聖書:詩編16編10~11節・使徒言行録1章3~11節
説教:佐藤 誠司 牧師
「『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。』」(使徒言行録1章8~11節)
「イエスは、近寄って来て言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」 (マタイによる福音書28章18~20節)
今、私たちは、日曜日の礼拝で使徒信条を少しずつ学んでいます。使徒信条は、まず父なる神、造り主なる神を信じる信仰を語りました。次に使徒信条は、父なる神の独り子であるイエス・キリストを信じる信仰を語ります。この部分は、次のように語られます。
「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、」
イエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだられた。いわば人間が到達する底のまた底、どん底にまでくだって行かれた。そこから一転して、使徒信条はキリストの復活を語りました。普通なら、ここで終わってもよさそうなものです。キリストの復活が終着点でも良かったのです。ところが、使徒信条はさらに続けて、こう語っています。
「天に昇り、」
ほんの短い一節ですが、この言葉の持つ意味は測りがたいほどの重みがあると思います。キリストは天に昇られた。そのことの意味を明らかに示す御言葉として、今日は使徒言行録第1章の御言葉を読みました。それによりますと、復活されたイエス・キリストは40日に渡って弟子たちに現れて、ご自身を現し、親しく交わってくださいました。この40日間というのは、まことに恵み深い、かけがえの無い時であったと思います。なぜかと言いますと、この40日間というのは、やがて弟子たちの上に聖霊が降ることによって始まるキリストの教会の、キリストと共にある歩みが先取りされている。いわば訓練の時だったからです。
で、この40日の時が満ちた時が、キリスト昇天日です。残念なことに、私たちの教会ではキリストの昇天日を祝うことをしませんが、欧米の教会ではキリストの昇天日を盛大に祝います。なぜでしょうか。キリストの昇天によって弟子たちはキリストと遠く離れて生きることになるのですが、それはまた、新たな形でキリストと共に生きることになったからです。キリストと遠く離れている、しかし、キリストと共に生きる。これはまさしく教会の原型であり、教会の時の始まりを告げる出来事だったのです。天に上げられる前に、主イエスは弟子たちにこう言っておられます。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」
これは、まことに主イエスらしい約束の言葉です。この約束を語り終えると、主イエスは弟子たちが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなったと書いてあります。
さて、弟子たちは主イエスが天に上げられる有様を、おそらくぼんやりと、放心状態で見上げていたのでしょう。白い衣を着た二人の人、おそらくこれは遣わされて来た天使なのでしょう。彼らが弟子たちにこう声をかけた。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」
ここで私たちが心に刻んでおきたいのは、キリストの昇天とキリストの再臨は深く結びついている、ということです。ですから、キリストの昇天は信じることが出来るけれど、再臨はどうも信じられないということは、原則的にあり得ない。十字架と復活が一体であるように、昇天と再臨も分かちがたく結ばれている。少なくとも、そう信じることを、聖書は求めていると思います。
さて、弟子たちは天使の言葉に背中を押されて、さっそく行動を起こします。彼らがまずやったこと、それは集まって祈ることでした。今日読んだ箇所の少し先、13節に次のように書いてあります。
「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。」
これはなかなか意味深長です。この家には二階があった。しかも、彼らはその家に泊まっていたと言うのです。おそらく、この家の二階の部屋は、最後の晩餐が行われた部屋、聖餐が制定された部屋と思われる。ここが弟子たちの原点であり、ここで彼らは聖霊降臨の御業を受けて、教会として歩み始める。そして主イエスは復活して天に昇られたのだと彼らは語りました。
ところが、この弟子たちに対して、痛烈な批判が投げかけられました。弟子たちは十字架で殺された主イエスは甦って天に昇られたのだと告げました。神の右に座しておられるのだと伝えたのです。それに対して、じゃあ、イエスは天におられるのだから、この地上には不在ではないかと、頭の良い人たちが批判したのです。主イエスはもはやこの地上にはおられない。あなたたちがやっていることは、主イエスの御業などではなくて、主イエスの名を使ったあなたたちの業ではないかと批判したのです。
こういう批判は、ユダヤ教の律法学者たち、とくにファリサイ派の人々の中から出てきたのですが、面白いことに、これと同じ批判が福音が初めて伝えられる地では必ずと言ってよいほど起こりました。小アジアでも、マケドニアでも、ギリシアでも、ローマでも起こりましたし、日本でも起こりました。弟子たちは、自分たちのことを宣べ伝えるのではなく、あくまで主イエス・キリストの御業と御言葉を宣べ伝えました。何を措いても、キリストはこう語られた、キリストはこうなさったと言うものですから、ここからあだ名が付きまして、弟子たちがクリスチャン、すなわちキリスト者と呼ばれるようになったと使徒言行録は11章で述べている。それに対して、主イエスは不在ではないか、もういないではないか。それなら、あなたたちのやっていること、伝えていることが、どうしてキリストの御業になるのかと、またまた批判されたのです。
この批判に対して、ルカが書いたのが使徒言行録です。使徒言行録には、ペトロやパウロを初めとして、多くの福音の使徒たちが登場します。しかし、彼らを生かし、遣わしているのは主イエスご自身なのだとルカは言います。そしてその真実の真相を聖霊降臨と教会の誕生という出来事によって語っている。主イエスが天に昇られて、いなくなられたから、主イエスに代わって教会が登場するというのではない。天におられるキリストが、地上において、教会に現臨してくださる。教会と共に生きて働いてくださる。教会と共に、主イエスが歩みを始められる。それこそが聖霊降臨の真相なのだと使徒言行録は語るのです。
