス様に伝えたい。それで出て来たのが、次の答えです。

「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

辛かったと思いますが、ここまで思いを引き出していただかないと、ペトロは立ち直ることは出来なかったと思います。今、ペトロは、イエス様を心から愛する自分も、愛しながらどこか弱さを抱えている自分も、すべて委ねて、イエス様に預け切った。そんなペトロに、イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と言われるのです。そして、イエス様は、ペトロの原点を示す言葉をおかけになります。

「わたしに従いなさい。」

これがペトロの原点、主イエスとの出会いの言葉です。場所は今と同じガリラヤ湖畔。夜通し網を打ったけれども、魚一匹取れなかった。獲物は無くとも、網の手入れだけはしなければならない。ガックリして網を繕うペトロに、イエス様は声をかけられたのです。

「舟を漕ぎ出して、もう一度、網を降ろしてみなさい。」

ペトロはプロの漁師ですから、今から網を打っても獲物は見込めないことは百も承知です。ですから彼は「先生、私たちは夜通し苦労したのです」と言って、やんわり断るのですが、ペトロは何を思ったのか、こう付け加えるのです。

「しかし、お言葉ですから、もう一度、網を降ろしてみましょう。」

思えば、ペトロの人生は、これの繰り返しだったのです。とんでもない失敗をする。挫折もするのです。しかし、その度に、イエス様はペトロに「もう一度、やってごらんなさい」と声をかけてくださる。そして、ペトロも、自分の無力さに肩を落としながらも、その度に、「お言葉ですから、もう一度、やってみます」と答えることが出来た。そして、それを自分の原点にすることが出来たのです。思えばこの生き方はペトロだけではない。私たちにも開かれたキリスト者の生き方ではないでしょうか。

「お言葉ですから、もう一度やってみます。」

立ち直って生きる生き方が、ここから始まります。

 

 

 

 

 

 

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当教会では「みことばの配信」を行っています。ローズンゲンのみことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。

ssato9703@gmail.com

 

以下は本日のサンプル

愛する皆様

おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
9月10日(日)のみことば(ローズンゲン)

「主よ、わたしの唇を開いてください。この唇はあなたの賛美を歌います。」(旧約聖書:詩編51編17節)

「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」(新約聖書:マルコ福音書7章28節)

今日の新約の御言葉は、ある異邦人の女性が主イエスに言った言葉です。福音書の中には、多くのやり取りが記されていますが、私はこの女性が発した一言は、すべての言葉のやり取りの中でも、最も美しいものの一つであると思います。異邦人の女がイエス様のことを「主よ」と呼びかけています。皆さん、意外に思われるかも知れませんが、このマルコ福音書の中で、人がイエス様のことを「主よ」と呼んでいるのは、じつは、ここだけです。主イエスの本質を知っていてしかるべき弟子たちですら、イエス様のことを「ラビ・先生」とは呼んでいるのですが、「主よ」とは呼んでいない。皆、イエスというお方がどなたであるか、そこが、まだ分かっていなかったということです。

そんな中で、この異邦の女、聖書とは何のゆかりも無いギリシア文化の中で育った女性が、「主よ」と呼びかけた。これは大きなことです。「ラビ・先生」というのは、詰まるところ、身分のことなのです。律法の教師のことをラビと呼んだのです。しかし、「主よ」という呼び方は違う。これは、言葉を補えば「私の主よ」ということです。つまり、この女性は自分と主イエスの関係を言い表すことによって、信仰を告白しているの