キリストの昇天というと、もう一つ、忘れてならないのが、マタイ福音書の最後の物語です。そこを読んでみたいと思います。マタイ福音書28章18節です。
「イエスは、近寄って来て言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」
いかがでしょうか。この最後のイエス様の言葉は、山の上で語られているわけですが、どうして山の上かと言いますと、主イエスはこのあと天に上げられて行かれる、天に昇られるのです。ですから、これは弟子たちに別れを告げておられる場面とみることが出来ます。
ところが、不思議なことに、その別れの言葉の中で、主イエスは何とおっしゃったかと言うと「私はいつまでもあなたがたと共にいる」と言われたのです。別れの言葉であるなら「もう私はあなたがたと一緒にいるわけにはいかない」とか「これからはあなたがただけでやっていきなさい」と言うのが普通なのに、そうではなくて、「世の終わりまで、私はいつもあなたがたと共にいる」とおっしゃった。これは考えてみれば不思議なことです。
しかも、私たちがこのマタイ福音書の最後のお言葉を読むとき、どういう受け止め方をしているでしょうか? 「ああ、イエス様はこれからあとも、弟子たちと共にいてくださったのだな」と、他人事のように読んでいるでしょうか? おそらく、多くの方はそうではないでしょう。「イエス様は、今も、私たちと共にいてくださる。同じ約束を私たちに対してもしてくださっているのだ」というふうに読んでいるのではないでしょうか。この受け止め方は、錯覚でもなければ、間違いでもない。2千年前の主イエスの約束、ペトロたちに向かってなされた約束を、今の私たちに向かってなされた約束のように受け止めることが出来る。これも、考えてみれば不思議なことです。どうして、そういうことが可能になるのでしょうか?
主イエスが天に昇られたからです。主が天に昇られたことには、ちゃんとした目的があるのです。天というのは、神のおられるところです。その神の御前に主イエスが昇って、何をなさっておられるのか。執り成しをしておられるのです。しかも、この執り成しは、十字架の上でなされた執り成しとは意味合いが全く違います。十字架上の執り成しは罪の赦しのためのものでした。しかし、天に昇られたキリストがなさる執り成しは、もはや罪の赦しのためではない。天におられる主イエスは、父なる神様と地上の私たちをつないでおられる。私たちが神様からそれて行く時も、心を遠ざける時も、たとい私たちが罪を犯して神様から離れるようなことになったとしても、主イエスがいつもつないでいてくださる。これがイエス・キリストが天に昇られて、成し遂げてくださる執り成しです。
天における執り成しというのは、時空の制限を受けません。「時空の制限」というのは「時間」と「空間」の制限ということです。時間の制限を受けないというのは、2千年の時を超えて、私たちがペトロたちと同じ約束を受けている、ということです。先ほど、マタイ福音書28章の約束の言葉を読みましたが、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束は、ペトロだけでなく、現代の私たちにも向けられている。「宗教改革までは面倒を見るけれど、そのあとは知らん」などとはおっしゃらない。主イエスの執り成しは時間の制限を受けないからです。また、主イエスは「ヨーロッパとアメリカのことは執り成しをするけれど、アジアは知らん」などとも言われない。主イエスの執り成しは空間の制限を受けないからです。主イエスの執り成しは、世の終わりまで、つまり主イエスの再臨まで変わることがない。これが「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束の本当の意味です。
さて、天に昇るキリストといえば、どうしても外すことの出来ない御言葉があります。それは使徒パウロがコロサイの教会に書き送った手紙の3章1節以下の御言葉です。
「あなた方はキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。」
天にはキリストがおられる。しかも、私たちを父なる神様に執り成すために天におられる。これによって、天が私たちにとって、ぐっと身近なものになりました。天の敷居は高くはないのです。だから私たちは、いつも心を高く上げ、天を見上げて生きることが出来る。まさにこのことによって、私たちは、パウロが言ったように天を本国とすることが出来るのです。
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当教会では「みことばの配信」を行っています。みことばに牧師がショートメッセージを添えて、一年365日、毎朝お届けしています。ご希望の方は以下のアドレスにご連絡ください。
以下は本日のサンプル
愛する皆様
おはようございます。今日一日が主の祝福の内にあることを願い、今日の御言葉を配信します。
5月25日(日)のみことば
「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(旧約聖書:イザヤ書61章1節)
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(新約聖書:ルカ福音書4章21節)
ルカ福音書によれば、主イエスがナザレの会堂に行かれたとき、イザヤ書の御言葉が開かれて、主イエスはこの御言葉の説き明かしをなさいました。そのとき読まれたのが今日の旧約の御言葉で、その解き明かしが今日の新約の御言葉です。イザヤ書の御言葉は、イザヤ書が書かれた時には、まだ成就してはおらず、いわば未来の救いを約束しているわけです。ところが、これを読んでイエス様は「この御言葉は、今日、実現した」と言われました。
未来ではない、いつの日かではない。今この時に、この御言葉は実現した。今のこの時、この日に、旧約の約束は成就した。今日なのです。だから、ルカ福音書は、要所要所に「今日、実現した」という福音の独自性を語るメッセージを語っています。降誕物語では「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使に語らせました。また、ザアカイの物語では「今日、救いがこの家を訪れた」と言われていました。そして、十字架の物語では、主イエスが共に十字架につけられた犯罪人に「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と言われたことが記されています。いずれも決定的な福音の到来を告げている場面です。ここに時の壁を越える福音の独自性があります。
